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書くこと、語ることを好きになりたい話

私が抱えてきた悩みの1つに「書くことや語ることへの苦手意識」がある。

社会科学系の大学院生であるにもかかわらず、である。
まぁ、自分で選んだ道ではあるのだが、この悩みによるストレスのせいで、私の院生生活の楽しさは半減しているといっても過言ではない。
その分、素敵な文章を書ける人への尊敬や憧れの念が強い。

「いやいや、お前は文章が書けるから卒論も修論も提出できたんやろが。」
そんなヤジが聞こえてきそうだが、私は私なりに苦しんできたのもまた、
事実なのである。
周囲からは「ちゃんと書けるじゃん」と言われるが、一文をかなりのエネルギーを使って生み出している私にとっては、強力な苦痛を伴うプロセスだ。
今回は、私なりに感じてきた難しさを言語化したい。

苦手意識の歴史

文章を書くことが嫌だという気持ちが芽生えたのは、小学生の時である。
行事の感想文、夏休みの読書感想文、連絡帳の毎日日記…..

文字はわりときれいに書ける。国語の成績は上位。読書好き。
でも、ただただ、文章を書くことが遅かった。
歌の発表会や演劇鑑賞会、運動会などの感想文を授業中に書こう!と言われても書き終わったことはない。必ず家に持って帰って、泣きながらなんとか書いていた。たしか小5から使い始めた黄色い横長の連絡帳。右側のページが全て日記スペースになっている。あれにも相当苦しめられた。家でも学校でもいい子ちゃんだったから、怒られるようなことは基本しなかったのだけれど、あれに関してはいつもギリギリだったからよく怒られた。どれだけ気合を入れても、頑張ろうと思っても、書けなかったのだ。分からなかった。

この傾向は中学、高校でも変わることはなかった。
講演会の感想文を、帰りの会までの数十分でさらさらと書き終えるクラスメートたちに生まれ変われたらと何度思ったことか。どんどん求められるレベルが上がっていく作文課題が進まなくて、どれだけ余暇の時間を無駄にしたことか。ディベートの授業の原稿が完成せず、何度徹夜をしたことか。

とはいえ不思議なのが、時々、作文が一定の評価を受けることである。
作文コンテストで努力賞ぐらいに選ばれて文化祭で読まされたり、ディベート大会でクラス代表に選ばれたり、大学受験は志望校にAO入試で入れたり。
死ぬ気で書いた文章が評価されることは嬉しくもあるが、だからといって、自分の文章が好きになることはないし、文章への自信が育まれることもなければ、書く時の苦しみだって何ら変わらない。

この調子で大学生をやっているので、レポート課題は死活問題である。
論理的な文章なら、かき集めた文献の情報とそれらの表現を組み合わせて試行錯誤する大量の時間があるなら、なんとか提出できる時もあることは分かってきた。でも「堅くて抽象的。もっと読みやすく具体的に。」という指摘がお決まりである。就活のESとか志望理由とか、自分の思いや経験を言語化しないといけない系の場合は、特にしんどい。毎回かなりの精神的苦痛を強いられるわりには、あんまりいい文章にはならない。この調子なので、文章を書くことが仕事、といっても過言ではない院生生活は、それだけでストレスに満ちているのである。

書くことへの苦手意識は、日常生活でも障害であった。大学生になって、複数の社会集団に属するようになってからは、支障をきたすことも増えた。
人に手紙を渡す、という行為自体は好きなのだが、それを書くためにはお決まりのように時間がかかる。せっかく頑張って書いたけどたいては表面的な言葉の羅列である。LINEもメールも同じ調子なので、送信の1つ1つがストレスである。対人コミュニケーションツールとしての言葉については、取捨選択ができないので、長くて抽象的になりがちだ。ちなみに、言語コミュニケーションについても、自分語りや即興のスピーチは厳しい。

以上の調子なので、noteを書けと言われても書けない。苦痛である。
だからこそ私のnoteは、私自身の言葉が溢れてきてくれたその時だからこそ綴れたものであり、書いて語ることの喜びに満ちているのである。その半分は、後から読み直して、気持ち悪く感じることが多いのであるが。

苦痛の内側

なぜ私は書けないのか。
この問いは、きっと何千回も自問してきたし、本に答えを求めてきたけど、納得のいく答えと解決策は見つかっていない。

書くプロセスを単純化すると、①脳内で概念やストーリーを思い浮かべる→②言葉を選ぶ→③書く・打つの段階があるだろうが、私の場合、①と②に関わるメンタル面の問題があると考えている。

