もし、無知が罪なら赤ん坊は愛されない。世の中の生業の姿勢に対する所感。
1.無学は相手もつらいが、自分もつらい
「無知が罪」なのではなく「無学なのが罪」、なんだと思います。人間どうあがいても、わからないことだらけで、未来予測なんか出来る人は居ません。イレギュラーは、忘れた頃にやってくることは、自らが受けた災難を思い出してみれば、明々白々だと思います。
かくいう私も、無学甚だしい人生を送ってきましたが、無学なおかげでだいぶ多くの人から相手にされない経験で、かなりガックリきた事は多々あります。無学だと、他害性があるだけでなく、自分もつらいんですよね。なので、自らの文化圏と違う人と話すときに、わからないことだらけだと、お互い苦労します。
ただ、今の環境や世代、背負っているものが異なるのはしんどいですが、辛抱強く対話することは必要ですし、得られる現実的情報は物凄く価値があります。
ですがどうしても、相手の話している内容がサッパリわからず、傾聴しようとしても、全く頭に入ってこず、話し手も聞き手も骨折り損のくたびれもうけなんて悲惨なことも、あると思います。
あらゆる界隈での、界隈内でしか伝わらないものが、複雑・先鋭・多様化している社会では、あたかも言語が断裂しているような有様だと思います。
IQが20違ったら話が通じないとするなら、90の人と110の人が通じないことになりますから、これは身体性の問題ではなく、情報流通の過度な速さに由来する、文化の煩雑化によるものだと思います。そもそも、WAISは障害があるかを判断する一ツールですし・・・。
2.わからないのもまずいが、わかった気になるのもかなりまずい
ですが、一方で「わかった気になる」というのも非常に危険で、どうしても箔がついている情報か否か、他人の足元バイアスで物事を観てしまう悪癖というのは、恐らく幾つになってもまとわりついてくるんですよね。◯◯さんが言っていたから、△△大学の研究だから、××という企業のものだから、とか。私は、「名刺」よりも、話している内容や所作、趣味や性格や漂う空気感を観ます。
このような「情報のブランディング商法」というのは、時たま大きな災禍をもたらして、しばしば人々を誑かし守銭奴が嗤うということが起きるわけです。この情報ブランドに対する妄信性が、インプットする情報に変調をかけるワケです(偏重だけに)。
なぜ、どこまでいっても、人はブランドにすがり、収集フェチになり、わかった気になり、答えを先急ぐのか。これは、早く思考停止したいという、「知」の真逆の方角に行き、脳を甘やかしたいからなんですよね。自分で書いていて、耳が痛い・・・。
3.妄信という病は、脳を硬直化させ、やがては共通敵を生む
この「病」は、いつの時代も超多数派だと思います。そして、儲け話が知への怠惰と結びつき、視野狭窄を生み、売る側と買う側が相互に劣化していくんです。常に迷い、考え、自ら産みの苦しみを感じるのが自然だと思います。あらゆる職業、ほぼ全てにおいてクリエイティビティは必要不可欠だと思います。
なので、「安心・安全を感じてください」とやたらめったらにいう、よくわからない人に対しては、その画枠を遠目から見る確認作業が必要です。
人々は、いつまでも妄信してくれるワケではないです。常に流動的に不可逆に移り変わる世の中で、全ての人は別人に徐々に徐々に変わっていきます。とともに、その人がどうあがいても変わらない個性・性格の部分もあります。三つ子の魂みつこさんです。
4.過度に造られた美は過度の期待を生む
でも、近視眼的な判断により「とにかく速くたくさん儲けよう、速く成果を得よう」とすればするほど、美辞麗句を垂れ流す八方美人になり、とにかく顧客やリターンの数字、数字、数字となります。そうすると、引き下がれないところまで、吐きたくない嘘を並べ続けなくては、ならなくなります。
そもそも、近年は時代の流れが速すぎて、人間の身体性や旧来の社会構造が追いついていない感覚です。AIで補えることには限りがあり、Chat GPT-4oとの議論でも、人間の問題がAIにも大きく波及すると、AI側も言っておりました。Chat GPT-4oが言っていたというのも、「箔」やないかい!混迷するワタシ。
