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第53回:超秘教入門15|Wuthering Heights 七つのアストラル界層

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超秘教入門の「本文と副文」

諸友よ、早いもので超秘教入門も今回の記事で15回目を迎えることとなった。
神智学、即ち、秘教の教えは高度な霊学の大系である。
そのため、その内容は「膨大且つ複雑」であり、生半可な興味本位では修められない難易度の高い学術であるのは否めない。

何故、そのような面倒な学術をここで説いているのか。
それは眉唾に聞こえるかもしれないが、間もなく私たち人類は『キリストの再臨』を目の当たりにする可能性があるからだ。

なお、秘教でいう「キリスト」とは、新約聖書のナザレの人イエスのことを指しているのではなく、「イエスの背後にいて彼を導いた霊的な師」のことをキリストというのである。
(現在、イエスはハイラーキーの第六光線「理想」のエネルギーを司る偉大な七大聖の一人であり、キリストとは緊密に連携し、人類を背後から霊的に啓導けいどうしている。)

また、秘教でいう「キリスト」は、世界の各宗教で出現が望まれている救世主のことであり、それはユダヤ教では「メシア」、イスラム教では「イマム・マーディ」、ヒンドゥー教では「クリシュナ」、そして仏教では「弥勒如来みろくにょらい、即ちマイトレーヤ」のことをいい、実は各宗教で同じ霊的存在のことを指しているのである。

要するに、キリストやマイトレーヤというのは彼の名ではなく、彼の「霊的な役職名」であり、どのように人が彼のことを呼ぼうと本人はその名に拘泥こうでいすることはない。
そのことを踏まえた上で話を進めていこう。

もし、私たち人類が『キリストの再臨』という奇跡を迎えた時、「その人物がいったい何者なのか」について全く知らないようでは、輝かしい新時代ミレニアムへの移行に支障をきたしかねない。

『キリストの再臨』という奇跡を迎えるに当たって、人々が事前にその情報に多少なりとも触れていれば、その時を迎えても彼の存在を抵抗なく受け入れられるであろう。
そのために、ここでは秘教についての情報を諸友に提供している次第である。

なお、キリストの再臨は、現在の世界経済が崩壊した時●●●●●●●●●●●●●に彼は公に姿を現す、といわれている。

その時、彼はテレビやラジオを通して人類に語りかけるが、それは言葉ではなく思念伝達テレパシーを使い語りかけるので、各人は母国語で彼のメッセージを心のうちに聞くという。

この日を「大宣言の日」といい、人類は新約聖書に記されているあの「ペンテコステの再現」を体験するといわれている。

ペンテコステとは、二千年前のイエス昇天後に、エルサレムのペンテコステ(五旬節ごじゅんせつ)の祭りで、クリスチャン達に聖霊が降りてきて、その話を聞いていた周囲の人々は、霊的な作用により各自の言語で話の内容を理解することができたというものである。
(ただし、チャクラの発達の関係から、テレパシーを受信できるのは基本的に十四歳以上の男女になるとのことだ。)

また、この日多くの人が奇跡的な治癒を体験することによって、人々はキリストの存在を徐々に知るようになっていくという。

このキリストの再臨についての情報を詳しく知りたい方は、英国人画家ベンジャミン・クレーム氏の著書を読まれるとよいであろう。

英国人画家であり秘教家でもあった
ベンジャミン・クレーム氏
2023Benjamin Creme Museum©

では、今更になるが、超秘教入門の文章構成について少しばかり触れたいと思う。

とにかく、秘教の教えは高度な霊学なので、その内容は膨大且つ複雑なものである。
その膨大且つ複雑な教えを、ここでは初学者が理解できるように出来るだけ噛み砕いて説いているが、どうしても記事の「本文」だけでは秘教の世界観を伝えることができないため、その記事に合う絵画や写真などの画像の下に「副文」という形で本文では説くことができなかったことをおぎなっている。

これで諸友は、この超秘教入門がどのような主旨で書かれているのか、また本文と副文という二重構造で構成されていることを理解されたことと思う。

いずれにせよ、一文の足しにもならない秘教の教えの長文を読まれている諸友に言えることは、「あなたは自身では気づいていないかもしれないが、既に無意識下では光の勢力と繋がっている」のである。
でなければ、このような小難しいnoteの記事に意識を向けるはずはないのだから・・・。

