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能動経済フェミニズムの結論「本人民事訴訟」という革命②
最近同性愛の歴史について調べていたら、中根千枝氏の日本人年功序列の縦社会説を裏付けるような言説に出会った。
日本には欧米のような「男同士の恋愛が罪」というような概念はなかった。これは明治以降に入ってきたキリスト教の概念である。
日本は寺院の稚児文化や武士の修道文化など、男同士の恋愛はむしろ高尚な趣味であった。
日本人の「不義」の概念は同性愛ではなく、同類と犯すタブーであるが、日本人が考えた「同類」と「非同類」の構造は、次のようなものだった。
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三橋氏が言うには、性愛は異類としか発生しないが、日本人の考えでは、年長男性と年少男性の間には「川」が流れていて、これを超えると異類の世界になる。
川を超えられるのは能動である年長の男性からの一方通行で、川の向こうは全て受動である。
年長男性が川を渡った先には元服前の少年と、未婚の娘がいる。これらはどちらも等しく年長男性にとって性愛の対象である。
一方で、年長男性にとって川のこちら側にいる「同類」とは男性ではなく既婚の女性である。したがって「不義」、インセンストタブー(同類同士の禁忌)は既婚女性や妾との性愛が「不義」となる。多分「姦通罪」の考え方の根本もこの概念によるものではないだろうか。
哲学の分野の構造主義、ユングなどの心理学で「共通の無意識」などと指摘される通り、人類には本能と進化の段階で会得した様々な行動や思考の「クセ」のようなものがある。その「クセ」には人種間や国単位地域単位でレベルが存在すると思う。
そして日本人の思考の最大の「クセ」として「年功序列」の概念があり、三橋氏の性愛分析を読むと、それは性愛行動の原理原則にまでなっているというのだが、私はこれはかなり納得出来た。
日本人のインテリや芸能、スポーツ界のホモソーシャルや、不倫に対するアレルギー反応、男児や女児に対するペドフィリア、稚拙さとイノセンスを求めるアイドル文化。全てスッキリと説明がつくからだ。
しかしこのような価値観はグローバル社会の中で、「多様性」とは容認されづらい。同性愛は多様性と認められても幼児性愛は無理だ。どんなに歴史的変遷を説明しても無理だろう。それなのに民族的思考の「クセ」として児童性愛や若い女性への偏向的視線は絶えない。
日本人が道具としてこれだけインターネットを活用する以上、民族主義を主張するのは無理だろう。
それに現代の年長男性からの性愛行動は、江戸時代や安土桃山時代のそれとは大きく劣化してしまっている。文化も呼吸も劣化してただの性暴力に成り下がってもいる。
この中途半端な状況に蹴りを着けるのはやはり法の下の平等を庶民が武器とする事が出来る「本人民事訴訟」ではないか。
追記:日本人の性愛対象の「同類」「異類」の川のこちら側の能動とあちら側の受動の関係で言うと、昨今の「熟女ブーム」も説明がつく。精神的に「少年」な若い男性と川のこちら側である中年女性の組み合わせは、日本人の価値観からは異類同士の性愛対象として正当なカップルになる。あとは熟年離婚、おじとパパ活女子、出産した妻に欲情出来ない問題など、このアルゴリズムは見事に全てを説明可能にする。