素直さや実直さがなくなり、それが何かの拍子でボロが出ると「裏切られた!」というアンチ的な人が逆宣伝・喧伝されていくワケです。過度の期待を植え付けることは、取り返しのつかない過度の失望を生むリスクが上回る気がします。
そうして、元々は「信頼と実績」を獲得しようと、不動の地位を手に入れようとしていたところが、プロセスを間違え、欺瞞に次ぐ欺瞞にまみれて、腹の探り合いや疑心暗鬼に溺れていくんです。ゆくゆくは、空中分解です。
これは、因果応報です。嘘や虚構が度を過ぎて、とにかく信じろ信じろと、顧客や顧客に接する社員に念仏もどきを唱えさせた結果です。
とにかく、「透明性」「明朗さ」「選択自由性」、これらを対等にお金を貰う側と払う側が、ともに持たなければ、のちのちトラブルの種になり、破滅的な顛末により、多くの犠牲者が伴う災禍と化すでしょう。ですが、実際のところは完全なるWin-Winは理念上のお題目であり、どちらかが強くなってしまうというのが、実情だと思います。
5.トップを尖らせるのではなく「底上げ」
ここから更にメタに観て、「この不平等性(要出典)に甘んじて物を売っていないか、買っていないか」と、売る自分と買う自分を俯瞰する必要があります。勿論、競争が前提ですから、占有してトップに行きたい自社と自分と身の回りが居ることも、勿論その欲が出ることもわかります。みつを。AI相田みつを。
ただ、その欲に忠実になり過ぎて、独占的に支配的に抜きん出すぎてしまうことは、最終的に多くの人を敵に回すこととなります。同業他社もそうですし、顧客だってそうです。
例えば、TVでこれ絶対うまいやつやー!と云われていたので、実際食べてみると「あぁ、まあそこそこだね・・・」というのは、お客さんもガッカリして、お店もいっときしか儲かりません。
といっても、お店側も如何にして宣伝するか、他より如何に上に行くか、仕事ですから必死です。とはいえ、教育の段階から植え付けられた「とにかく人の上を行け」という洗脳を、少しほどいて距離をとると、それにより見えてきた罪の数だけ、自己嫌悪に陥っていくと思います。振り返ると、手段選んでなかった、精査してなかったなあと。後悔は、日常的な感情なんだよなあ。みつを。
6.鈍感さと強さは意味が大きく異なる
ですが、この痛みは、世の中の対等性を維持するための必須栄養素であり、栄養不足で思考停止という名の麻酔を、常に受けていたら、痛みを感じるべきときにも痛みを感じなくなり、自分がどこまで怪我を負っているかもわからなくなっていくと思います。「後悔していても仕方がない!意味がない!」というのは、反省も放棄することではありません。余計な感情を持たず、客観的に塩梅よく過去を観ることだと思います。
今現在の自らの社会的な立ち位置を、バイアス抜きにして考えることで、経済と社会の維持の塩梅が整っていくと思います。その為に、AIを利活用することは、大いに有用だと個人的には思います。
ですが、現代に発達していったシステムから一旦離れ、多くの人に支えられて、今の自分が居ると振り返る時間、自分を取り戻すために独り休む時間がないと、自分も自分がやっていること、目指していることがわからなくなり、どんどん鬱屈とした日々になっていき、尚更心に貧しさが生まれ、貧しさが貪欲を生む結果になると思います。
と、ここまで書きながらも、私も自分は今何がしたいのか、何をすべきなのかわからず、呆然と下を向いております。でも、この独りで、好きに思った事を書くことに夢中になっている時間も、割と大切なのではないかなと、個人的には思います。
P.S.アレにも負けず、ソレにも負けず、丈夫な身体を持ち、とうろ覚え的にすると、なんか如何わしく聞こえませんか?何を言ってるんだ。この人は。
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