即ち、既に「あなたの意識は霊的に拡大しはじめている」のである。

世界教師として再臨したキリストの手形

1977年7月8日、世界教師であるキリストは
ヒマラヤ山中の拠点から既に地上に再臨し、
同志のハイラーキーの大師方と共に
「人類に危機が訪れた時、人類の前に
出現する準備が出来ている」という。

仏教では56億7千万年後に弥勒仏みろくぶつ、即ち
マイトレーヤキリストが地上界に出現するという。

そして、2019年、サタニストディープステートの手により、
全世界的に567コロナウィルスが蔓延まんえんした。

新約聖書の黙示録第13章16節にはこのようにある。
「あらゆる階層の人々の右手か額に印をつけさせ、
印のない者には商品の売買をさせないようにした。
その印はそのけものの名であり、またその名を数字で
表すと「666」即ち「反キリスト」を意味する。」

洋の東西の聖典が示す「567コロナ」と「666ミロク」。

この二つの数字は「救世主の出現を示す暗号」と
しても解釈できる。それは現代の危機的時代に
「同時に示された数字」であるからだ。

キリストは出現に際し、その予備段階として
誰もが「癒やしのエネルギー」を受けられるように
自身の一枚の手形を公開した。

また、真剣に救済を求めた者には、キリストは
カルマの許す範囲内●●●●●●●●●で求めに応じられる。
なお、彼のエネルギーを受けるには、この手形に
意識を向け、見つめるか手を置くだけである。

彼は言う。
『わたしの助けは
いつでもあなたがたの意のままである。
ただ求めればよいのである。』

アストラル界 第一界層|地獄

さて、今回の記事の本題に入ることにしよう。
前回の記事、第52回:超秘教入門14|Seventh Son of a Seventh Son カルマの神々では、秘教の教えで伝えられている「血も涙もない極悪人が落ちるアヴィチ(地獄)」について説いてきた。
その一部を抜粋すれば、以下のようになる。

秘教の地獄とは、宗教観から来る「あの世で体験する肉体的拷問」ではなく、極悪人が死後に落ちる地獄絵巻のような「特定の空間」を指すのではない。

秘教でいわれるアヴィチとは、転生後の来世においてカルマの清算による「想像を絶する悲惨な人生を送らなければならないという精神的な拷問」を意味する。

即ち、極悪人が過去世で悪意をもって人に害をもたらしたカルマが鏡の作用の如く自身に跳ね返り、「被害者の苦しみが精神的拷問として自身の意識の中で起こる追体験」をアヴィチというのである。

第52回:超秘教入門14|
Seventh Son of a Seventh Sonカルマの神々

アヴィチって何かしら?から抜粋
 

アヴィチとは、過去世で積んだカルマが清算すべき「報い」となり、「来世生まれ変わったときに自身に返ってくるカルマの法則」を説いている。

しかし、厳密には極悪人は来世を待たずして、アストラル界の第一界層で想像を絶する過酷な責め苦を受けることになる。

この第一界層はアストラル界の最下層であり、生前、邪悪で自己中心的な我良しの者だけが落ちる空間であり、各宗教で「地獄」といわれる世界である。

これは地獄といっても、極悪人自身が生前に作り出した邪悪な想念がこの第一界層で「極度に邪悪な想念形態」として形成され、その中で「単に自身がもがき苦しんでいるだけ」の哀れな空間に過ぎない。

即ち、極悪人は最下層の第一界層で自らの邪悪な心のあかを落とさなければならず、それにはただ苦しむことによってのみみそぎがなされるのである。
その意味ではアストラル界の第一界層は地獄ではなく、霊的な禊ぎをするための行場ぎょうばといえよう。

よって、極悪人の第一界層の体験は「自身の想念の霊的な禊ぎ」であり、カルマの清算とは異なるものである。

何にせよ、極悪人は死後アストラル界の最下層でひたすら苦しむ通過儀礼を体験しなければならず、遂には「己が心の罪の重さに気づき自覚に至る」ようになる。

また、この自覚に至る過程において、極悪人が周囲を見渡せば、自身と同じようにもがき苦しむ醜い亡者達であふれ返っていることに気づく。
即ち、「ここはごうが深い者達だけが落ちる地獄である」と認識するのである。

