第51回:超秘教入門13|Neon Knights カルマの仕組みを学ぶ
私も人の子
前回の記事、第50回:超秘教入門12|Sabbath Bloody Sabbath カルマは影の如く・・・では、日常生活の中で図らずもカルマを積んでしまった者に降りかかる災いの一例を挙げてみた。
それは人様から長年に亘る恨み辛みを買ってしまった場合に起こる「念」の問題である。
即ち、「負の想念による呪い」ということになるが、それを一言で言えば、「生霊による霊障問題」ということになる。
これは大変陰気臭い話なので、「東洋の叡智」を伝える超秘教入門には相応しくない題材に思えるかもしれないが、身から出た錆とはいえ「カルマの法則は輪廻転生と対をなす」ものなので、どうしてもここで取り上げざるを得なかった。
私は今、「陰気臭い話」と述べたが、これは人間側から見た主観的なものでしかなく、秘教的に言えば「人間の感情論から来るアストラル的な捉え方」に過ぎない。
「カルマ」とはサンスクリット語で「行為」という意味であり、「人がした事は良くも悪くも自分に返ってくるという霊的な作用」のことである。
よって、そこに良い悪いという「善悪の概念」は存在しない。
それは人間から見た主観によるものであって、作用とは「エネルギーの法則」なので、人間から「感情という機能」を省いた場合、そのエネルギーは右へ向かうか左へ向かうかに過ぎないのである。
なので、秘教という高次元の霊学を学ぶのであれば、「人間の感情から来るアストラルの視点で世の中の事象について分別をつけることは間違いである」と言えるのかも知れない。
しかし、秘教家であっても私も人の子、「呪いだ生霊だ」などの話になればどうしても不快の念から眉を顰めてしまうものである。
そういう意味では、私は秘教を学んではいても非常にアストラル的であり、メンタル的に語ることができない若輩者、ということになる。
即ち、私はここで「超秘教入門」を説いてはいても、まだ霊的には修行不足であり、偽秘教家であることは否めない。
よって、この「超秘教入門」は、秘教を志す初学者にとっての入り口でしかなく、本気で東洋の叡智を求めるのであれば、神智学協会ニッポン・ロッジの門を叩くしかないだろう。
(なお、私は独学独習で神智学を学んだ者であり、神智学協会の学徒ではない。あくまで在野の人間なので、神智学の解釈に関しては一知半解な面があることも否めない。それで神智学を専門に扱っている神智学協会をお奨めする次第である。但し、入会するかどうかは個人の自由意志に委ねられるのは言うまでもない。)
けれど、私はこのように断言することができる。
「私は偽物の秘教家ではあるが、『大変筋の良い偽物』の秘教家である」と。
まあ、「筋が良いかどうか」を判断するのは私ではなく、これを読まれる読者の方々なのであるが・・・。
輪廻とカルマの関係性
秘教では、モナドは広義の意味で「魂」であり、モナドは第一ロゴス(神)の顕現である。
その「第一ロゴスの顕現である魂」を人間が持っているということは、人間自身が神の一部であることを意味する。
これを我が国の古神道的に言えば、人間は神の分魂であり、地上界における一柱の神になる。
ここで「ロゴス」の名が出てきたので、それについて少し触れれば、ロゴスは、第一、第二、第三ロゴスというように、「各三つのエネルギーの側面を持ち、三位一体の働きをする存在」である。
例えば、この三位一体をインドのヒンドゥー教ではブラフマン、ヴィシュヌ、シヴァ、日本の神道では、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、そしてキリスト教では、父、子、聖霊というように、世界の各宗教では共通して「高次のエネルギー」として捉えている。
以下にその一例を挙げると、表1のようになる。
輪廻転生とは、神の一部である魂が肉体人間を通して地上界で多くの経験を積み、霊的により進化することを目的にする。
そのため、魂がただ単に輪廻を繰り返すだけなら、この地上界を遊覧する観光旅行と何ら変わらない。
それでは魂が霊的により進化することは望めないので、自らがしたことに対して振り返るきっかけを必要とする。
