「私」変化の中間報告
私がnoteを書き始めるタイミングは2つある。
1つは、身体が割けてしまいそうなほどに内側から溢れてくる「何か」がある時。涙を流すだけじゃ足りない。内と外の矛盾が限界を迎えた時。
こういう時は、言葉を綴る手が止まることはない。ちぎれてしまった自己を紡ぎ直していくように、自ら消そうとしていた火を優しく包み込むように、必死に、「何か」を言葉の形にしていく。
記事を公開して、日々何度も読み返すことによって治療が進んでいく。
もう1つは、「私」の変化の手応えを感じられた時。
質のいいインプットと内省の結果を記録しておきたいと思う時。
同じように溢れてくる「何か」はあるけれど、言葉を紡ぐスピードは日によって違う。一度のアウトプットで満足して、読み返すことはめったにない。基本は公開せず、下書き保存して終了。そして再び歩き始める。
今回は、後者のパターン。
私は8月から半年間の留学をしているのだが、2カ月前に前者のパターンの記事を書いた。その後、何度も上下を繰り返しながらも、最近は「私」が確実に変化しているとを感じている。
そのプロセスと現状を記録しておきたいと思う。
簡単に要約しておくと、
「私」を変えたい、変えないと。あわよくば消えてしまえ。
という向上心から
「私」を教えて、ちゃんと声を聴くから。そこから道を創っていこう。
という向上心に変わってきている。
自分と向き合うとリラックスする時間を意図的に作った。
内向型向けの本を読み、価値観の近い物語を読み、完璧と努力の美学を見直し、「劣性」と限界を受け入れ、「私」を言葉に表し、恐れずに他人に語り、好奇心が導くものに没頭し、ちょっとした初めてに挑戦し、価値観に合った新しい目標を立てた。
この変化を支えたのは、時間の使い方を比較的コントロールできる生活、ライフステージと国籍の多様な人からの刺激、話を聞いてくれる人の存在、散歩だけで気晴らしになる街といった留学環境の影響が大きい。
別に最強になったわけではない。不必要に争わなくなっただけ。
でも今度こそ、後戻りせずに進んでいけるような気がしている。
ここに記すのは、生きづらさで心が張り裂けてしまいそうな誰かのため、お先真っ暗で疲れている誰かのため、そして私自身のため。
都度、修正していく予定。
9月上旬 崩壊と立ち直り
9月8日、必死に保ってきた心が破裂した。留学の実現という成功体験は過小評価され、「私」に固有の価値と、周囲や社会が評価する価値との間の埋めようのない矛盾への恐怖感が私を支配した。久々にnoteを書いた。
次の日、習慣化していきたいことを決め、再びnoteに記した。遠くの理想に囚われてしまいがちな私が、日常から「できた」を見つけるための「道標」のつもりだった。
それからは、毎日「道標」を確認して、小さなことでも継続できている私を認めてあげることを続けた。1週間ほど経つと、わざわざ確認しなくても身体が動くようになってきた。気持ちも前向きになっていった。
ただ、授業の課題に忙殺されていたから、毎日すべてはできなかった。でも、日記と朝のルーティーンと食事管理は続けられた。特に「布団を整える」「今日もいい日になると考える」「毎日の写真日記」は、今日まで毎日継続できている。よしよし。
9月末から10月上旬 再び、過呼吸の日々
たくさんのタスクと不安に押しつぶされそうになっていた時期。この頃の内省のテーマは「理想と現実のギャップ」だった。
私は修士2年目の卒業前の学期に留学に来ているので、こちらにいる間に修論を完成させなければならない。好奇心と成長意欲と忍耐力で実現した人生計画だったが(同じタイプの方には共感してもらえるのでは)、睡眠を削り、遊びを断り、必死にタスクに向き合っても変わらない現実に「あ、努力でどうにもならないことってあるんだ。」と思うようになった。私の良さを活かしてもどうにもならない現実。留学も修論も質高くやり抜くという「理想」が悪影響を及ぼしていた。私の理想か、大学や先生や親にとっての理想か。いや、私の想像上の他者にとっての理想だったのかもしれない。