これを簡潔にまとめれば、来世は「因果応報によるカルマの清算」、アストラル界の第一界層は「自縄自縛された想念の浄化過程」といえる。

なお、秘教の教えでは、地獄は存在しない。

もしこの宇宙に地獄が存在するとすれば、それは人の恐怖や不安が無意識のうちに作り出した「負の想念による戦慄せんりつの仮想空間」でしかない。

アストラル界は想念の世界である。
よって、本来存在し得ないようなものであっても、目には見えない四次元のアストラル界では「人の想念は実体化してしまう」のだ。

極悪人は、読んで字の如く心が極悪であるから、その心がアストラル界で実体化するとすれば決して美しいものではない。
故に、極悪人は生前のごうの深さから、アストラル界では醜悪な化け物の姿と化す。

このように、アストラル界では心の在りようが自身の姿を形成するので、最下層の第一界層では邪悪な者は悪魔の姿に、人を厳しく責め立てる者は鬼の姿にといったように変貌へんぼうする。
また、極悪とまではいかなくとも、不品行な者もその獣性からアストラル界では獣の姿を取るといわれている。

我が国の山岳修験の行者も、霊障をもたらす邪霊の狐狸こりの類いなどは自身の名を名乗ることができず、名を尋ねても「狐だ、狸だ」としか言わないという。
これは生前、身にやましいところがあったために実名を名乗ることができないそうだ。

アストラル界の最下層では、このように極悪人は生前の邪念から本来の人間の姿からかけ離れた姿で存在している。

要するに、人間の姿からかけ離れている者は、業が深い故にもがき苦しむことになり、その苦しみを地獄と感じるのは「当人の主観の問題」ということになる。

何故なら、神はこの宇宙には地獄という凄絶せいぜつな空間を定めていないからである。

アストラル界には、
生者と死者の霊が入り交じって存在している。

この次元は「あの世」といわれる世界なので、
死者が存在するのはともかく「生者も存在する」と
言えば、恐らく「?」だろう。

私たちは毎夜眠りにつくと、自らの肉体を
この物質界に残し、アストラル体とメンタル体を
切り離してアストラル界に移行している。
(これは毎夜無意識のうちに行われている霊的な
生理現象なので、本人は気付いてはいない。)

この睡眠中の間に、私たちはアストラル界で
「生前親しかったかつて●●●の家族や友人達」と
いつも接しているのだ。

ただ、肉体に戻り、朝、目が覚めると、物質界と
アストラル界では周波数領域が異なるため、
その世界で過ごした記憶が忘れ去られてしまう。

けれど、脳裏にはうっすらとアストラル界での
出来事の断片が残っている場合もあり、
その場合は「不思議な夢」というかたちで
記憶していることが多いようだ。

なお、初期の頃の神智学では、アストラル界の
ことを「カーマ・ローカ」と呼んでいた。
これはインドのサンスクリット語だが、西洋人達は
後に中世の錬金術の言葉からアストラルという
呼び方に変え、現在の神智学用語に至っている。

DARK and LIGHT

極悪人がこの最下層の第一界層では化け物の姿をとることについて、参考までにこのような話を挙げてみよう。

海の底の深海魚と南国の熱帯魚の形状を比べれば、視覚的には深海魚は悪魔的であり、熱帯魚は天使的であることは否めないであろう。
これは霊的な視点から見れば、深海には陽光が届かないからである。

光が無く暗い空間は、周波数が低くなる。

例えば、深夜の睡眠中に金縛りを食らう人がいる。
ようやく金縛りが解けて再び眠りにつくと、また金縛りを食らうことがある。
このような場合、蛍光灯をけて眠ると金縛りを避けることができる。

理由は、暗闇の空間では周波数が低いため低級霊は生者に接触しやすいが、光をともされると周波数が上がるため接触しづらくなるからだ。

(心霊主義の降霊会で部屋を暗くするのは、霊媒に霊を降ろすためであり、この霊が低級霊ではなければ部屋を暗くする必要はない。秘教では降霊会で降ろしている霊はその人本人の霊ではなく、浮遊しているアストラルかくであると断定している。)

