見出し画像

Spotifyってフロイトっぽいよねって話

世の中にはサブスクでは聴けない曲、アルバムが多数存在している。理由は様々だが(事務所の方針、サンプリングなど著作権の問題、共作者同士のトラブル、バンドの不和、アーティストの黒歴史等々)、中には今後の配信も絶望的なものもある。そもそも商業的需要がなく配信するメリットがないというものもあるのだろう。しかし「なんでこれがないの?」という名盤がぽんと抜け落ちてたりする。J-POPでもレーベルによっては全く配信をしていないものもあるらしいので、心当たりがあるの人も多いのではないだろうか。

こうした「配信では聴けない名盤」をまとめてくれている先人たちがいらっしゃるのでリンクを貼っておく。個人的にはもう「スキ」マークが1万くらい付いていいくらいの記事なのだが。是非とも読んで欲しい。

さて、個人的に問題だなと思っているのは、動画配信サービスとの違いだ。アマプラにしろネトフリにしろ(後者は人伝だが)、そのコンテンツは定期的に入れ替え、更新される。動画ファイルの大きさの都合上の問題だろうか。ドラマなどはその際の流行やリアルタイム放送との関係性もあるだろう。もちろんある程度常時設置の「スタメン」みたいなものはあるのだろうが、基本的に入れ替え制である。

対して音楽配信は基本的に消えることはない。聴いていた音楽が突如聴けなくなったら、まあ「何かあった」と考えるのが妥当である(前に言及したFloating Points & Pharoah Sandersの『Promises』はリリース当初Spotifyで聴けたのだが、突如消えてしまった。どうやら日本だけ聴けなくなっているらしい。これだけで何か事情があるのだろうことが想像できる)。少なくとも動画配信サービスのように、シーズンごとの入れ替え制は取ってはいない。
これの何が問題なのかというと、音楽配信サブスクは今や「アーカイブ」として機能しているということだ。分かりやすく言えば、国会図書館である。

何を大袈裟な、と言われるかもしれない。しかしこの状況が仮に5年10年続いたと仮定してほしい。サブスクで聴けない、というかサブスクに存在しないアーティストのことを、どれほどの人が記憶しているだろうか。現時点である程度人の記憶に、あるいは記録に痕跡を残しているアーティストであれば、何らかの形で語り継がれることはあるだろう。しかし確実に、正史からはこぼれ落ちる。ここ数年世間はアナログリバイバルで賑わっているが、それはおよそ配信やCDでも入手可能な音楽をアナログで購入するという意味においてであろう。一種のフェティシズムである。

歴史というのはそもそも起源の捏造に始まるというのはフロイト的な(あるいはフロイト読み的な)歴史観かもしれないが、20世紀末頃から跋扈し始めた玉石混合の偽史的想像力にあふれた諸著作(時代はばらつくがフロイト的エジプト、バッハオーフェンに始まり高群逸枝などに至る母権論の系譜や、ブラックアテネ論争)はこのことを見事に体現している。これらが偽史なのは、実証科学による史的事実に反しているからではなく、フーコー的な意味で権力の問題なのだろうと思う。もちろん「勝者が正義」、「勝者が語る歴史が正史」といった昔から語られるナイーブな議論にもかなりの正当性はあるとは思う。しかし事情はもっと複雑だと思われる。

加えてフーコーの考古学が権力の分析に用いた資料(ディスクール)が実はスウェーデンのウプサラ大学図書館やパリの国立図書館だったりに所蔵されている「アーカイブ(アルシーヴ)」に過ぎなかったことはよく指摘されている。公立あるいは大学の図書館に流れ着かなかった資料はフーコーの分析の対象にならない。当たり前だ。目に入らないのだから。フーコーを責めることはできない。(ちなみにフーコーの歴史記述も偽史的想像力の賜物である。これは非難ではない。歴史記述とはそういうものだ。)

すなわち「抑圧」と「忘却」は歴史の重要な一要素である。そしてそれは権力構造のひとつである。図らずもSpotifyに無意識を垣間見てしまった気がして勢い任せに駄文を書いてしまった。

余談だが、山下達郎が異常なまでに音質にこだわり、某コンサートホールでのライブ後には「もうここではやらない」と言い放ち(そのせいで私が住んでいた県に彼は来なくなった)、必然的に音質が劣化してしまうサブスクには一切音楽配信をしていないことはうちの猫でも知っている。彼ほど名を残したアーティストであれば、忘れ去られることはないのであろう。しかし驚いたのだが、最近知り合った同世代の人たちですらほとんどの人がシュガー・ベイブを知らない。Spotifyに達郎があったらおすすめアーティストにすぐに出てくるであろうに。非常にもったいない。


いいなと思ったら応援しよう!