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書くとは、力強く足跡を残すこと。読むこととは、足跡から次の一歩を踏み出すヒントを得ること。

今年の4月に今年度は書くことを続けようと一念発起して以降、今日にいたるまで、様々な場所で、媒体で、目的で、自分の考えを伝えるために文章を書いてきました。


書くこととは、力強く足跡を残すことです。自らの中で曖昧なままになっている考えを文章に起こすことではじめてそれの形や大きさが分かり、ずっと後まで残るようになります。話すことは即興性や柔軟性に優れますが、人を経るごとにたちまち内容は減耗し、しまいには消えてなくなってしまいます。書くことは不安定な振る舞いをする考えや発話を切り取り、状態を固定するはたらきをするとも言えるのです。

書くことは形を定めます。伝わる文章を書く人は必ず、その文章の構成を考えるでしょう。そうすると、今から自分が述べようとしていることに対しての起承転結を構成することができます。自分が最も主張したい事柄に対し、どの根拠が直接指示しているか、どの例示が最も検討したい状況を良く表現できているかといったことを整理しているうちに論理のネットワークが見通せるようになるのです。

また、そうした取り組みは考えの大きさも定めます。文章の構成を考えているうちに、自分の考えがどこからどこまで及んでいるのか整理することができます。世の中の森羅万象について記述することは不可能ですから、こうして範囲を決定することで自分の考えがメリハリのあるものになります。

一方で、書くことは力強い営みでもあります。書かれたことで形や大きさが定まった考えは、文章となり半永久的に存続することができます。令和に生きる我々が大昔の文豪の作品をすぐに手に取ることができるのは、過去の「書く」営みのおかげなのです。


さて、そうして刻まれた足跡を眺めること、すなわち文章を読むということには、どんなご利益があるのでしょうか。我々は、文章を読むことで自らが持ち合わせていなかった考えを内包することができます。

文章から得る考えは、何も他人のものである必要はありません。なぜならば、自分の考えであってもひとたび自分から切り離されてしまうと他人のそれと大差がないからです。自分の当時の考えを再度振り返り、これからの自分の行動に還元することとはすなわち反省することを意味します。
アカデミアの世界では、自分以外の考えに対して特段の敬意をもってあたります。他人の考えは自分の考えの一部として排出されるそのときまで完全に区別されていて、引用でもってしかそれを参照することができません。過去の自身の公表物に対しても適切に引用しないと、いわゆる自己剽窃にあたります。

読むこととは、単に自分以外の考えを汲み取る行為ではありません。むしろ外来の考えを内包し、咀嚼することで新たな思い付きを得たり、これまでの価値観に変化を生じさせたりすることにこそ読むことの意義があります。思い付きや価値観の変化はこれからの自分の生き方に影響を及ぼす因子であり、たいていは自らの行動を通して作用していきます。つまり、読むことは未来へ資する営みであり、決して過去を振り返るばかりではないのです。


この頃、書くことと読むことが、情報の伝達手段として遅れをとっている向きがあります。文章は強烈な省略化・短縮化を受け、やせ細った状態で今の我々を記録し続けています。有史以来書くことと読むことによって人間は考えを進化・継承し、今日のように技術や文化が発展してきました。それゆえに、今日を生きる我々一人ひとりが今一度書く・読むという営みに敬意を払い、またそれを欠かさず行うことが求められています。

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