これと同じことで、熱帯魚は海の中でも陽光が差し込む範囲の水深に生息しているため、周波数の影響から綺麗な形状をしている。

要は、この地上界でも陽光が届く領域は周波数が一定に保たれているため、その光の届く領域に生息する生物の形状は、皆、視覚的に耐えうる姿を取ることができているのだ。

これはあくまでも生息域による周波数の話であり、生物自身の想念の善し悪しから生じた形状の違いではない。

ここでいう周波数とは振動数のことを指し、宇宙では振動数が増えれば増えるほど周波数は高くなる。

なのでヒーリングで使用する音叉でいうと、細胞を修復する528Hzヘルツよりも物質や空間を浄化する4096Hzの方が周波数が高いことになる。

なお、Hzとは一秒間に何回振動するかを表わす単位をいう。

霊的な世界を探求する上で、あらゆることに「周波数」が深く関わっていることを理解しておくと、その後の学習がとても進みやすくなるだろう。

地上界とアストラル界では、
エネルギーが向かう方向が異なる。

地上界がプラス方向に向かうなら、
アストラル界はマイナス方向に向かう。

つまり、自然界は境域きょういきによってエネルギーの
流れる方向は自ずと変わってくるのである。

(この地球上でも、北半球と南半球では公転力の
働きからバスタブなどに溜めた水を流すと、
渦の回転が北半球は反時計回りに、南半球は
時計回りに回転するという違いが見られる。)

この諸法則から「アストラル界のエネルギーは、
押す力ではなく引く力である」ことが分かる。

即ち、「霊は人を引っ張る」のである。

仮に彼ら霊達が人を引っ張る気がなくても、不意に
人と波長が合った場合、霊の世界はマイナス方向に
エネルギーが向かっていくので、人は「自分の
意志にかかわらず霊に引っ張られてしまう」のだ。

もし、今自分の目の前で500㎞で疾走する
リニアモーターカーが横切れば、高速で走る
リニアモーターカーに引っ張られてしまうだろう。

これと同じ現象が霊と人の間にも起こる事がある。
では、霊に引っ張られた人はどうなるのか?

霊感の強い人は、身内の人が死にかかると
酷い寒気に襲われ血の気が引いたり、また
胃の中になまりが入ったように重苦しく感じるなどの
不快な感覚を覚えたりする。

稀に、本当に「あちらの世界」に連れて
いかれてしまう人もいるようだ・・・。

何にせよ、霊には「磁力作用」があるので、心霊
スポットなどには間違っても行くものではない。

アストラル界 第二、第三、第四界層|煉獄

アストラル界の第二、第三、第四界層は、煉獄れんごくといわれる空間である。

ローマ・カトリックには、聖母マリアがイエス・キリストに死者の罪の軽減を掛け合い死者を煉獄から救ってくださるという宗教観があり、そのため聖母マリアは「煉獄の女王」とも呼ばれる。
(ローマ・カトリックとは、バチカンのローマ教皇を首長とするキリスト教の一派である。)

けれど、煉獄とは死後のアストラル界の低い界層のことを指しているのであり、アストラル界では霊が生前自身が生み出してきた様々な執着心から解き放たれれば、自然と時間の経過と共に上の界層へと上昇していく。
(執着心とは、その人の家族や友人などに対する思い、また自身の地位、名誉、財産、嗜好品などを失うことを恐れて囚われること)

なので、わざわざ自身の罪の軽減のために、尊いマリア様のお手をわずらわせる必要もないわけである。

いわばアストラル界とは、霊にとって空気清浄機のフィルターのような作用をもたらす界層であり、そこを通過することによって霊は徐々に浄化され、次の霊的界層であるメンタル界への移行へと備えていくのである。

なお、各アストラル界層の霊の滞在期間は、執着心の強弱によって異なってくる。

補足として、人が地上界で生を終えるとアストラル界へ移行するが、亡くなった時の年齢のままでアストラル界での生が始まるので、また赤ん坊から始まっていくのではない。

正確を期せば、亡くなった時の年齢のままというのは、その霊の実年齢ではなく精神年齢のことを指すのである。

アストラル界は七界層で構成されている想念の世界であるが、その霊の精神性が高いか低いかによって死後移行するアストラル界の界層が異なるのだ。

要するに、その霊の精神年齢が大人か子供か●●●●●●●●●●●でアストラル界の界層の高低が決まるのである。

では、アストラル界の必要最低限の知識を得たところで、煉獄といわれる界層について話を進めることにしよう。

E・ノーマン・ピアースン著「神智学の精髄エッセンス」には、煉獄はアストラル界の第四界層と記されているが、ここでは第二、第三、第四界層まで一括りにして煉獄と呼ぶことにしている。

何故なら、煉獄は地獄とは違って、「自身の執着心に気づけば心のあかを落とせる段階の霊達」が移行する空間なので、一般人の殆どの霊が落ち着くのがアストラル界の第二、第三、第四界層であるからだ。
(厳密に言えば、死後、大半の霊が落ち着くのは第二、第三界層であり、これに対し、第四界層は比較的精神が成熟している霊達が落ち着く界層である。)

