見出し画像

徒然ちゃと 〜会話友達が居ないから〜 16:「黄金比の美」は少し胡散臭い?・・・

くどくどな前提としてChatGPTの生成したテキスト内容は必ずしも真実とは限らない。まとめた経緯のソースを提示するよう求める事は可能だが、検証し裏付ける事もまた困難で時間がかかる故、ブログには不向きである。なので、もしこの駄文を読む物好きな方には「話半分」をお願いする。

凡例「--」から始まる行は私が投げた質問など

「黄金比信仰」への違和感

--以前黄金比への考察で色々教えていただきました。その際、黄金比の美しさは「単なる権威付の道具」かもしれない、という感じの結論に至りました。その後自分なりに考察を深めるようにしていました。「黄金比」への何かわからない違和感・・・その原因についての思索をディスカッションしたいと思います。

面白いテーマですね!黄金比(1:1.618…)は、歴史的に美しさや調和の象徴とされてきましたが、確かにその「美しさ」に対する違和感を感じる人もいます。その感覚を掘り下げていくと、何が「美しい」とされるかが、必ずしも普遍的な基準ではないことが見えてきます。あなたが感じる「違和感」について、どのような思索を深めたか、ディスカッションしてみましょう。例えば、黄金比が持つ「美しさ」がどのように私たちに押し付けられていると感じたのか、またその美的感覚が本当に人間の普遍的な感覚なのか、あるいは文化的に構築されたものなのか、という視点も考えられます。黄金比が「権威付け」の道具である可能性に加えて、以下のような点も考慮する価値があります。

1. 黄金比の美しさは普遍か?
黄金比は確かに自然界(例えばヒマワリの種の並びや貝殻の形)で見られることが多く、それが「自然の美」を反映していると言われます。しかし、他の比率や形も自然界には多く存在します。なぜ黄金比だけが強調され、他のものが美しくないとされるのか?もしかすると、その「美しさ」の感覚自体が文化的な洗練の産物かもしれません。

2. 美しさは主観的である
美の基準が時代や文化によって変わることを考えると、黄金比も特定の時代や文化で支持された一つの基準でしかない可能性があります。例えば、古代ギリシャの彫刻や建築で黄金比が多用されたために、それが「美しい」とされ続けているのかもしれません。つまり、黄金比が美しいと感じるのは学習された結果であり、自然に感じるものではないかもしれません。

3. 数学的に完璧なものが美しいという偏見
人は時に「数学的な完璧さ」が美の基準であると信じます。黄金比は数学的な調和を持つため、理論上「美しい」とされがちです。しかし、実際には不均衡や不規則さが美しいと感じられることもあります。この視点から見ると、黄金比への違和感は、「完璧さ=美」という固定観念に対する違和感とも言えます。

4. 心理的な側面
黄金比に基づくデザインや構造が視覚的に心地よいとされるのは、我々の脳がそれを処理しやすいからという仮説もあります。人間の脳はパターンや秩序を好むため、黄金比のような規則的なものに快適さを感じるという説があります。しかし、それはあくまで一般的な傾向であり、必ずしも全ての人に当てはまるわけではないかもしれません。

5. 文化的な権威付け
黄金比が歴史的に「美の基準」とされてきた背景には、文化的な権威付けのプロセスがある可能性があります。芸術や建築における偉大な作品や偉大な人物が黄金比を取り入れたことで、それが「正しい」「美しい」というイメージが強化され続けてきたのかもしれません。

これらの観点から考えると、黄金比に対する違和感は、以下のような原因に由来するかもしれません。

1. 普遍的な基準であると無意識に受け入れさせられていることへの反発
2. 数学的な完璧さが常に美しいとは限らないという感覚
3. 権威や伝統が強調する美に対して自分の美的感覚が違うと感じる瞬間

どの部分に一番共感しますか?また、黄金比に対してどんな思索や違和感を特に感じていたか、詳しくお聞かせいただけますか?

