第44回:超秘教入門6|Red 大師へ至る霊的なイニシエーションの概要
危機が生み出すもの
解脱。
人がこれを果たすことにより、大師になる。
大師になることにより、人は神の定めた物質界の法則に縛られなくなる。
即ち、カルマの法則からの解放である。
アセカ。
秘教の世界では、人が解脱し大師へと至る第五段階のイニシエーションをそのように呼ぶ。
前回の記事、第43回:超秘教入門5|Close to the Edge 現代科学 VS 多次元科学では、神智学で説かれている霊的な仕組みについて記してきた。
今回の記事も前回の趣旨の内容を延長し、人が大師に至るまでの霊的な道のイニシエーションの階梯について考察していきたい。
今回は少々型破りな形で、超秘教入門の本文に入ることにしよう。
いつもは結びに往年のロックの曲を紹介し、文化を通して霊的に進化をするという方式をとってきた。
しかし、今回はタイトルに「イニシエーション」と銘打っているので、記事の内容としては決して軽いものではなく、終始一貫、緊張感が伴うものとなっている。
これはイギリスのプログレッシブ・ロックバンドのKing Crimsonが、解散直前の1974年10月にリリースしたRedというアルバムである。
このRedは全五曲で構成されているが、冒頭の一曲目から最後の曲まで一瞬たりとも弛緩することが許されない、非常にソリッドな出来のアルバムだ。
「Red」。
このタイトルが厳密には何を意味しているのか聴く者には不明であるが、各曲の極度に硬質な音の響きからは「危機迫る何か」を感じることができる。
King Crimsonは、この時期メンバー間の軋轢を生じ、バンドの活動は限界に達していた。
(Red制作時、メンバー間の不和が頂点に達し、アルバムのジャケの写真を同時に三人で撮ることができない程彼らの関係は悪化していたので、カメラマンはメンバーを一人ずつ撮影して編集することになった。まさに、極度の緊張状態である。)
そのため、Redがリリースされたのは1974年10月6日だが、その年末にはバンドを解散している。
そのような緊迫した状況下で製作されたせいか、レコードが回っている間中、聴く者に終始一貫「緊張の連続」を強要するかのような印象を与え続けるのが、このアルバムRedの特徴である。
ここで秘教の話に変わるが、アリス・ベイリーの著書に「新時代の弟子道シリーズ4 個々の弟子たちへの教え(中)」というものがある。
この本の145~146頁の中で、ジュワルクール大師は自身の弟子の一人にこのような主旨の教えを説いている。
それを自己流に要約してみよう。
この大師の教えからも理解できるように、人は過酷な状況下に置かれれば、その極度な緊張感からもたらされる重圧により、神経が鋭敏に研ぎ澄まされる。
それによって、安穏な日々の生活の中では決して発揮されることがなかったであろう、その者の潜在的な「本来の感性や能力」を神懸かったかの如く開花させる。
その証拠に、人類の歴史を振り返れば、歴史上に名を残した多くの偉人達は全て、この「危機」という体験を通して偉業を成した者達ばかりである。
特にその中でもブッダ、イエス、孔子、ソクラテスといった世に知られる四大聖人達は、その典型的な人々であると言えるだろう。
このKing Crimsonの70年代最後のアルバム「Red」を聴いて貰えば分かるように、彼らのロックの音は決して全盛期を過ぎて解散をしたバンドの音ではない。
寧ろ、このアルバムの音を聞けば、バンド自体の実力は絶頂期を迎えていたと言えるだろう。
しかし、メンバー間の軋轢からバンドは解散の道に至るが、逆にこのような危機的状況下でアルバムが制作されたことにより、その極度な緊迫感から神経がより研ぎ澄まされ、彼らの驚異的とも言える感性と能力が開花する。
故に、Redはとても完成度の高いロックの名盤となった。
私達常人は、「危機」という体験を非常にネガディブな印象で捉えるが、霊的な世界では「人生上の危機は、人を覚醒させるのに絶対不可欠な体験である」と見なすのである。
それが偉大なる大師の一人、ジュワルクールの先の言葉に象徴されているのだ。
我々は「危機」を体験することによって、霊的に進化する、と。
「理解力」という能力
秘教の世界でいう「イニシエーション」とは、霊的に進化するために天からもたらされた「苦難」を指す言葉である。
そして、その天からもたらされた苦難に怯むことなく立ち向かい、霊的な進化に成功した者のことを「イニシエート」と呼ぶ。
具体的には、イニシエートとは「自己の意識の拡大」に成功し、霊的な進化を遂げた者であると言えよう。
では、自己の意識の拡大に成功しイニシエートになった者と、未だ自己の意識の拡大に至っていない一般人との間には、どのような隔たりが見られるのであろうか。