そもそも言語化したい概念が出てこない問題

感想を述べる時、私の考えや思いをメッセージとして伝える時、普通にLINEで日常会話をする時….そもそも伝えたいこと、言いたいことが出てこないなぁということが多い。この感覚が伝わるか分からないし、私の捉え方が合っているのかも分からない。でもこの事態は幾度も経験してきたのである。

不思議なのが、私はどちらかというと熟考・内省するタイプなので、考えること自体は好きなのである。でも、例えば、修士論文の本文とは別に、編集後記的なものを書け!と言われると、筆が一向に進まないのである。こんなに頑張って書いた論文なのに、思いを込めて研究してきた課題なのに、最後に伝えたいメッセージが何も出てこないなんて、なんて空っぽな人間なんだ私は…最近はこんな感じである。映画を観て、本を読んで、講演を聞いて、好奇心が刺激されていろんな考えが頭をめぐっている感覚はあるのに、他者に対して何かを伝えなきゃとなると、途端に言葉たちはどこかに影をひそめてしまう。だから質問も感想も出てこない。焦れば焦るほど、手の届かないところに消えていく感じ。

人に考えを知られるのが怖い問題

これは、前項の背景要因の1つだと思っている。何も出てこないのではなく、自分の考えを言語化すること、伝えること自体への恐怖心が邪魔をしているのである。

私の話すこと、書くことが、その場の標準からずれているなと感じる経験が多かったのかもしれない(主観として)。例えば、中高生の時、私が気楽に普通の感覚から発した言葉は、’まじめすぎる’、’つまらない’、’場が冷める’、’ネガティブ’などなど、集団に馴染まないことが多かった。だから、②の段階で、周囲にとってこの考えはどうかを評価するプロセスが染み付いているのだと思う。家庭生活でも、母親の機嫌に合わせて言葉を選ぶ癖がついたと思う。そんなことをしていたら、私自身の感想や考えの見つけ方が分からなくなったし、なんなら私そのものの修正が日々の目標だったから、知りたいとも思わなくなった。やっぱアイデンティティの確立と拡散の問題と関係あるのかな。「恐怖心」以外の要素の話も混ざっちゃったけど、とにかく①のプロセスを別の自分に封じられ、②の段階で厳しい規制がかかっている感覚がずっとある。

完璧主義が出しゃばっている問題

ここまで読んでくださった優しい皆様の中には、「どーせこいつ完璧主義だからでしょ。」と思われた方も多いだろう。私も、完璧主義は潜在的な根本原因であると考えている。ちゃんとした文章、評価される文章を書かなければいけない、意味不明な文章を書く私には価値がない、私の考えは基本的に間違っている、すごい感想を言わなければ、そんなしょうもない質問をするのは私だけだろう、私の視点は絶対他の人にとっては面白くないetc….中高生の時から、自覚して改善しようとはしているのだが、潜在意識の方で強迫観念が邪魔をしてくる。「いやそんなことはないよ。何を書いてもいいんだよ。失敗してもいいんだよ。」と言い聞かせても、なんか筆は進まないのである。

このnoteだって、誰かが読むことを前提に、誰かに評価されることを前提に書いていたら、きっとこんな長文を書くことはできないだろう。しかも「具体的で魅力的で面白い文章」を意識すればするほど、何も書けなくなる。だからといって剽窃はできないから、四面楚歌の気分を味わうのである。いつもの具合に。

おわりに

ここまで読んでくださった方は、何か1つでも共感できる部分を見つけてくださったのだろうか。それとも暇つぶしのネタに選んでくださったのだろうか。どちらにせよ、感謝を伝えたい。

文章を書くこと、語ることが苦手だと実感する経験が蓄積されていくほど、向上心が反応して、改善したい、好きになりたいという思いも強まるものである。最近は、ロジカル○○関係の本を読み漁っており、書くこと、思考することを基礎から見直している最中である。

去年、友人から教えてもらい人生観を変えた言葉がある。
どんなことでもスキルって考えたらいいよ。
だから、いつからでも学んで、いくらでも磨いていける。

院生生活にストレスをもたらす苦手意識から、言語化して人に伝える喜びを取り戻すために、諦めず向き合っていきたいものである。
おすすめの方法、感想などあれば、ぜひ教えていただきたいです。


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