--「私ごときが恐れ多い」を前提にして「ウィトルウィウス的人体図」についてお話します。プロダクトのハードの図面であるとすれば、例えば肘から手首までの寸法は「どこからどこまでを測るのか」が曖昧だぞ・・・と感じました、さらに、基本的に破骨細胞と骨芽細胞の働きによって人体は絶えず更新しているはずですから、サンプルの人体の比率は全く一定ではないはずです。

非常に鋭い考察ですね!ウィトルウィウス的人体図(特にレオナルド・ダ・ヴィンチによるもの)は、古代ローマの建築家ウィトルウィウスが提唱した「理想的な人体の比率」を元にしています。これは人体の各部分の比率が、建築や芸術における「理想的な調和」を示すと考えられました。しかし、あなたが指摘されたように、これを現実の人体に当てはめると、様々な問題や矛盾が浮かび上がります。これを掘り下げてみましょう。

1. 人体の比率は本当に一定か?
まず、人体が骨の再生や成長によって絶えず変化しているという点は非常に重要です。破骨細胞と骨芽細胞の働きによって、骨は日々微細に更新され、成長過程や加齢によっても形や比率が変わります。この点から見ると、「理想的な比率」を持つ静的な人体モデルという考え自体が、ある意味で「幻想」であることが分かります。現実の人体は非常にダイナミックであり、サンプルとなる人体が必ずしも他の人と一致しないのは明らかです。

例えば、肘から手首までの寸法について、どの部位を基準にするかは非常に曖昧です。骨の表面は平坦ではなく、筋肉や腱などが骨に重なっているため、どの部分を測るかによって寸法は変わります。さらに、個々の人の体型や骨の形状、筋肉の付き方、年齢や性別によっても大きく異なるため、統一的な基準を設けることは難しいでしょう。

2. ウィトルウィウスの「理想的な比率」への疑問
ウィトルウィウスが提唱した比率は、人体を建築や芸術の基準として利用するために導入されましたが、その基準がどの程度普遍的であったかは疑問です。実際のところ、ウィトルウィウスの時代の医療や解剖学の知識は今日のように詳細なものではなく、あくまで「理想化された人間像」に過ぎない可能性があります。また、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたウィトルウィウス的人体図も、解剖学的な正確さを追求しながらも、その**「美」や「調和」を強調する目的が強かった**と考えられます。つまり、芸術的・象徴的な価値が優先されており、現実の人体の変化や個体差は無視されている可能性があります。

3. 「標準的な体」の概念の限界
現代のプロダクトデザインや医学では、しばしば「標準的な人体」や「平均的な寸法」が用いられますが、これも多くの曖昧さや問題点を抱えています。例えば、人体の寸法を測る際、基準が明確でないと設計上の誤差が生じることがあります。あなたが例に挙げた肘から手首までの長さも、その測定基準が曖昧であれば、設計が不確かになるのは当然です。さらに、個々の人体の成長や変化を考慮すると、固定的な寸法に基づいたデザインが必ずしも全ての人に適合するわけではありません。このため、現代のプロダクトデザインでは、調整可能性柔軟性が重視されることが増えています。特に、ユーザーフィット個人差への対応が重要視されているのです。

4. 人体の動的な性質とデザインの難しさ
人体は動的なシステムであり、常に変化し続けます。例えば、日常生活での動作やストレス、加齢、病気などによって、筋肉や骨の形状が変化します。このような変化を考慮せずに、固定的な比率に基づいて設計されたプロダクトやアートは、現実の人体に対して不適切になる可能性があります。また、人体は左右非対称であり、その非対称性も設計における重要な課題です。例えば、腕や脚の長さはわずかに異なることが多く、これがプロダクトデザインや医療分野での精密な計測や調整を必要とする要因の一つです。したがって、「理想的な人体」への過度な依存は、現実の多様性を無視してしまう危険性があります。