非効率でレポート1つすら書けない、生活のコントロールができない「私」が大嫌い。でも「私」を諦めるわけにもいかない。私は「私の可能性を信じて」この選択したつもりだったが、実はただの「過信」だったのだろうか。でもここで負けたくない。仕事をしているわけでもないのに情けない。粘るしかない。走り続けろ。今思えば、自分で自分を過度に追い込んで、首を絞め続けていたのだと思う。よく過呼吸みたいになった。
9月最終日、私は1つの決断をした。10月中は留学先の授業を受けず、修論の執筆に集中することにした。これの何がすごいの?という人もいるかもしれないが、私にとっては「すべてを完璧に」「欠点のないように」「さぼったと思われないように」「負けたくない」「努力でなんとかしろ」といった呪縛を断ち切る意味で、大きな一歩であった。
この頃、周囲の友人の中で「いつも忙しそうな人」のイメージが出来上がっていたと思う。何人も心配の声をかけてくれた。とてもありがたいことのはずなのに、その話題になる度に恥ずかしさと惨めさを感じた。その中で1人、私の決断を「かっこいいね!なかなかできないことだよね!」と言ってくれた人がいた。その言葉のおかげで報われた気がした。
10月中旬 本当の自己理解の始まりと改心
授業に参加しない代わりに、3週間の自由時間を手に入れた私は、修論(好奇心)への没頭と読書と内省に時間を費やした。私の「好き」に耳を傾け、実現してあげることを意識した。この間のテーマは「自己理解」だった。
特に大事だったのは、読書をすることを赦したことだったように思う。中高生の時からずっと、お金と時間の節約を理由に「やりたい」を我慢してきた結果、無意識のうちに「やりたい」という気持ちを封じ、余暇に資源を割くことを制限するようになっていた。だから読書をするためには「赦す」ことが必要だった。電子書籍を購入して、ずーっと読みたかった本や面白そうだと感じた本を読んだ。『内向型人間のすごい力』『アルケミスト』『現代思想入門』の他、論理学や自己啓発、名作など。特に内向型に向けて書かれた本は、自分の性質へのバイアスを軽減し、「私」を基点に物事を見る視角を与えてくれた。また哲学が与えてくれた枠組みは、日常的な絡まった思考に構造を与えてくれた。読書によるインプットを通じて、私の生きづらさや社会とのギャップの感覚、それとの上手い付き合い方について、少しずつ本質に近づいているような気がした。ちなみに、価値観の近い方の書いたnoteにもたくさん勇気づけられた。
10月の日記を振り返ってみると、少しずつ前向きな言葉や気づきが増えていることに気付く。日記とは、留学開始から毎日何かしらを投稿している日記用のインスタのことである。そう、このインスタが手軽な内省ツールとしていい役割を果たしてくれた。毎日の振り返りだけじゃなくて、ふとした気づきをコメントに残した。上旬に進めた自己理解の広がり、自己受容の進展を経て、中旬頃のコメントには「食事、健康、自分に合うものに関心が湧き始めた」とか「○○したい」とか、そういった言葉がみられる。
一方で、論文執筆に集中できるのは10月しかない、11月から重い授業が始まるというプレッシャーは、糖質依存を加速させた。それが月末の決意につながっていく。
10月下旬から今 決意と前進する日々
続く…
この2カ月の間に書き留めてきた、その時々の気づき、思い、考え。
刹那的で切実で人間味にあふれた言葉は、今の私には話すことのできないからこそとても愛おしく感じられる。
今回のnoteだって、変化の途中にいる私にしか書けない言葉だと思う。
今日から2か月後、留学を終えて帰国する時にはどんなことを語るのだろう。
だから、タイトルは「私」変化の中間報告。
どうか不可逆の変化であってほしい。
後戻りする暇なんてないほどに、日々に小さな幸せと達成感を。