見出し画像

デス・レター(普遍性とは何か:Garage6に向けて)

一見、ロックとは関係ないことから、この拙稿は始めたい。

俺は、総合格闘技のファンでもある。コアファンというほどではないが、KOや極めで一瞬のうちに勝敗が決まるのが爽快である。
その団体のひとつに「ボンサイ柔術」なる団体がある。奇矯な名前が目を引くが、無類の強さでもまた光るものがある。ホベルト・サトシ・ソウザ、クレベル・コイケ、ヒロ・ヤマニハ…いずれ劣らぬ猛者揃いだ。彼らはブラジリアン柔術の血脈であり遠くグレイシー柔術の「孫」である。

彼らは試合後、リングの中央で土下座のお辞儀をする。なぜか。わかりきったことだ。それが武道のしきたりだからだ。柔道のしきたりを踏襲しつつ、時代の空気に合わせて少しずつ、新奇なものを加えていき、場合によっては無用な物を削ぎ、今、彼らはRIZINのリングに立っている。

普遍性とは、こういうことである。すなわち、普遍性を核にして、新奇なものが出入りして、河のように後世に向かって流れてゆくものだ。

日本のロックに、これがあるか?と俺はいつも問うている。ロックのルーツは差し当たりzeppelinでありボブディランであり、彼らもまた、ブルースを源流としている。現在の欧米のアーティストたちはおそらく、彼らを聴きまくっている。あるいは日常生活の中にオールドロックが遠普通にある。自覚するとしないとに関わらず、ロックの「しきたり」は受け継がれる。

ボンサイ柔術が静岡県の磐田市に拠点を置いた時、その「しきたり」を踏襲しようとする事は、「自然にある」から「主体的・使命感」に変わっただろう。朝倉未来がただの喧嘩番長から総合格闘家に脱皮した時、彼が自らに促した反省は、「俺には責任感がなかった」という事だったそうだ。彼の「責任感」は、ボンサイ柔術磐田支部の主体性と同意である。

日本のロックに、これがあるか?

俺たちがGarageを開催する時、いつも心に留め置く事は、この事だ。断っておくが、俺はしきたりというものに、どちらかというと反対である。学校教育、とりわけ部活におけるしきたりの陰惨さを嫌悪する者である。だが、しきたりというタガが外れた時、人は基準を失ってメチャクチャになるのではないだろうか。「郷に入っては郷に従え」を、陰湿でなく遵守できるか。鍵はボンサイ磐田と朝倉にある。このことを忘れてはいけないと、俺は思う。ロックは、欧米のものである。

そう思って、デイヴィッド・バーンの「アメリカン・ユートピア」を見返した。彼の、40年も前の曲が、今も尚感動できるばかりか、新鮮な輝きさえ持つのは何故か?ボンサイ磐田や朝倉と同じ覚悟が、バーンにあるからだ。それは、普遍性の核しか見てこなかったドゥービーブラザーズ再結成とは対極のスタンスである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?