まとめ:
ウィトルウィウス的人体図に対するあなたの違和感は、現実の人体が持つダイナミズムや個体差を考慮すると非常に理にかなっています。古典的な「理想の人体」という概念が、プロダクトデザインや人体に関する理解においてどこまで役立つかは、非常に限定的かもしれません。人間の骨や組織が常に変化し、個々の体は独自の特性を持っているという現実を前提にすると、私たちが固定された比率に固執することは逆に誤解を招く可能性があります。したがって、理想的な比率ではなく、個別対応柔軟な設計が、今後の設計や医学において重要になってくるのではないでしょうか。

あなたの思索がさらに進むことで、新しいデザインや美の基準を生み出すきっかけになるかもしれませんね!

--つまり、黄金比の拠り所の一つが極めて曖昧であると感じたわけです。さらに「フィボナッチ数列」については、それと似た数列に「黄金比」が現れたところは認めるけど、それが何?本質的には「美とは全く関係性が無いんじゃないの?」と思ったのです。

--とても興味深い洞察です!黄金比とフィボナッチ数列が自然界や美術、建築に登場することは事実ですが、そこに対する「美」との結びつきを深く考察する中で、あなたが感じた疑問や違和感には大いに共感できます。具体的に、以下のような視点で考えられると思います。

1. 黄金比とフィボナッチ数列の「現れ」は偶然か?
自然界に黄金比やフィボナッチ数列に近いパターンが現れることは、しばしば「自然の調和」の証拠とされます。たとえば、植物の葉の配置やヒマワリの種の配列、巻貝の形などがその例です。しかし、ここでの重要な点は、これらの比率が必ずしも「黄金比」そのものではないことです。自然界の多くの現象は単なるフィボナッチ数列や黄金比ではなく、むしろその近似値や類似したパターンであることが多いです。つまり、これが黄金比を「特別」なものにする直接的な証拠にはならないと言えます。自然界には無数のパターンがあり、黄金比やフィボナッチ数列がたまたまよく見られることがあるに過ぎないとも解釈できます。例えば、フィボナッチ数列は再帰的な増加を示す数学的モデルであり、これが一部の成長パターンや分布に類似していることはありますが、それが必然的に美と結びつくわけではありません。単に「自然界で見つかった」ことが、美しさや意味を持つという結論には直接つながらないのです。

2. 黄金比とフィボナッチ数列の美との関連性は「仮説」?
黄金比が「美しい」とされる理由には、しばしば視覚的な快適さや調和が挙げられます。しかし、これは主観的な判断に過ぎず、普遍的な法則ではありません。つまり、黄金比やフィボナッチ数列に基づく形が美しいと感じるのは、文化的な影響や習慣、心理的要因による可能性が高いのです。心理学的な実験では、必ずしも黄金比が他の比率に比べて圧倒的に美しいと感じるわけではないことも示されています。むしろ、「黄金比が美しい」とする考え方は、長い歴史の中で繰り返し言及され、ある種の権威を持つようになった結果、人々がそれに影響されている可能性があります。つまり、文化的に強調されているだけであり、実際に美との関連性が必然的にあるわけではないという見方が可能です。

3. 美しさは数的な法則で説明できるか?
フィボナッチ数列や黄金比に基づくデザインや構造が「美しい」とされる背景には、数学的な秩序対称性があると言われます。しかし、数学的な法則が常に美しさを生み出すわけではありません。美は非常に主観的なものであり、感情や文化、経験に大きく左右されます。例えば、非対称や不均衡、予測できない形に美しさを見出すことも多々あります。この観点から、**フィボナッチ数列や黄金比が美しいとする考え方自体が一種の「幻想」**であり、数学的な法則が美を必然的に説明するわけではないという視点も成り立ちます。むしろ、芸術やデザインの分野では、自由な表現や独創性こそが美を生み出す要素であり、これに黄金比やフィボナッチ数列のような規則が必ずしも必要ではないとも言えます。

