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日本へ帰国 → 事件が...

真夏の蒸し暑い東京に戻ってきました。1995年6月末のことです。ギムナジウムの卒業式の翌日に帰国し、その翌日から予備校がスタートしたので、時差ボケになる暇もありませんでした。

大学に入学するまでの9ヶ月間にわたる受験生活が始まったわけですが、ドイツにいる間は特にこれといった準備はしませんでした。強いて言うなら、予備校への申し込みや生活拠点となる宿舎の選定、あとは入試が直前に迫っている大学の願書を取り寄せたぐらいです。ドイツ滞在中はアビトゥア関連で忙しかったこともあり、その他については、予備校で最新情報を入手してその都度対応すればいいかな、と判断しました。

僕が通った予備校は少人数制で、生徒数は一クラスあたり10人程度、合計3クラスぐらいしかありませんでした。生徒のほとんどは英語圏出身。隣のクラスにはデュッセルドルフからの帰国者がいましたが、その人はインターナショナルスクール出身だったので、ドイツの現地校卒業者は自分のみでした。

予備校が高田馬場にあったことから、生活拠点は目白に。僕が住んだ雑司ヶ谷はどこに行くにも便利な上、どことなく昭和のノスタルジックな雰囲気が漂う街。また、都心にしては緑が多く、自然豊かなドイツに生まれ育った僕は、この街に安らぎを求めることができると、かなり早い段階で確信したのでした。夏目漱石が埋葬されていることで有名な『雑司ヶ谷霊園』や、400年以上にもわたって人々を見守ってきた『鬼子母神』。さらには、アメリカ人宣教師のマッケーレブが30年以上、宣教活動の拠点としていた『雑司ヶ谷旧宣教師館』や、商店街に立ち並ぶ、まるで映画のセットのような精肉店や八百屋さん…自分が行き詰ってしまったときなど、この街をただ歩いただけで、どれだけ癒されたことか。

しかし、長年ドイツに住んでいただけに、自分の中の常識が覆されることも度々。

事件は会議室でも現場でもなく、宿舎の浴場で起きました。入浴しようとした際、先に誰かが浴槽に浸かっていることに気づいたので、僕はその人に向かって元気よく「こんにちは!」と挨拶しました。するとお兄さん、「なんでオレのことを知らないお前が、いちいちオレに挨拶するの?!」と言わんばかりの顔で、僕のことを凝視するではありませんか!

ドイツでは、他人同士でも挨拶することは割と一般的。例えばレストランに入った際、となりのテーブルにいる人と目が合ったら軽く会釈します。それだけに、浴場でビックリされたときには、逆にこっちが驚きを隠せませんでした。

さらなる災難に見舞われたのは、エレベーターに乗ったとき。ドア付近に女性が立っていたので、降りようとした際に「お先にどうぞ」という合図を送ったら、かなり面倒くさそうに「いや、どうぞ」と、先に出るように促された僕。あれ?!これがドイツであれば、言われた人は「ありがとう!」と感謝して先に降りるのに!

これらのケースを通じて、「日本に長年住んでいると、他人から意識されることに違和感を抱くようになるのかなぁ」と、不思議に思ったものです。真相は闇の中でしたが、とりあえず、浴場での挨拶は封印し、エレベーターでは周りを意識することなく乗り降りするように。そうする自分が、まるで自分ではないような錯覚を抱いたりもしましたが…。

話を受験に戻しましょう。結論を急ぐようでなんですが、帰国子女が日本で受験するに際しては、以下の課題と向き合うことになると思います(少なくとも僕の場合はそうでした):

  • 自分が帰国子女であることをどのように活かせるか(活かすべきか)

  • 論理的思考力、漢字力、情報収集力

  • (場合によっては)孤独との戦い

というわけで、今後数回に分けて、予備校の様子や帰国子女枠入試のプロセス、試験内容などについて綴っていきたいと思います。

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