
小野フランキスカの断綴性言語
まいったな。
ついさっき眠りにおちたと思ったのに、気がついたらまたここに立っている。
いるかいないかもわからないのに、あなたに「会える」かもしれないと期待している。
顔にあたる空気が冷たい。
手袋をした手で頬をおおう。
あたたかい。
あなたの顔も冷たい?
わたしがあたためてあげるね。
わたしのからだを引き裂いて、わたしのなかを流れている血潮をぜんぶ、あなたに注ぎかけてあげる。
たぶん、きっと、あたたかい。
あ…… あなたらしきひとかげがみえる?
だけど水面からたちのぼる蒸気が世界ごとあなたを隠してしまうから、わたしはあなたの姿を目視することができない。
隔たる距離が声の波を減衰させてしまうから、ここではかんたんな信号をもちいた定型のメッセージしか送受信できない。
わたしがあなたに聞きたいのは「いますきな曲はなに?」ってことや「なにかおいしいもの食べた?」ってことやあなたの将来のゆめのはなしで、わたしが伝えたいのはことばではなく体温や感触なのに、こんな単純なシグナルではどれひとつ伝えることができない。
まいったな。
こんなにもあなたのことがすきだから、もっともっとあなたをきらいにならなくちゃ。
横にひらいた口のはじから、白く、熱い息を吐く。
小野フランキスカはいつもと変わらない時間に目を覚ます。
窓をあけて朝の冷たい空気を吸い込む。
橋のたもとで顔が冷たかったことを思い出す。
あれは夢だったのか、それともほんとうにもういちどあの場所を訪れたのか、記憶があいまいだ。
ナオに橋の話を聞いてほしかったのを思い出して、スマホを手に取る。
今日の予定をたずねると、「だいじな用があるからまたこんど」って返ってくる。
ここんとこのナオはなんだか忙しそうで、まえみたいに声をかけたらいつでも構ってくれるって雰囲気ではなくなった。いや、じっさいは文句を言いながらもかまってくれるのだけど、なんだかちょっと気が引ける。
図書館や各地の資料館を訪ねてなにか調べものをしているから、「なに調べてるの?」って訊いたら、「ちょっと気になることがあって」とお茶を濁す感じだったので、それ以上は訊いてない。
冬休みでひとの少なくなった早朝の町を歩く。
こんなふうな休日感のある朝はすきだ。動き出すまえの世界を、わたしがひとりじめしている気分を味わえる。
いつもとおなじマップなのに配置されたNPCがちがってるって感じで、なにかとくべつなイベントが起きそうな予感がする。
いつもどおりに落ち葉を掃くおばあさんや、信号機にとまって悠然としてるユリカモメや、建物のすきまからとびだしてくるねこちゃんはわたしの同士だ。見かけたらこころのなかでかってにエールを送る。
お昼まえ、小野フランキスカがキャンパスを歩いていると、いつもならいないようなところでナオをみかける。
声をかけようとして、ナオがだれかと話しているのに気づき、あげようとした手をおろす。
小野フランキスカの知らない子だった。いや、キャンパスではよくみかける子だった。
「よくみかける」どころか、気がつくと目の届く範囲にいて、こちらをみている気配を感じていた。あれはナオのことをみてたのか、と小野フランキスカは思う。
その子はいま、ナオの顔をみつめて、にこにこ笑って話をしてる。
(だいじな用って、これかな)
だって、ナオも楽しそうに笑ってるじゃないか。
ちいさなとげが小野フランキスカの胸を刺す。
小野フランキスカはすぐに刺さったとげを抜いて、捨てる。
ナオにだってわたしの知らないつきあいがあるのはあたりまえで、ナオはわたしだけのものじゃない。
わたしが甘えたいときにはいつでも甘えさせてくれてたけど、それはナオの「やさしさ」で、ほんとうはわたしのことは「だいじ」じゃなかったのかもしれない。
わたしはナオじゃないものを求めようとしているくせに、ナオにはわたしだけを求めてほしいなんて虫がよすぎる。