それは、人としての「理解力と感化力」に格段の差があるのだ。
一般人の「理解力」について言えば、一般人は人に対して理解を示す以前に、人の話を全く聞くことができない。
仮に人の話を聞いているように見えても、実際のところは相手の話を聞いているようで全く聞いていない。
その証拠に、会話をしている相手に自分が話したことを何処まで理解しているのかを確認して訊いてみると、てんで訳の分からない答えが返ってくるのが常である。
とにかく「人は相手の話を聞く」よりも、内心では「自分の話したいことだけ」に意識が向いている。
そのため、大抵の場合は相手の話を右から左に聞き流し、自分の言いたいことばかりを話すというのが一般人の会話である。
要するに、彼らは肉体面だけが成人になっただけであり、自身の精神性の発達にまでは意識が至っていないので、彼らに「分かって貰おう」といくら理解を求めたところで時間の無駄なのだ。
なので、自身が話したいと思うことをしっかりと聞いて貰いたいのなら、カウンセリングルームに足を運ぶか、傾聴ボランティアをしている方に協力を求めるほかはない。
(但し、カウンセラーも傾聴ボランティアの方もピンからキリで、本当に話を聞くのが上手い人に当たるとは限らない。)
勿論、中には人の話に耳を傾けることができる大人もいるが、それは極稀なことである。
一般人は利己的に生きるので、相手と話をしても自分の話を主体に運んでしまう。
それに対して、イニシエートは利他的に生きるので、相手に対し理解を示し協力をする姿勢が見られる。
それはイニシエートが一般人の魂と比べて「魂の年輪」を多く重ねている分、知見が広く、豊かな感性と感覚に彩られているからだ。
そのため、イニシエートは精神的にも高度に発達しており、人としての器も非常に大きくなっている。
その「大丈夫」は本当に大丈夫?
余談になるが、人と話をしていて、よく「大丈夫」という言葉が出てくるが、この言葉ほどその意味から外れている言葉もないであろう。
とかく人が「大丈夫」という言葉を使う時は、相手の話を聞くのが面倒で
取り敢えず「大丈夫」と答えている場合が多い。
こう言っては何だが、筆者はその典型であり、家族や友人などが私に話しかけてきた時、気分的に話を聞くのが面倒に思うと、「大丈夫」という言葉を伝家の宝刀を抜くが如くに連呼していることが殆どである。
もし、あなたが家族や友人などと話をしていて、相手が大丈夫という言葉を使った場合は、このように尋ねてみると良い。
「それはどのように大丈夫なの?」と。
なので、筆者は人が大丈夫という言葉を使った時には、相手の言葉は絶対に信じないようにしている。
つまり、「大丈夫」という言葉は、「問題ない」という本来の意味として使われているのではなく、ただの相鎚として「うん」とか「はい」と同義に使われている曖昧な言葉なのである。
即ち、日本語において「大丈夫」という言葉ほど、いい加減な言葉は存在しないのだ。
以上のことから、この「大丈夫」という言葉は、決して鵜呑みにはしていけない言葉の一つである。
もし、この言葉が相手から発せられた場合は、「警告のレッド」として認識した方が無難であろう。
「感化力」という能力
話が逸れたので、元に戻そう。
次に、一般人の「感化力」について言えば、はっきり言って「皆無」と言って良いだろう。
ここで言う感化力とは、「人に与える影響力」について述べているものである。
先に述べたように、一般人は理解力についてさえこのような有様なので、自身の人生の中に育んできた高尚な思想哲学などというものは存在しない。
なので、一般人が他の人に対して、自身の「思い」や「考え」をいくら話したところで、彼らの人生に強い影響力を与えることなどは到底できはしない。
これはイニシエートの話とは別にしても、人に対して影響力を及ぼすことができる人物とは、自身の堅固な信念を持ち、それを常に実行に移し生きてきた知行合一の実力者だけである。
それはしっかりとした目的意識を持ち、長年その実現に向けて努力を重ねてきた者でなければ、人の心を動かすことなどは絶対にできないからだ。
では、「理解力と感化力」について、イニシエートと一般人とはどのような差がみられるのだろうか。
簡単に言えば、一般人は「利己的」に生きるのに対して、イニシエートとは「利他的」に生きるという特徴がある。
イニシエートが利他的に生きることができるのは、既に過去世で一般人の魂よりも多くの輪廻を重ねており、その体験から霊格が上がり、自身のことよりも他の人に意識を向ける器ができているからである。
このような段階に達した彼らは、転生すると多くの輪廻の経験から得られた自身の豊かな能力と感性を活かした職業に就くべく目的意識を持ち、それに向かって脇目も振らずに邁進する。