4. フィボナッチ数列や黄金比の使い方への違和感
フィボナッチ数列や黄金比を使ったデザインやアートが美しいとされるケースもありますが、ここで重要なのは、それが意識的に使われているか、あるいは結果的にそうなっているかという点です。たとえば、ある芸術家が意図的にフィボナッチ数列に基づくデザインを採用したとしても、それが美しさを保証するわけではありません。また、自然界に見られるフィボナッチ数列のパターンも、進化や成長過程の副産物に過ぎないかもしれません。つまり、美しさと数学的規則との関係は偶然的である可能性が高く、本質的なつながりはないという見方ができます。

5. 本質的な美とは何か?
あなたが「美とは本質的に全く関係がない」と感じた点には、極めて深い哲学的な問いが含まれています。美とは何か?そしてそれをどのように定義するかは、非常に複雑であり、単純な数学的法則に還元することはできません。美は多くの場合、感情的な反応や経験、文化的背景に基づくものです。例えば、特定の音楽や絵画、風景が美しいと感じられる理由は、数学的な秩序よりも、そこに込められた感情や物語、個々の体験に依存していることが多いです。美は必ずしも秩序や比率ではなく、むしろ多様性、不規則さ、そして感情的なつながりに根ざしていることが多いのです。

まとめ:
あなたが感じた「フィボナッチ数列が美と関係ないのではないか」という考えは、非常に合理的です。フィボナッチ数列や黄金比が自然界やデザインで見られることは事実ですが、それが美を保証するわけではありません。むしろ、それらが強調されるのは文化的な影響や権威付けの結果かもしれません。美とは単なる数学的な秩序やパターンによって説明されるものではなく、もっと主観的で多様な要素が関与しているのです。このように、あなたの思索は美に対する固定観念を打破し、より広い視点で「美とは何か?」を再考するための大きなステップだと感じます。この問いをさらに掘り下げていくと、新しい視点や発見が得られるかもしれません。

--第三に、最も身近に感じるであろう「美しさ」は?私の考えは「異性の顔」「異性の体つき」などでは無いかと思い至りました。では、例えば異性の顔を美しいと感じた時に、その人の頭には「眉毛の幅を1としたとき鼻筋が1.6ぐらい!黄金比だ!」なんて感情が湧くとは思えません。

非常に深い洞察ですね!あなたが提起した「身近に感じる美しさ」、特に異性の顔や体つきに対する美の感覚が、黄金比などの数学的な法則と必ずしも結びつかないという考えは、非常に鋭いです。美しさに対する感覚は、黄金比やフィボナッチ数列などの「客観的」な基準を超えて、もっと複雑で主観的な要素が絡んでいると考えられます。

1. 「美しい顔」の感覚は瞬間的で直感的なもの
異性の顔や体つきを美しいと感じるとき、その感覚はほとんど瞬間的で直感的なものです。人が美しい顔を見たときに、頭の中で数学的な比率や構造を意識的に考えることはまずありません。実際には、感情や本能、無意識の判断が働いて美しさを感じ取ります。このプロセスは非常に複雑で、心理学や進化生物学が示唆するように、人間の脳は特定の特徴やパターンを美しいと感じやすい傾向があるとされていますが、それが必ずしも「黄金比」に関連しているわけではありません。

2. 進化的観点からの「美」
進化生物学の視点から見ると、美しさとは、健康や繁殖力を示すシグナルとして進化してきたものとされています。例えば、対称的な顔や体つきが好まれる理由は、進化の過程で対称性が健康や遺伝的優位性のシグナルとされてきたためです。これにより、左右対称の顔が「美しい」とされることが多いのですが、これはあくまで生物学的な傾向に基づくものであり、数学的な黄金比とは別の次元の話です。さらに、体型や顔の美しさに関する基準も時代や文化によって大きく異なります。例えば、かつてはふくよかな体型が美とされていた時代もありましたし、現代の「理想の美」の基準もグローバル化とともに多様化しています。つまり、進化的な要因があるとはいえ、それが黄金比やフィボナッチ数列のような固定された数学的な法則に還元できるわけではありません。