このアストラル界の第二界層は、地上界にあるものがそのまま存在するので、霊は「自分が死んだことにすら気づかない」ことが多々ある空間として知られている。

一般人の多くが凡夫であるため精神性が高いとはいえず、どうしても生前からの自身の執着心に囚われてしまう。
そのため、このアストラル界の第二界層では、一般人の中でも「生前の執着心が特に強い段階の霊達」がひしめく空間であり、その執着心の強さ故に地上界の霊能者を通して、かつての身内に供養を求めてくるのもこの界層の霊達である。

アストラル界の第三界層は、第二界層の霊達よりももう少し執着心が薄くなった霊達が集う空間であり、まだ執着心が残っているため地上界に残してきた身内からの強い思いが届くと、「後ろ髪を引かれて思いが断ちきれない段階の霊達」の空間である。

もし、あまりにも生者の思いに囚われ過ぎれば、より上の界層に移行する上で支障を来すのは否めない。

次のアストラル界の第四界層になると、それまでの第二、第三界層の霊達と比べて生前の執着心はだいぶ薄くなり、「さらに上の界層へと進むことが最善であると理解できる段階の霊達」の住まう空間である。

やはりこの界層でも、生前の身内からの強い思いが届けばまだ割り切れない段階でもあるので、それに引きられなければ順当に次の界層に進むことができる。

このように、煉獄といわれる低いアストラル界層の第二、第三、第四界層は、まだ生前の執着心がその界層の段階により、強、中、弱というようにグラデーションをなしており、「執着心というアストラル質料が徐々にり減り精妙化する」ことによってより上の界層へ昇っていくのである。

アストラル界の住人の居住区は「思い」を
同じくする霊達が集まる。それは各アストラル界が
「人の想念によって形成される世界」だからだ。

言うまでもなく人の想念は無限に存在する。
したがって、アストラル界も無限に存在する。

人の想念には快、不快がある。
誰しも人柄の良い人と時を過ごせば居心地は良いが
性格に問題がある人と過ごすことになれば、
その逆の気分を味わう。

「類は友を呼ぶ」
アストラル界では、同じ見方、考え方をする霊達が
自然に集まり生活を共にする。
なので、地上界とは違って人々の思考が十人十色の
ように折り重なり合っているような世界ではない。
想念は、いわば「ラジオの電波」のようなものだ。
AM、FM。
自分の聴きたいラジオ番組に周波数を合わせれば、
そのラジオ番組を聴くことができる。
そのラジオ番組が好きな人達が集まれば、
自ずと話が盛り上がることだろう。

死後のアストラル界の住人達は、この
「思いの周波数の法則」によって自動的に集まり
生活空間を共有しているのである。

アストラル界 第五、第六、第七界層|サマーランド

ここからは、心霊主義でサマーランドといわれているアストラル界の第五、第六、第七界層について触れてみよう。
(心霊主義とは、19世紀のアメリカのニューヨークに転居したフォックス姉妹から始まる「霊媒を通して死者と交流する」当時流行した霊的社会現象である。それは後にヨーロッパまで飛び火し、この心霊主義の降霊会は西洋では100年間も続いた。なお、心霊主義とは日本の呼び方であって、本来はスピリチュアリズムという。)

アストラル界という人の想念の世界は、上の界層に上がれば上がるほど地上界から離れ周波数は高くなり、それによってアストラル界の風景は美しさを増していく。
それは地上界の風景では想像もできないほどの美しさで彩られているという。
これはサマーランドで暮らす霊達の心が清められているので、彼らの浄化された心の心象風景がアストラル質料となって形をなしたものなのであろう。

彼らは既に物質的な概念から解放され、物質的な制約に縛られなくなったことから、「より想念を高度かつ自由に使える段階」に達している。

即ち、サマーランドは心霊主義で「天国」と言われているように、この段階の霊達は自身の想念を自由に使い、望んだ世界を作ることができるのである。

なので、サマーランドの第五、第六、第七界層は端折はしょって言えば、上位の界層に上がれば上がるほど心が自由になり、その結果、霊的な至福感に満たされ地上界では得られない平安を得ることができるのだ。

このアストラル界での霊の生活は、既に肉体を失っているのでアストラル体を活用して暮らすことになるが、それについて少し触れてみることにしよう。

私たちは地上界で肉体を維持するために、お米を炊いたりパンを焼いたりしてそれを食し栄養を摂取しているが、アストラル界では食物からではなく第三元素精といわれる「第三エレメンタルエッセンス」を摂取し、アストラル質料でできているアストラル体を形成している。