それに対して、一般人は「食べていくこと」だけを目的とし、就職に有利なように四年制の大学に通ったり、就職に役立つ資格を複数取得するなど、一時的な人生の目的意識を持つのが常である。
なので、一般人の場合は人生の中での期間限定の努力しかしないので、本当の意味では成人として社会的な実力が付かないのだ。
しかし、イニシエートの場合の努力は、一般人の彼らとは違う。
イニシエートが自身の人生上で目的を持った場合は、大学や資格取得のように期間限定の努力ではなく、その道を極めるため生涯に亘ってただひたむきな努力をし続ける。
「死ぬまで精進」
それがイニシエートの人生である。
このように、彼らは成人として社会的に真の実力が備わっているので、彼らが信念を持って語ることは「言霊」を発し、また文章を書き綴れば「文霊《ふみたま》」の力が働くのだ。
それ故に、イニシエートが人や社会に及ぼす「感化力」、即ち「影響力」は計り知れない。
その典型的なイニシエートの例が、先の四大聖人と言われるブッダ、イエス、孔子、ソクラテスである。
彼らの生涯を簡潔に記せば、以下のようなものだ。
ブッダは幼少より繊細すぎ、前半生はノイローゼ・・・。
イエスは愛の教えを説いたにも関わらず、十字架上で処刑・・・。
孔子は政局に破れ、晩年は老いた体で放浪・・・。
ソクラテスは信念に生きたものの、最期は毒を煽り刑死・・・。
四大聖人の生涯はこのように過酷に満ちたものなので、一般人の私達から見たら決して幸せな一生を送ったようには思えない。
けれど、秘教の世界では「人は危機を体験することによって、霊的に進化する」という。
人が受けるイニシエーションとは、「限界を超えたレッドゾーンのメーターの針」を振り切らなければ、霊的進化の境地に達することができないのかもしれない。
人間が辿るイニシエーションの段階
このように、イニシエートは一般人よりも理解力と感化力に優れているという話を展開してきたが、そのイニシエートといわれる人々にも段階というものがある。
それによって、理解力と感化力といった能力にも、かなりの差が生じてくるのだ。
人間が霊的に進化し受けることができるイニシエーションの段階は、一段階から四段階までの四つとなるが、簡単に言えば三段階のイニシエートよりも四段階のイニシエートの方が霊格が高いので、その分能力も高い。
ここで誤解をしてはいけないのは、イニシエーションの世界は霊格が上がれば三段階のイニシエートよりも四段階のイニシエートの方が「偉い」というようなものではない。
人間の世界で言えば、課長よりも部長、部長よりも社長、社長よりも会長というような上下関係の構造で企業は成り立っているが、霊的な世界では、そのようなお粗末な上下関係で成り立ってはいないのである。
霊的な上下関係で言えば、三段階のイニシエートよりも、四段階のイニシエートの方が霊格が高い。
その分だけ、四段階のイニシエートが背負う霊的な責任もより重くなる、というのが霊的な世界の仕組みだ。
「霊的な格が上がる」ということは、それだけの実力が付いたことを意味するので、「その者が果たす役割は、よりも重いものになる」というのは自明の理である。
そのために、その人物は霊的な進化を果たし「格」が上がったのだから、その責務を果たさなくてはならない。
霊格が上がるとは、その者の霊的な器がより大きなものになるので、より多くの霊的なエネルギーである「高い波動」を使いこなせるようになるからである。
要するに、イニシエートは一般人とは違い、波動自体が高くなっているので、その感化力、即ち影響力が「インスピレーション」として自然に作用し、直接的または間接的を問わず、人の無意識に霊的な影響を及ぼし、内的な気付きをもたらすのだ。
それによって人は高揚し、精神的に新たな人生の一歩を踏み出す糧となるのである。
人間世界での昇進とは、役職に就くことにより地位が上がりそれに伴い給料が上がっていくが、霊的な世界では、霊格が上がる毎により重大な責任を背負うことになる。
この霊的な意味における「重大な責任」とは、いったい何を指しているのであろうか。
それは宇宙を統括する神の経綸(プログラム)に従い、自然界の全生命を進化させるという神の仕事の一部を担うということを意味するのである。
言い換えれば、イニシエートとは「神の仕事の一部を担う者」と言うことができるであろう。
理屈はさておき、人間が受けることができるイニシエーションの段階の表(図1)を以下に示してみよう。
この五段階のアセカというのは、冒頭で説明したように、秘教の世界では「人が解脱し大師へと至る」第五段階のイニシエーションをそのように呼ぶのだ。
現在の人間が関わる霊的なイニシエーションとは、一段階のソターパンナから四段階のアルハットまでということになるが、厳密に言えば、秘教の世界では一段階と二段階についてはまだ正式なイニシエーションとは見なされない。
