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「シネマティック」という言葉、あるいは映画音楽の雑食性について


ダウンロード、インストール、アクティベート

PCで音楽制作をする人なら誰でも経験があるだろう。これまで使用していたPCが壊れたか、単純に性能のいいものに買い替えたか、理由は何であれ新しいPCに以前の環境を再構築しなければならないことがある。これが非常に骨の折れる作業だ。仕事などで取れる時間が限られてしまっていると下手をすれば一週間近くかかる場合もあるだろう。誇張ではない。実際の楽器の音を高品質でサンプリングしリアルに再現しているタイプのソフトウェア音源は、それだけで10GB以上、大きいものだと50GBにもなるものもある。ネット回線が弱い環境であればダウンロードだけで半日くらいかかってしまうこともあるだろう。それが人によってはいくつもあるのだ。ダウンロード、インストール、アクティベート。これを延々と繰り返す。もちろんこの間音楽制作はできない。ストレスフルであることこの上ない。

…ということを、ついこの先日行った。

その文句を言うために今noteを書いている訳ではない(10%くらいはそうかもしれない)。この作業中に気づいたこと、思ったことがあり、まあ文章化しておこうと思ったのだ。
例にもれず私もダウンロード、インストール、アクティベートを繰り返していた訳だが、その過程で、DTMに携わる人なら誰でも知っているであろうメーカー、ソフトウェア音源およびプラグインの最大手でありMIDIキーボードやDJ機材なども制作販売している巨大企業Native Instrumentsのホームページを見ていて少しゲンナリすることがあった。以前からこの言葉は目立っていたし、別に今回新たに追加されたわけでは全くないのだが、改めて気づいたというか、まあそんなところなのだ。――「シネマティック」。映画的、映画の、映画に使用する、そういった意味だろう。私がなぜゲンナリしたのか、映画音楽愛好家に誤解を与えたくもないので少し説明をしたい。

映画音楽とは

今手元にあるアメリカ音楽史の本をペラペラと眺めてみたが、意外にも映画音楽について触れているものはほとんどなかった。ブルース、ロック、ジャズ、ファンク、ダンスミュージック、つまりは黒人と白人が混じり合うことで生じたものが今や世界の全てを覆い尽くそうとしているわけだが、そのある方向における最先端に位置しているのが映画音楽だと言っていいだろう。なぜなら、映画音楽は文字通り何をしてもいいのだから。そのシーンに合った感情を観客に呼び起させるものであれば、半音をぶつけるなんて当たり前、純正律と平均律を自由に行き来してもいいし、調整のルールも無視してもいい、同じ曲の中でバッハとシェーンベルクやブーレーズを瞬時に切り替えてもいいのだ。ジャンルなんて関係ない。それはFXサウンドであって音楽ではないと反論が来るかもしれない。しかしFXとて適当に作られている訳では決してない。先ほど「何をしてもいい」と言ったが、それらは実は高度なルールの上で行われているのだ。(ちなみにこの真逆の方向の先端にあるのが、ジョン・ケイジなどで有名な所謂「現代音楽」である。)

シェーンベルクとブーレーズから二曲。「シネマティック」だ。

『憂鬱と官能を教えた学校』で菊池成孔が、バークリーの最後の授業がフィルム・スコアリングであるという旨のことを言っている。どのくらい事実に基づいているのか、基づいていたとして今もそうなのかは定かではないが、バークリーという音楽の最高府において学を修めた人たちは最終的に、テレビ、CM、映画の音楽をクライアントの要望に従い一定の時間一定の予算で制作する技術を求められることとなる。彼/彼女が憧れたのがマイルスなのかコルトレーンなのか、そんなことは関係ない。ハイ・アートとは異なる次元のプロフェッショナリティが求められるだ。

Native Instrumentsのソフトウェアのバンドルは3種類ある。左が廉価版、右が全部入りと考えてもらえればいい。シネマティックサウンドや映画音楽に必須のオーケストラ音源を全て入手するには最も高価なヴァージョンを購入しなければならない。1800ドルである。バークリーの学生はもちろん右のものを買うのだろう。Native Instruments Komplete比較表

映画音楽を貶めようという訳で決してはない。それらは明らかに技術的に圧倒的な位置にある。時に名曲と呼ばれるものも生まれているだろう(音楽家が一つの作品の音楽を監修するケースもあるが、これは今回は考慮に入れない)。FXを制作する職人の映像を見たことがあるが、個人的には音響派の作曲行為に似ていて面白いとすら思った。正直ずっと見ていられる。しかし映画音楽の商業主義的な側面に食傷気味になってしまっている人も多いのではないだろうか。

こんなのとか普通にずっと観てられる。非常に興味深いし、アートですらあると思う。繰り返すが、私は単純に映画音楽を否定している訳ではないのだ。

ワーナーとディズニー、帝国の逆襲?

映画音楽の歴史を語るには、ワーナー・ブラザーズ、そしてもちろんディズニーを語る必要がある。とりわけ20世紀中盤以降のワーナーの音楽から辿らなければならない。おそらくこのテーマで本が一冊書けるだろうし、もう書いている人がいるだろう(と思ったがざっとググってみても批判的な観点から書いた入門書のようなものはなさそうだ)。正直興味が出てきてしまったので、今積んでいるアメリカ音楽史の本が読み終わったら探してみようと思う。あるいは詳しい人はコメントください。

しかしここ数年のことであろうが、映画音楽の主戦場は配信サービスに移りつつあるようだ。NetflixやAmazonの台頭により配信サービス分野においてはワーナーもディズニーも遅れをとっていたらしく、2024年5月、この分野において両者が提携することを発表したらしい。何というか、「帝国」だなぁと思ってしまう。そんな「帝国」も新勢力に後れを取っているらしい。時代を感じる。しかし主戦場は変わっても、やっていることは同じだ。「シネマティック」な音楽は量産され続けている。

元々音楽は決まった時間に、決まった目的のために演奏されるものだった。グレゴリオ聖歌は決して、ちょっと駅まで歩く途中でAir Pods Proをポチっと押せば再生されるものではなかった。決まった日に教会に行って、静かに祈りながら聴くものだったのだ。しかし今や、配信サービスでLet It Goを流せばつまらない見慣れた街並みが瞬時にエルサの魔法で染められていくのだろう。感情を掻き立てるためだったはずの映画音楽が、我々の感情自体を決めてしまう。映画音楽の、ひいてはバークリーの勝利である(ディズニーはマジでちゃんと勉強したいと思っている。時代時代の圧倒的な才能たちが流れていっている場所であるはずだから)。

ピエール瀧は許されたのか、ちょっと気になる。

40か国語以上のLet It Go。流石に圧巻である。

まあいい曲だよね。

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