デス・レター(エヴァーグリーンについて)
唐突な話だが、俺はボブ・ディランが好きだ。Highway 61 Revisitedなんて、何回聴いたか分からない。俺が歌うようになったのは彼のおかげだ。
だが、彼が今アルバムを出しても、おそらく買わない。
ダーティ・プロジェクターズが好きだ。アメリカ東海岸の学生たちがわらわらと集まって、なんとなく始まったバンドなのだが、固定メンバーは事実上ひとり、茶瓶、箸など思いもよらない日用品まで楽器にして、ブロードウェイミュージカルに強い影響を受けた音楽性、と、書いているだけでなんだかわけのわからない集団である。
彼らのアルバムは、出たら即買って聴く。
The Dead Southというバンドが好きだ。カナダ出身(だったかな?)の4人組。ヴォーカル/ギター、バンジョー、マンドリン、チェロ(!)という編成で、アメリカーナ(西部劇によく出てくるような音楽、と思っていい)とメタリカを掛け合わせたような、不思議にヒリヒリほっこりする曲を演る。
彼らの新曲も、出たら必ず聞く。
ザ・バンドは、俺にとっての神様だ。メンバーのほとんどが亡くなってしまい、残るはガース・ハドソンひとりになってしまった。歌に迷った時、俺は彼らの曲を聴く。リヴォン・ヘルムの正直、リック・ダンコの繊細。狂おしいほど切ない曲の数々。
だが、今もし、彼らが生きていて新作を出しても、俺は買うかどうかわからない。
つまり俺はこう思っている。アーティストには「芯」がなければならない。「芯」とは、伝統であり、伝統をそう足らしめている強固な思想と、信念である。アーティストには「今」がなければならない。「今」とは、突然であれ、じわじわであれ、聞くものに驚きを以て迎えられるもの、凡人が通常考えつかないもの、のようなものであろう。
あるアーティストの曲がいわゆる「いい曲」であることだけを以て、それを神格化することを、俺はしないし、彼なり彼女なりのファンになることも、まずない。「いい曲」であることは必須だが、俺にとっては、それ以上に何の価値も持たない。そこに、意匠なんだか思想なんだか分らんが、何か驚くべきものがないと、俺は振り向かない。まして、その「いい曲」でさえ、伝統と新奇の混合物である必要がある。型にはまった物以上のものが、俺にはほしい。
この原稿は、SNS上である方が、日本のシューゲイザーのアーティストがいて、いい曲だよ、と呟いていたことがきっかけである。一聴、なんだ、彼らは単に、フォークミュージックにリバーブ轟音をかぶせただけじゃねえか、と白けた。日本のフォークという伝統は、あるにはある。だが、全く驚かなかった。
「いい曲」というのは、俺には高々この程度の響きしかない。つまらなかった。
こういう俺は傲慢だろうか?そうだそのとおりだ。わがままだろうか?これもそのとおり。だが、リスナーというのは、本来わがままではなかったか?俺のこのわがままが世間に通らないのなら、それは、惰弱なアーティストと惰弱なリスナーのもたれあいという可能性はないのだろうか?
我々今を生きるアーティストは、過去の財産に常に敬意を持たねばならない。積み重ねたものを吸収し、現状に対応するための強さを持たねばならない。一方で我々は、現状の一歩先を歩まねばならない。我々が、「まさかこう来るとは思わなかった」ことを実現せねばならない。X年代のリヴァイヴァルかもしれない。ビョークのような、全く未知のものかもしれない。リスナー歴ウン10年のオッサンオバサンをして、「なんだこれは⁉」といわしめるもの。それは、ファッションデザイナーの営為に似ている。
この地平に立てば、単なる「いい曲」をもてはやすことは、レトロそのものであり、「懐かしのメロディ」と何の違いもない。エヴァーグリーンとは、何と惰弱な言葉だろう。