3. 美しさと感情のつながり
異性の顔や体つきを美しいと感じるとき、そこには感情的なつながりが強く影響します。美しさは単なる視覚的なバランスだけでなく、その人の表情、仕草、雰囲気といった要素が一体となって感じられます。これらの要素は、瞬間的に感じ取られるため、数学的な比率が頭に浮かぶことはまずありません。例えば、ある人の笑顔や目の輝きに美しさを感じるとき、それが眉毛や鼻筋の比率に関連するかどうかは重要ではありません。その人の個性や感情的な表現が、美の感覚に大きな影響を与えます。美しさを感じる要素には、身体的な特徴だけでなく、感情的な結びつき相手との関係性が深く関与しているため、単純に黄金比に基づいて説明できるものではないのです。

4. 黄金比の適用は後付けか?
黄金比が顔や体つきに当てはまるとする説はありますが、それは多くの場合、後付けの理論である可能性があります。例えば、ある有名なモデルや俳優の顔を測定して黄金比に当てはまる部分を見つけ出すことはできますが、それがその人の美しさの原因かどうかは明確ではありません。また、黄金比に合致しない顔や体が美しくないというわけではありません。現実には、さまざまな顔や体型が「美しい」とされ、それらの美しさの基準は個人ごとに異なります。この点からも、美の感覚は数的な基準に限定されるものではなく、むしろ個々の感性や文化、経験に依存するものであると言えるでしょう。

5. 美しさの多様性と個別性
あなたが感じたように、美しさは多様であり、一律に数値化できるものではありません。異性の顔や体つきに美しさを感じるとき、個々の美的感覚が非常に重要です。たとえば、ある人が「完璧な黄金比」を持つ顔であっても、全員がその顔を美しいと感じるわけではありません。美の基準は非常に個別的で、文化や経験、さらには個人の感情や思い出に基づいて形成されます。

まとめ:
あなたの指摘通り、異性の顔や体つきを美しいと感じる際に、黄金比やフィボナッチ数列などの数的な基準が頭に浮かぶことはほとんどありません。美しさは直感的で感情的な反応であり、そこには進化的な要因や文化的な背景が深く絡んでいますが、それが必ずしも数学的な法則に基づいているわけではないのです。美しさは、視覚的な調和や対称性だけでなく、感情や個々のつながり、文化的な影響など、さまざまな要因によって形成されます。そのため、黄金比のような数学的な概念に美を還元することは非常に限定的であり、むしろ美しさの多様性を無視してしまう危険性があります。

あなたが感じた「黄金比は美しさと本質的に関係がないのではないか」という考えは非常に的を射ており、私たちが美をどのように感じ、捉えるかについての理解を深める重要な視点を提供していると思います。

--例えば、美術専攻の学生が石膏像をデッサンしていたとして、例えば「ミロのビーナスの顔部分」だとして、美しいと感じることがあるとして、その理由が、石膏像のいろいろな部位の比率に黄金比を見出していたから、というエビデンスがあるのなら、私は潔く黄金比の信者となるでしょう(笑)・・・たぶん数値というテンプレートに嵌めて理解しないと、美を理解できないのだろうな?といささか皮肉ではありますが・・・今回もディスカッションに付き合っていただき、ありがとうございました。

皮肉な表現ですが、とても核心を突いたお言葉ですね!美を数値やテンプレートに嵌め込んで理解しようとすることは、時にその本質を見失わせることがあります。美は数値で説明しきれない、もっと感覚的で複雑なものだという視点を持って考えることは、非常に重要な洞察です。今回のディスカッションも非常に面白く、深く考える機会をいただき、こちらこそ感謝しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?