感情が死んでいく
20240405
私を守るために
私の感情が失われていく感覚がある。
社会に存在しないといけない。
でも怖くて不安で面倒くさくて仕方がない。
スキルを磨いても、やる気で補っても、愛想を良くしても、ギャップが埋まらない。だからといって諦めるわけにもいかない。苦しくてつらい。
すべての行為がただただ面倒なことに思える。
生きていたくないのだけれど、生きることをやめるわけにはいかない。
だから私は、様々な感情を抱くことを禁止する癖がついている気がする。
何も感じなければ、苦しくもないから。
そうしたら、
楽しいとか、幸せとか、好きとか、心地いいとか、怖いとか。そういう感情を得にくくなったように思う。別に楽しくはないし、だからといって苦でもない。合理的に、目的のために身体の健康を維持して道具として扱う。
そう、身体を道具のように思うことが増えた。
感情と身体が切り離されていく感覚がある。
一方で、
生きているという感覚を欲する本能が刺激を求めて、スリルを欲する。
暴食と嘔吐によって身体を傷つけている時は快感である。
空を飛ぶことが好きなのもこの理屈だと思う。バンジージャンプをしたい、グライダーに乗りたいと無性に思うことがある。上空に居たいと。
だからといって、リストカットはしないし、飛び降りもしない。
何かを殺生することもない。自己完結で十分だ。
つまり、一定の安全性が担保されたスリルが私の生きている感覚を満たす。
まぁこの時に感じている感覚に「楽しい」というラベルを貼ることもある。
そうしたら、
私は人間じゃないような感覚になる。他者からの善意に対してどういう感情を持っていいかが分からなくなった。他者への善意もわきにくくなった。何が善意で何が合理的思考なのか、境目がわからなくなった。優しい私は消え失せて、効率のみを考える機械のようになった気分だ。そこにどのように感情を組み込めばいいのか、どの程度感情を浸透させればいいのか、どのように本能と理性の折り合いをつければいいのかが分からなくなった。面白味がなくなった。
メタの自己が、理性に支配された自分をみつめ、憐れんでいる。
「あぁ、可哀そうな人間」
いや、だらけている時はあるから、完全に支配されているわけではないかもしれない。でも、それも必要だから許すという思考でしか、遊びの余地を作ることができない。許容を越えた行動は、罰則、後悔の対象となり、新しい規範が創られる。それを守れない自分への懺悔が増加していく。
見た目や体型についても、より敏感になったかもしれない。
鏡をみて醜いと感じる。気持ち悪いと感じる。体重を減らさなければと思うけれど、ストレスを解消するために、暴食をする。そして吐くことに快感を覚える。これが悪い行為なのも知っているから、私が自己嫌悪する手段として、暴食と嘔吐を繰り返していることも知っている。
しばらくたつと、理性に「それ以上やるとデメリットが大きくなるから、止めておきなさい」といわれ、私は暴食をやめる周期に入る。でもいつも暴食の悪魔が耳元でささやくから、いつ堕落するか分からないという恐怖感を常に抱えて日々を生活している。
私を縛る鎖は、成長とともに、社会環境の変化とともにより巧妙化している。生きることが楽しくない。私の生は常に恐怖を伴っている。解放されようともがけばもがくほど、鎖が皮膚に食い込んでくる。だから、私は抵抗せず、穏やかに、心を殺して、理性に従う。
楽しいという感覚を取り戻したい、思うままに生きてみたいという思いは、心の奥底にしまっている。取り出して夢見心地になったり、行動する勇気が出たりするのだけれど、やっぱり理性に負けてしまう。私は永遠に勝てない。縛られたまま一生を終えるのだろうか。
非常につまらない。
一方で、私は日々つまらないと感じている。面倒くさいと呟いている。
これは感情か?理性への反抗か?身体の声か?
よく分からないけれど、本当は内側からあふれ出る何かを求めている。
私だって楽しいという感情とともに生きていたい。でもなぜかできない。
恵まれた環境にいて、たいした苦労もしていないのにわがままだね。
また1週間、生きましょう。