なぜ私たちは日々「頑張る」のだろうか?
秋学期も終わりを迎え、いよいよ期末試験や期末課題を残すのみとなった。授業の予復習に押しつぶされていた日々が終わり、試験対策に切り替えるまでの束の間の休息を取っているところだ。
さて、ここのところの多忙な生活を振り返っていると、一つの疑問を持った。「私はなぜこんなにも頑張っているのだろう(頑張らなければならないのだろう)?」
その理由は様々で、昨日あの瞬間が忙しかった理由は色々なタスクを同時に抱えすぎたためだろうが、そういった近視眼的な話をしているのではない。もっと人生全体にわたるような……そう、なぜ昨日も今日も明日もその先も頑張らなければならないのか、という話である。
ふと思いついたのは、将来の成功のためという理由である。高年収や充実した暮らし、幸せな家族など多岐にわたるが、そうした未来の自分にいい思いをさせるための頑張りという主張である。一見この理由は正しく思え、実際答えがそれである人もいると思うが、自分にとってはこれは誤りであるようだった。なぜならば、その目的を達成するだけならばいくらでも近道があるからだ。例えば、高年収であればコネを使ったり商社を志望したり外資を目指したりすればもっと楽に、それこそ3年生から就活準備を怠らなければ確約される未来であろう。
それでは、名声か?力か?それも違う。これらにもきっと近道があるからだ。
夢は少し近い……かもしれない。子供のころに将来の夢を持ったことはなかったが、今はそう言えそうなものは見つかったし、それに向けて日々頑張っているとも言えそうだ。しかし、それだけで今の自分を全て説明しきることはできない。
欠落変数は何か?現時点での私が出した答えは、「自分の生き方に満足できているか」ではないだろうか。日々真面目に目の前の物事に取り組み、あるときは先輩に教えを請い、あるときはそれを後輩に伝える。今日の自分より明日の自分が些細なことでも成長していたいし、嘘をついて自らを大きく見せることなく実直に生きたい。そうした自分の中にぼんやりとある生き方の指針(というと大げさだが)に背かないように日々頑張っているのだと思う。
頑張っているのは私だけではない。私が頑張っている間はもちろん、食事をしている間、寝ている間、ありとあらゆる瞬間で私以外の人も頑張っているのだろう。あまり人と比べてどうこうする質ではないが、近くで一生懸命何かに打ち込んでいる人を見ると尊敬するし、背筋が伸びる思いがする。ちなみに自分は結構な猫背である。
今は夢なるものに向かって邁進する毎日だが、たとえそれが実現したとしても、満足できるような生き方をするという大きな指針がある限り自分がブレることはないと安心できたことは収穫だった。まずは目の前の期末試験に備えて、勉強をしなければならないな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?