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世界ラリー選手権に見る『危険の芽を摘む』違和感と『自己責任論』

今日から24日まで、愛知県と岐阜県で世界ラリー選手権が行われるのはご存知でしょうか。

『競技用車両』や『ラリーカー』と呼ばれる、市販車両にルール範囲内で改造された車が公道や競技場を、時には時速200㎞を超えるスピードで走る、そんなイベントです。

私はこのイベントのことを会社の同僚から耳にしたのですが、このラリーを観戦するルールというのが、その人曰く日本と海外とで微妙に違うそうなのです。

その人曰く、日本の場合このラリーを観戦していいのはあくまでもチケットを買った人のみで、ほかの人は観戦不可、またラリーの沿線に住む人は家から出ない、もしくはほかの場所に退避するルールとのこと。

一方、海外で開催される場合はあくまでも自己責任ということで、チケットを持っていなくてもラリーの沿線で観戦してもいいようなのです。

このように見ると、日本は危険の芽を事前に摘んでおくべく、ルールがきっちり設けられていて、海外はあくまでも自己責任(見に来てもいいけどケガしても知らね)な印象を受けますね。

ラリーの大会は競技の特性上、下手したら怪我人・死者が出るものなので、一素人がルールに口を出すつもりはないのですが、この『危険の芽を事前に摘んでおく』に関しては、子どもの学校のルールともつながり、思うことがありました。

『危険の目を事前に摘む』問題

我が子(小1)が通う小学校は普通の公立ですが、入学前説明会にてノートや下敷き、鉛筆や消しゴム、ノートなど、身の回りの文房具類はほとんど学校指定のものを購入するよう、学校から指示がありました。

直接学校に聞いたわけではありませんが、私の子どもの頃の経験も踏まえると、おそらく持ち物トラブルがクラス内で絶えず、そのようなトラブルの芽を摘むために持ち物の大半を学校指定にしているのでしょう。

ただ残念ながら、同じ小学校で四年生以上のお子さんを持つ保護者の方に話を聞く限り、ある程度学年が上がると学校指定の持ち物を使うルールは形骸化してしまい、結局中学年や高学年になってから友達との持ち物トラブルが頻発するという話でした。

学年が上がってから文房具でのお友達トラブルがあるなら、低学年のうちから自由に持たせればいいじゃないかと、私は思ってしまいました。

しかし昨今は学校教諭も人手不足の時代です。元気いっぱいな低学年の子どもの学習を見つつ、持ち物トラブルをケアするとなると、小学校低学年の担任の先生の負荷はとてつもないものがあります。その負荷に配慮して、持ち物トラブル発生による先生の労力がないよう、持ち物指定ルールが生まれたのかなとも思いました。

ルールでがんじがらめにせず、子どもの自主性に任せてくれよ、と正論で声を大にして言いたいところではあるのですが、それを監督する学校側・先生方の労力を考えると、なかなか一方的に自由にさせろ!と声高に叫ぶのも昨今の人手不足の状況ではちょっと難しいのかなと考えました。

持ち物を自由に持たせてトラブルを先生にも対処してもらう代わりに、PTAなどで先生の作業を肩代わりするなど、何かを主張するなら自分はどのようなリソースを差し出せるのか、考える必要がありそうです。

『自己責任』問題

また、私は海外での世界ラリー観戦について『自己責任』と表現しました。
この自己責任という表現にも思うところがあります。

今回の世界ラリー@海外開催の場合、あくまでもラリーの車が自分に直撃して大けがしても自分で良いと思えるなら観戦してもいいよ、ということなので私は海外のルールには賛成です(嫌なら見に行かなければいいので)。

いかなることが起ころうとも、それでも本人が良いならそれを尊重するのは、個人を尊重する考えで私は良いなと思いました。

一方で、『自己責任』という表現が嫌な文脈もあります。
それは、政府や自治体の失策が原因で困っている人たちに自己責任論をぶつける文脈です。

例えば就職氷河期にぶち当たってなかなか思うように定職につけなかった団塊ジュニアの方々や、少し前の『保育園落ちた日本〇ね』問題で話題となった保育園に入れなかったご家庭の方々です。

『団塊ジュニアであろうと、自分の財産を築けないなんて自己責任』『保育園に入れないなんて自己責任』などど、Xなどでは人を突き放すような過激なポストをしばしば目にしました。とはいえ、団塊ジュニアとして生まれることや保育園に入れるかどうかは、自分でコントロールできる問題ではありません。

保育園に関しては保活を頑張ればなんとかなるだろう、という意見もあるのですが、本来行政が担うべきポイントを個人の努力問題にすり替えている点で個人的に違和感を強く覚えます。これでは問題の本質を見失ってしまいます。

ラリーを見に行くことと団塊ジュニア・保活問題、いずれも自己責任という表現が使われますが、その意味は文脈によって個人の尊重にも、正論として人を突き放すことにも繋がるなと考えた次第です。

ということで、今週末にかけて開催される愛知・岐阜での世界ラリーの話から、全然関係ない危険の芽を摘むことへの違和感と自己責任論について考えてみました。

ラリーを見に行かれる方はお気をつけて観戦してきてください!
それではまた!

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KASHIWA@マイノリティキャリア
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