このように、アストラル体は物質質料とは異なるアストラル質料で形成されているので、自身が行きたいと思った場所や会いたいと思った人物の所へ瞬時に移動することができる。

例えば、戦時中の日本では「戦地に行った息子が軍服姿で突然家族の前に現れて消えていく」という出来事が頻繁にあったという。

それは戦地の兵士が負傷し、「家族に会いたい」と強く願って息を引き取るその刹那に、肉体から意識が離れて故郷に飛んで行ったのである。

このような霊的現象を秋田県の鹿角かづの地方では、古くから「オモカゲ」と呼んでいたそうだが、「人の想念は強く念じれば自身の臨んだ場所に瞬時に移動することができる」ということだ。
これが感情体といわれるアストラル体の能力である。

以上が、死後の世界であるアストラル界の第一界層から第七界層の「想念の浄化過程」により住まう空間が変わってくる経緯いきさつを示してきたが、この後浄化された霊はアストラル界を卒業し、次のメンタル界の「デヴァチャン」といわれる低級天国へと移行していくことになる。

この五次元のメンタル界では、地上界でのあらゆる経験により培われたことを消化吸収し、潜在的な能力を引き出して以前より高度な霊的段階のパーソナリティーを獲得することを主な目的とする。

そして、各霊達はやがてこのメンタル界も卒業し、再び新たな経験を積み霊格を向上させるべく地上界へと転生していくのである。

アストラル界では他界した可愛いペット達も
暮らしている。
ペットの犬や猫達の霊は、自然界の野生動物よりも
霊的に進化しているが、動物は人間とは違って、
まだ霊的には個性化に至っていない。

「個性化に至る」ということは、
「コーザル体を所有する」ことを意味する。

コーザル体の所有に至っていない動物は
まだ人間にまで霊的に進化していないので、
「同種間の経験値を蓄積し、集団で共有する」
ことにより霊的に進化する形態を取っている。

秘教では、この動物の霊的進化形態を
群霊ぐんれい」という。
この群霊はアストラル界の上の次元である
メンタル界の霊的資質として存在している。

ペットの霊達は個性化に至るために、人間の
生活環境から影響を受け霊的に進化するべく、
犬や猫などのペットとして転生してくる。

彼らペットは、人間から愛されれば愛されるほど
その思いのエネルギーをかてにして、
より霊的進化を促進していく。
いずれ彼らは群霊というメンタル界の資質から
徐々に離れていき、個別化へと至る霊的な
三段階の過程を経てコーザル体を獲得し、
「個別化された人間」へと至るのである。

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「ヒースクリフ、私よ、キャシーよ。寒いわ、
中に入れて」のフレーズが印象に残る曲が
天才的なアーティスト、ケイト・ブッシュの
「嵐が丘」である。
(1978年にデビューシングルとしてリリース)

何度聞いても飽きない綺麗な曲だが、実は
窓の外から「少女の霊がこちらに呼びかけている」
心霊現象の曲である。
この名曲の元になっているのは、
イギリス文学を代表するエミリー・ブロンテの
「嵐が丘」であることは言うまでもない。

何故この曲を紹介したのかというと、今回の記事が
「死後の世界であるアストラル界」についての
話であるからだ。なので、私の中で「霊」の曲と
言えばいの一番に思い浮かぶのが、この
ケイト・ブッシュの「嵐が丘」である。

他に霊の曲を挙げると、Genesisジェネシス
「the musical box」や「 home by the sea」
「second home by the sea」などが挙げられる。

なお、エミリー・ブロンテもケイト・ブッシュも
Genesisも皆イギリス人であるが、それで
このような話を思い出した。

イギリスには「幽霊一覧表」という本があり、
未だ成仏できずにいる千人以上の幽霊達の
名前が連なっているとのことだ。

また、観光ガイドが幽霊が出没する心霊スポットの
パブや屋敷を観光バスで案内するそうであるが、
ただ気になるのは、この心霊スポットには
今でも人が普通に暮らしているそうなので、
「住人には迷惑では・・・」ということである。

とにかく、
「海の向こうのイギリス人は幽霊が大好きっ!」と
いうことで、興味のある方は少女の霊が出てくる
ちょっと怖い名曲「嵐が丘」を聴いてみて。