ナオがわたしじゃないものを「だいじ」に思っていることを知っちゃったら、わたしはもうナオにわたしのことを「だいじ」に思ってほしいなんて思えないな……
(だめだ……)
とげを抜いたあとがひろがって虚ろな穴になってゆく。
小野フランキスカはじぶんがいたことを気づかれないようにその場を立ち去る。
キャンパスを避けて、いつもは行かないコーヒーショップに入ったとき、小野フランキスカのスマホが鳴る。
期待してしまうじぶんがいるのを感じる。
着信は、アトルくんのお母さんの弓子さんからだった。
期待はからまわりしたけど、弓子さんからのメールはずいぶんひさしぶりだったから、すぐに開いてみる。
メールには、アトルくんがこっちの高校を受験するってことが書いてあって、アトルくんもう中三なんだ、って思う。
ちかぢか下見に行く予定があるから、よかったらわたしに案内してほしいとあって、わたしはちょっとためらう。
アトルくんのことはいとしいと思うけれど、あれから六年経つんだもんな。もうわたしが知ってるアトルくんじゃないかも。
小野フランキスカは、中三のバレンタインに男子から告白されたときのことを思い出す。
あのとき、だれかにとくべつな好意を向けられることをはじめて意識して、意外なおどろきと、ちょっとときめきもしたんだけど、じぶんがだれかだけのものになるってことが考えられなくて、やんわり断った。
それに、ナオといっしょにいる安心感のほうがすきだったから、それからさきも恋愛からは距離を置いたのだ。
中三かぁ、もしアトルくんが告白とかしてきたらやだな……と考えてみて、それはちょっと背負いすぎかと自嘲する。
アトルくんにそういった感情がないとしても、いまのわたしにはもう前みたいにアトルくんを抱きしめてあげられる自信がない。
そう思うと、小野フランキスカは弓子さんのメールに返信するのが億劫になる。
とりあえず「都合がつけば」ということだけ返して、閉じる。
日がおちて夜になる。
小野フランキスカはひとり、部屋にうずくまり、じぶんの胸のうちを覗いている。
だれかだけのものになりたくないのに、だれかはわたしだけのものであってほしい。
だれからも好かれたいとおもっているくせに、こちらから好きになる相手は選んでいる。
わたしがすきなひとには、わたし以外のひとをすきになってほしくない。
ずいぶんよくばりになってしまったな、と思う。
だから■はいやなんだ。
わたしがわたしでなくなってしまう。
だけどどうしようもない。
それが■だから。
蓋をして、なかったことにできたらいいと思う。
いや、この気持ちをできるだけ長くつづかせてずっとひたっていたい、と思う。
出会ってしまったことを恨みながら、出会ってくれてありがとうって思う。
散らかった気持ちの整理もつかないままで、小野フランキスカはまた眠りにおちる――
橋のたもとに立つ。
あなたを待つ。
あなたが来ても来なくてもかまわない。
待つことが、わたしを満足させる。
あなたがあらわれそうな時間にはバックルームのとびらをひらき、ほかのなにをさしおいてでもあなたを待つ。
もし「会う」ことができれば、それだけでしあわせだ。
あなたを語ることばも、あなたにかけることばも、いまとなってはずたずたに切り裂かれた断片となり、呂律もまわらず、発語することさえままならない。
まいったな。
こんなにもあなたのことがすきだから、もっともっとあなたをきらいにならなくちゃ。
そうすればまた、まえみたいにナオと手をつないだり、アトルくんを抱きしめてあげたり、みんなを受け入れてあげることができるのに……って思って、そんなことないって思う。
そんなことでわたしの〈罪〉は消せないし、ゆるされない。
でも、いい。
わたしの罪はじぶんで雪ぐ。
横にひらいた口のはじから、白く、熱い、息を吐く。
あ…… あなたらしきひとかげがみえる?
next»
«prev
いいなと思ったら応援しよう!
