社会に価値提供する方法を考えるにあたって
去年12月頃の内省のテーマは「目的志向の生き方」
その下書きに加筆したくなった。
影響を与えたのは『やりたいこと大全』、精神科医のYouTube、『チーズはどこに消えた』、『アルケミスト』、『現代思想入門』。過去に読んだ『七つの習慣』『幸福論』なんかも参考になった。
結局、幸福感を得られる人生のロジックは同じ。
ある程度自分の価値観に沿った生活が実現できていれば幸せなんだろう。ウェルビーイングの枠組みとして、having loving beingというものがあるが、これは5段階欲求を垂直的に捉えるのではなく、一体的に捉える概念だと思う。
しかし、面白いことに人間はそんなに単純ではない。
幸福感を得られる人生のロジックは不変であっても、私たちの性格や認知のクセ、現実的な難しさ、本能的な欲求の強さ、理性による異常なコントロールなどなど、ロジックの実現を捻じ曲げてくる要素がたくさん存在する。
だからこそ人間社会には昔から哲学が存在するのだろう。
そして、歳を重ねるなかで前向きな諦観を身につける。
人の理性を最大限に活用する。現代でも、小説や漫画、自己啓発本、他者の生き方から、私たちは人生哲学を部分的に学び、自己を振り返り、取り入れて生を更新していく。弁証法的な実践を繰り返す。
私の場合、INFJの各要素やHSS型HSPの特徴と言われる要素の影響を考えると分かりやすい。
でも自己分析に引きこもっていたら金が稼げない。
私の価値観の実現と社会的価値をどうにかつなぎ合わせる必要がある。
ここで重要なのは、自分中心で考えられるかどうか。
社会中心、いわゆる他人軸でこの接合を考えるとひどい有様になる。特に、社会に普遍的な価値観から最も遠いところにいて、思考回路も思考の深さも現代社会のスピード感とのギャップが大きく、人付き合いの仕方も特殊なINFJ型にとっては。彼らは他人や社会との境界線が薄いので、社会中心の考え方が容易に自分自身の価値観と溶け合ってしまい、あたかもそれが内面から生じているものと錯覚して、適応する努力を始める。しかし、ふとした瞬間に、主には日常生活での人との関わりやちょっとした自己表現の機会に、自己の内面と社会的ルールのギャップや矛盾の存在に気付き、生きづらさを抱える。もう生きていけないと思うようになる。溶けてしまった自分を再形成することが非常に困難になる。だって社会との溶け合いは継続しているし、無理やり境界線を引くことは、社会的孤立を意味するから。
だからこそ、INFJは自分の領域の一貫性を保つことと、社会と繋がることのバランス、方法について本質を理解し、綿密な戦略を立てて実行する必要がある。
『やりたいこと大全』のロジックのいいところは、このような自己と社会の接合方法の検討の仕方を、どのようなタイプの人間でも使いやすい枠組みに整理していることである。まず価値観を理解することに重きが置かれる。そして「その価値観の実現と社会への価値提供をどうやって重ねるか」の戦略立てが枠組みの中に組み込まれている。「好き」と「できる」の考慮は、戦略立ての一部とのこと。
しかし、ここで前半の議論へと戻る。
私が提供できる社会的価値なんてあるのか?貢献できるわけがない。
自分がいつまでも弱すぎて、結局何も成し遂げられない。社会貢献したいという思いは強いにもかかわらず、行動を起こせない。
そして年々増大していくのは、焦り焦り焦り焦り不安
認知の歪みが生み出す豆腐メンタルにより、私の人生は停滞しがちである。本当に何も社会的価値のある行為をできていないのか、それとも一定程度はできているのに、メタ私が私を観察するうえで分厚いフィルターがかかっているのか。
今は常に人生というプロセスの途中であり、ペースは人それぞれ。
いろんな意味で、自分の足で立っていられるならそれでよい。
モラトリアムが増長した現代であるとはいえ、「学生」という身分である大学院生を続けるためには、強靭な精神力と主体性が必要である。それらをフル活用して、「学生」という社会的なレッテルに囚われずに、賃金に還元されない生産活動を通じて、社会に価値提供する方法を探し、実行し続けねばならない。そういった意味で、かなり特殊であり同年代の会社員からは理解されにくい立場だと思う。自分自身への適度な期待と適度な諦観のバランスを取りながら、自らタスクを見つけて管理して、前進し続けなければならない(私にとっては)ハードルの高い社会的位置づけである。
今回の結論として、私がウェルビーイングを高めるには、院生という社会的位置づけの特性を理解したうえで、私の価値観の実現と社会的価値を重ね合わせる術を見出せるか、それを実行できるかどうかにかかっている、としておこう。そのためには、やっぱりメンタル面の課題を克服する必要がありそうだ。『いつも気楽に生きている人』になるまでには、まだまだ時間がかかりそうである。