真のイニシエーションとは、三段階のアナーガミからということになる。
大師方のイニシエーションとその段階
そして、この四段階の上の五段階からは、人間ではなく「超人としてのイニシエーション」を受けることになるのである。
では、人間を超えた「超人」といわれる大師方のイニシエーションの段階の表(図2)も、参考までに示してみよう。
なお、ここでは詳細を省くが、秘教の世界で言われる七光線を司る「七大聖」とは六段階のイニシエートであり、ハイラーキーの長であるマイトレーヤは、ここでは七段階の「キリスト」として示されている。
なお、秘教の世界では「キリスト」とは、ナザレの人イエスを指すのではなく、彼を背後から霊的に導いた「マイトレーヤ」のことを言うのである。
現在、イエスは第六段階のイニシエートであり、第六光線の理想のエネルギーを司る七大聖の一人である。
そして、九段階の「世界の主」とは、世界霊王である「サナート・クマラ」のことを指している。
この一段下の八段階には「プラチェカ仏」とあるが、これはサナート・クマラを支える彼の相談役的な三人のクマラのことである。
その三人のクマラとは、「サナンダ」、「サナカ」、「サナータナ」のことをいう。
その他にも、まだ公にはされていないクマラが三人おり、この地球上には計七人のクマラが存在するという。
(この世界霊王サナート・クマラについては、過去の記事、第9回:秘教編4|ハイラーキー 人類の背後に存在する光の勢力を参照されたし)
そして、五段階のアセカの大師には、アリス・ベイリーを通して人類に霊的な教えを説いたことで知られる、ジュワルクール大師も含まれている。
なお、ジュワルクール大師は第二光線の系列に属し、彼の師は第二光線を司るクートフーミ大師である。
彼は二十世紀になってから大師になったチベット人の大師であるが、秘教の世界では「一世紀に一人、人類から超人が出れば良い方だ」と言われている。
それほどアセカという五段階のイニシエーションは、高度な四段階のアルハットに至ったイニシエートでもなお、困難を伴うのである。
以上、簡潔ではあるが、大師方のイニシエーションについて概略を述べてきた。
Redへ・・・。
人が霊的に目覚める時には、どうしても「限界という境界線」を超えねばならず、そのために激烈な痛みを伴う人生上の苛酷な体験を避けることはできない。
先に「秘教の世界では第三段階のイニシエーションから正式なイニシエートである」と述べたが、歴史上の第三段階のイニシエートで有名な二人の男女の人物がいる。
その一人が、二千年前にパレスチナの地に生まれたナザレの人イエスであり、そしてもう一人が、十五世紀にイギリス軍からフランスの要衝の地オルレアンを守った少女、ジャンヌ・ダルクである。
この二人は共に、人々のために人生を捧げたにも関わらず、イエスもジャンヌも処刑台の上で無残にも露と消えた。
イエスはユダヤ民族から救世主とは見なされず、十字架上で悶え真紅(Red)の血を流し、ジャンヌは異端の魔女として真紅(Red)の炎と煙に包まれ死んでいった・・・。
この悲劇の偉人であるイエスとジャンヌには、不思議にも幾つかの共通点が見受けられる。
彼らは第三段階のイニシエートであり、共に背後からハイラーキーの大師方の導きを受けていた。
また、彼らの活動期間は短く、イエスは約三年、ジャンヌは二年程であり、生前は人々から虐げられ、死後にその輝かしい功績を認められた聖者と聖女である。
(ジャンヌは十五世紀に魔女として火刑に処されたが、五百年の時を経て、二十世紀にローマ法王庁にて正式に聖女の列に加えられた。)
イエスはユダヤ民族が神と契約した旧約を、他の人種も含めた新たな契約として神の救済の概念を拡大し、新約の時代を後世に示した。
即ち、それまでは神とユダヤ民族との間に交わされたパレスチナ限定の民族宗教だったものを、他の人種も神の救済を求めることができる新たな契約として世界宗教へと昇華したのである。
そして、ジャンヌは救国の少女として立ち上がり、華々しい戦績を上げたことから、当時のフランス国民に意識改革をもたらした。
当時のフランス人は自国を「王侯貴族の国」と認識していたが、民間の少女が彗星の如く現れイギリス軍を撃退したことにより、国家とは「自分達国民も含めてフランス国家」であるという概念を形成した。
これが高度に進化したイニシエートの生涯であり、通常では到底考えられない「奇跡的な感化力」を多くの人々にもたらし、洋の東西を問わず、地域、国家、世界へと強大な影響を及ぼすのである。
イニシエーションとは、時として彼らのように命を懸けなくてはならない程苛酷極まるものであり、人がそれを受け入れレッドゾーンのメーターの針が振り切った時に霊的な進化が成就されるのであろう。
そのため、ハイラーキーの大師方は、イニシエーションについてこのような主旨の言葉を口にされている。