カンガルー日和(村上春樹)

18個のおはなしの詰まった短編集。初めての村上春樹でしたが、この独特な世界観にハマって、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」をいっきに読み切ってしまった…。それらの感想はまた後日。

この短編は星新一っぽい要素もあって、メルヘンチックな感じ。「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に会うことについて」「あしか祭り」「スパゲティーの年に」あたりがお気に入りでした。

○4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に会うことについて
タイトルからしてこの季節にぴったりで、くりかえし読んでいます。わたしも100パーセントの男の人に話しかけられたい人生だった…。

それにしても、平たく言ってしまえば、女の子をどうナンパするかってだけの話なのに、どうしてこんなにも切なくて、このシチュエーションに憧れを抱いてしまうのか、不思議。

○眠い
主人公の彼女は、ドレスを着ていて、髪もきっとさらさらで、コロンのいい香りがする。主人公にはもったいないくらいの理想の女性像って感じ。それなのに、

「あなたのように世の中をはすに眺めているよりずっとましだと思わない?」

とか

「復讐よ」

とか、核心をついた発言をするので、さらに魅力的に見える。

○タクシーに乗った吸血鬼
幽霊は認めるけれど、吸血鬼は認めないという主人公がタクシーに乗る話。以下引用。

「幽霊というのはつまり肉体的存在に対するアンチ・テーゼだな」

「しかし吸血鬼というのは、肉体を軸にした価値転換だ」

肉体の周りにいるのか/それ自体を起点にしているのか、という発想が斬新で面白い。

○あしか祭り
あしかが突然やって来るのに、なんで平然としていられるの?!ってツッコミたくなる(笑)

いろんな解釈が出そうだけど、人間がうまい話に乗りやすく騙されやすい生き物だということをあしかは知っていて、そこにつけ込んできたのかなと思った。側から見れば全然どうでもいいことなのに、簡単にお金払っちゃう人がたくさんいるってことの暗示…?

「メタファーとしてのあしか」と書かれたワッペンをあしか自身が持ってくるあたり、気味が悪くてすき。

○1963/1982年のイパネマ娘
レコードの中の女の子は齢をとらない。

「だって私は形而上学的な女の子なんだもの」

主人公は1963年と1982年に彼女に会う。1回目、彼女は彼の存在に気付きもしなかったのだが、2回目はちゃんと会話している。女の子は変わっていない。となると、主人公が年を経て魅力的になったということなのでは…。

○バート・バカラックはお好き?
こちらも発想が面白いと思ったので、引用します。レストランにシンプルなハンバーグ・ステーキを食べにきたのに、メニューに載っていなかったときの主人公の心情です。

世の中というのは奇妙な場所です。僕が本当に求めているのはごくあたりまえのハンバーグ・ステーキなのに、それがある時にはパイナップル抜きのハワイ風ハンバーグ・ステーキという形でしかもたらさらないのです。

進化形ばかり出しゃばって、従来のものが手に入らない。なんておかしな世の中!

○チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏
ただ単純に、三角形の土地のことをまんまるのチーズ・ケーキの「先端の角度が三十度のケーキ・ピース」と比喩しているのがかわいいな〜と思った。それだけ。

○スパゲティーの年に
村上春樹ほどスパゲティーを魅力的に描く人はほかに居ないと言われているけれど、それがよくわかる作品。

スパゲティーたちはおそろしく狡猾だったから、僕は彼らから目を話すわけにはいかなかった。彼らは今にも鍋の緑を滑り抜け、夜の闇の中に紛れ込んでしまいそうだった。熱帯のジャングルが原色の蝶を永劫の時の中に呑み込んでいくように、夜もまたひそやかにスパゲティーたちを待ち受けていたんだ。

友人の彼女との電話の場面で、スパゲティーが絡んじゃうことを理由に話を終わらせてしまうところ、読んでるこっちの力が抜けてしまいそうになる。

ラストも良いので紹介します。

デュラム・セモリナ。
イタリアの平野に育った黄金色の麦。
一九七一年に自分たちが輸出していたものが「孤独」だったと知ったら、イタリア人たちはおそらく仰天したことだろう。

○かいつぶり
合言葉なんて存在しないのに、上司から言われるがまま、訪問者に合言葉を言わせようとする。後半の会話で男の人がどんどん困っていく様子が、なんだか淋しい。

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