具体的な文章が書けなくてこわい、悔しい、情けない
少し前に、文章を書くこと、言葉を話すことへの恐怖感について記事を書いた。恐怖感の原因についても分析してみた。
今回のテーマは「具体的な文章を書くことができない苦しさ」
これも私が文章に苦手意識をもった原因の一つなんだろうな。
大学院の指導教員に研究計画書などの書類を見せた時、言われるお決まりの話がある。
「やっぱり言葉が小難しくて抽象的なんだよね。もっと具体的に書かないと。読む人が情景をイメージできるような言葉、メッセージ性の強いワードとかね。」
「はい、わかりました。ありがとうございます。」
そう言いながら、心からドロッとしたものがにじみ出てくるのを感じる。
笑顔を作ろうと思っても、苦虫をかみつぶしたような変な顔になっているのが分かる。悔しい、情けない、自己否定、絶望感、諦め感….
(そうですよね、ごめんなさい。いつもいつも同じことを言わせてしまって。)(やっぱり意識してもだめなんやなぁ。今回も、書けない私のレッテルを重ね貼りしただけだったな。)
これが心の声。先生に言ってもどうしようもないので、心の中でつぶやく。
だって先生は書ける人だもの。私とは違う世界の人。
私の弱点だと自覚しているから、意識してはいるんだけどな。
意識して、一生懸命書いているから、書き上げるのに無駄に時間がかかるし、進まないんだけどな。
今朝だって徹夜気味で書いたんだけどな。
人に共感すること、エンパシーは得意なつもりだけど、この類の話ばかりは分からない。本当に、分からない。
うちの研究室の先輩は全員、あちら側の人。
だからすらすらしゃべるしすらすら書く。
壁、崖、異文化、能力差を感じる。
なぜ私にはない引き出しがあちら側の人間にはあるのだろうか。
悔しい、情けない、消えてしまいたい。
人間はどんなことでも地道に努力していればいつかできるようになる。
そう信じている。
だから明らかに力不足なうえに、頭も悪いけど大学院まで来た。
文章だって書けないけど、研究者になりたくてここまできた。
でも、やっぱり、ガラスの天井はあると思う。あると感じる。
それを見てしまうと、途端に廃人になってしまうので、普段は極力見ないようにしている。目の前の課題やできないことにひたすら向き合うようにしている。考えないようにしている。信念を忘れないようにしている。
でも、先生との面談で「抽象的だよねー」と言われ、他の文章の上手な先輩たちの研究計画などを引き合いに出されると、もう私の心はズタボロ。
ガラスの天井に頭がぶち当たっている感覚を思い出す。
このままだと、下から上がってくる床に、そのまま押しつぶされて、ぺしゃんこ。それまでに打開策なり、諦めなり、成長なりしないと、ぺしゃんこの未来が待っている。再起不能で、心は腐ったまま。もう別にそのままでいいやーって思っちゃうんだろう。何やってもどうせだめだしって。
ぎりぎり。まだぎりぎり信念を捨てずに生きている。
メタの自分は、もはや私を憐れんでいる。そのうえで、頑張れよと応援してくれている。こいつはもう、しょうがないなって。
中学生の時、「どうせ」ってたくさん言っている自分に気付いた。
「どうせ」っていう癖をやめようと決心した。
その反対側にあるのが、がむしゃらな努力と負けん気、不屈の精神。
おかげで、そっちにしがみつく癖(強迫観念)が身に付いた。
だけど、やっぱり私には「どうせ」できないことが溢れている。それが現実
だから、文章を書くことは怖い。諦め感から始まる。
「どうせ」分かりにくいって言われる。
「どうせ」伝わらない。
「どうせ」私の言葉が他人の心に響くことなんてない。
「どうせ」私の言葉にセンスなんてない。
「どうせ」期待されていない。
「どうせ」競争に勝てるような、何かを勝ち取れるような文章は書けない。
努力して直るというのならば、私が怠慢なだけというのならば、よくなるという希望と特訓のための手段を教えてほしい。
私は今のところ、大学院で指導を受け続けるという手段しか知らない。
常なる恥かしさと、他者からの期待を裏切る不甲斐なさとともに。
でも悔しいって感情が湧いてくるあたりは、まだ希望があるのかもね。
なりたい像と現実のギャップに目を向けているってことだから。
この文章は具体的ですか?抽象的ですか?
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