【グロテスク短編小説】禍いは鉄の臭いと共に
今、私はどこに行きたいのか、わからない。
仕事でも行き詰まり、独り身で、遊びをするにしても、どことなく誰とも遊んでいないような感じだ。
三が日の仕事を終え、夜明けの四時、2時間で目が覚めた私は、寝ることを諦め、呆然とスマートフォンの画面を転がす。何もない。何をしたいのかわからず、ただただアプリの羅列を見ながら、右往左往するように何も開かない。暗闇の中、冷たく照らされた親指しか、見えない。
もう、何もかもない。吸い込まれるように、私は身支度らしき身支度をせず、玄関のドアを開けた。寝巻きのまま。もはや、どうなってもいいというような虚ろな目をしながら、財布と薄寒い上着を着て、不審者と言われてもおかしくない格好で、自宅を出た。
薄明すら見えない朝の街灯の中、夜でも朝でもない寝静まった街を歩く。盗られたら、その時はその時、襲われたら、その時はその時。もう、死んだような生活をするなら、自分らしく死のうと思うくらいには、私には小汚いアスファルトしか見えなかった。
手近なコンビニで、ありったけのお金を下ろす。22万7千円。もうどこにでも行けそうな額だが、どこに行きたいのか、何がしたいのか、わからなかった。
どこを見ているのかわからない同じく虚ろな店員に、ミルクティーを差し出す。レシートを無言で受け取り、無言でその場で落とす。
始発が見えない駅は、長い時間が流れる。小手先の駅前に植えられた木を囲う椅子無き場所に腰掛ける。暇だ。携帯に寂しさを訴えようとした時、携帯を持っていない事に気づく。でも、携帯の中には何もないことは、重荷しかないことは、わかってる。知らない男、知らない女、孤独に騒ぎ立てる声が、遠吠えのように聴こえる。
ここは、野蛮の中だ。不自然に作られた街と、その中の野蛮だ。人は、何故同じことを、馬鹿げた麻酔で冬を凌ぐ。彼らは、下山する気はないんだ。
あっという間に、暖かかったミルクティーは冷める。真っ暗だが、月明かりが見えないことで、曇天であることはわかる。横目に、くたびれた警官がタバコを速回しするように吸い、交番に戻る。
この街は、疲れ切っている。誰もかも。誰も見えなくなるくらい。寒々しい空の下で、ミルクティーを口に含む。苦々しい。
そろそろ、この冷え切った街から抜け出せると、期待を寄せ、電光掲示板を観に行く。渡りに船か、10分後に下り電車が来る。とにかく、北に行きたい。もう、人が居ない場所ならば、それでいい。
聞き慣れた音と見慣れたドアが空く。ファストフード店のような硬い座席に腰掛け、ミルクティーは三分の一も減っていない。ただ、ひたすら朝に似つかわしくない夜景と光を眺め、いつまで経っても、いつまで経っても、薄明が見えない。
冬に冬が重なるような中、三が日が終わったにも関わらず、レジ袋で隠された一番安く酔えるチューハイを呑むジジイが、対面に座る。目障りだ。
彼は、黄土色の顔をしながら、つまみもなしにトンネルのような光を見ながら、どこへ行くのか。
他に観るものもない私は、憐れなジジイのカバンについていたヘルプマークを見つけた。
私は、愕然とした。彼は、何のために、どこに目がけて、行くのだろう。もう、この時点でこの無情な空間に耐えられなかった。
私はまだ、恵まれているのかもしれない。憐れみと自責と蔑みと、何もかもが真っ白になった。暗澹たる気持ちだ。
私は何を血迷ったのか、彼に話かけた。
「大丈夫ですか、今日は一段と冷えますね?」
彼は眼を丸くして、私を見上げた。
と同時に、彼はぶつくさと声にならない酔っ払いに相応しくない小声で、何かを言っている。
私は、真横で聞き耳を立てる。
「・・・だろ。わかるだろ。お前みたいな小娘が、・・・だろ。」
「・・・はい?」
次の瞬間、男は私をこの上なく侮蔑的に私の眼を見て、怒号を轟かせた。
「お前みたいな小娘、お前みたいな見た目の女に、何がわかる!俺に構うな!!」
「お、落ち着いてください!何が、何があって」「いくらでも、いくらでも道があるお前が何をうなだれて!!」
『現在、特急列車の通過待ちをしております、5分少々お待ちください。』
あまりにも、縁起が悪い。私は、もう、ひたすらに宥めた。怖かった。とにかく、気が気じゃなかった。
「いきなり、事情がわからずに話しかけて申し訳ございません・・・。」
「もういい!!俺には道は、道はもう無いんだ!!」
「で、でも、まだ世の中捨てたものじゃないですよ!」
「馬鹿野郎!!もういい!!!!!」
「待ってください!!!」
彼は、あまりにも乱暴に私を振り払い、ドアから出た。
呆気なかった。鉄の塊が、彼を殺した、のか。私が殺したのか。街が、殺したのか。もう、私はただ人生で経験のしたことのない眩暈に襲われた。
駅員は、手慣れた足取りで、無情なアナウンスをしている、ように聞こえたが、もう、言葉が言葉として聞こえない。ただ、私は同じ鉄の塊に乗っていた。
鈍い肉の臭いが漂う。私は、横たわり、胃の中の全てを吐き出し、何もかも、頭の中さえも霞んで見えた。
あまりに、気持ち悪い。気持ち悪い。事故現場にスマートフォンを向ける人間に対して、私は殺意を覚えたが、私も私に対し、激烈な殺意を覚えた。
こうやって、人は狂っていくんだ。齢26にして、漸く私は目が覚めた。でも、この悪夢が、単なる悪夢であって欲しいと、願った。
私が若い女だからだろうか、駅員は優しく私に、大丈夫ですか!?大丈夫ですか!?と。
全てが気持ち悪い。
「もういい!放っておいてくれ!!」
私は叫び、意識が途絶えた。
病室で点滴を受ける私。幸い、財布には入院費もあり、保険にも入っていた。
なんて、世の中は不条理なんだ。これが、世の中の理なのか。
今、私はあれから、すぐに水商売を辞め、精神科に通いながらも障害者雇用で働き、不幸にも、家庭を持つことも出来た。幸せだと信じることが、辛い。
だが、時折、枕元に纏うんだ。あの日の穢れが。今日も、叫びながら、起きたんだ。
「ママ、どうしたの?」
「なんでも、ない、なんでもないよ。」