それが自ら痛みを知ることであり、痛みを知ることによって「自らがしたことを自覚する」ようになる。
要するに、自身の行為を自覚することによって、自身に責任問題が生じることを理解するのである。
よって、「輪廻転生と対をなす形で、カルマの法則が存在する」のである。
いわばカルマの法則とは、魂が正しく進化するための調整を行う霊的な仕組みであるといえる。
では、人はどのようにして、カルマを積んでいくのだろうか。
それには一連の流れというものがある。
人は「何かを感じ、思い、考え、行動する」生き物である。
これを秘教的な解釈でこの流れを説明をすると、以下の表3のような過程を経ることになる。
このように、人はパーソナリティーの各諸体の機能を通して、自身の命を保つために日々の衣食住を満たしている。
それを簡潔に述べれば、人が内的に「感じ、思い、考え」、外的に「行動する」ことにより、それが各個人のカルマへと至るのである。
カルマの仕組み
以上述べてきたように、人は日常生活の中で「感じ、思い、考え、行動する」ことを当たり前のように行い、当たり前のようにカルマを積んでいる。
人の「感じ、思い、考え、行動する」という行為は、無意識のうちにほぼ同時に行っているが、「感じ、思うこと」はアストラル体の反応であり、「考えること」はメンタル体の反応であり、「行動すること」は肉体を使って目的を果たすことである。
(ここではエーテル体は外部の刺激を衝撃として捉え、アストラル体へ伝導する役割を果たしているので、一般的にいう「痛い、痒い、くすぐったい」などの感じる感覚とは別に解釈している。また、コーザル体は崇高な思考に繋がるものであり、日常生活の中ではあまり活用されないため省く。)
このように、人が「感じ、思い、考え、行動すること」は、アストラル体、メンタル体、そして肉体の「三つの諸体のエネルギーを使って生きている」ことが分かる。
言うまでもなく、人の肉体は水と食物を摂取して栄養を吸収し、活動するためのエネルギーを得ている。
また、人は大気中の酸素がなければ生きていくことができず、水、食物、酸素の要素は人間にとって絶対に必要不可欠な要素である。
人がこの三つの要素によって活かされていることは科学的に理解できるが、人が生きていく上で絶対不可欠な要素の「プラーナ」の存在まではまだ気づいてはいない。
プラーナとはインドのサンスクリット語でいう「気」のことであり、西洋では「エーテル」といわれるものである。
このエーテルは全ての生命に活力を与えるものであり、いわば生命力そのものであると言えるだろう。
活力の元であるプラーナは宇宙空間で製造され、太陽を経由してこの地球に届く。
私達人間は、水、食物、酸素だけではなくこのプラーナも吸収し、肉体だけではなく他の見えない諸体であるアストラル体、メンタル体も同じようにプラーナから活力を得ている。
要するに、人は宇宙エネルギーであるプラーナを自身のパーソナリティーに吸収し、それを活動力に変換し行動することによって、それが日々の行為となり、原因と結果に結びついていく。
このようにカルマとは、ただ単に肉体(行動)による行為だけではなく、感情や思考の働きからも生じるのである。
要するに、カルマは「肉体のカルマ、感情のカルマ、思考のカルマ」といったように各諸体の機能ごとに蓄積される。
ジナラジャダーサの著書「入門神智学」では、カルマの解析の試みとして各諸体の行為から生じる善悪について点数を振り分けて考察している。
それを筆者が要約したものが以下の表4である。
この表を見て分かることは、一口にカルマと言っても「肉体、アストラル体、メンタル体と各諸体によって蓄積される善悪のカルマの点数、即ちカルマのエネルギー量が異なる」ということである。
なお、高級マナスであるコーザル体は常に善であり、悪の作用をもたらさない。
では、表4で示されている各諸体の善悪のカルマの点数の表示だけではあまりにも抽象的なので、簡単な例を表5に挙げてみよう。
このように卑近な例を挙げてみていくと、私達人間は日々各諸体を通して、何かしらの善悪のカルマを積んでいることが理解できる。
要は、人が進化するべく霊的な道を志すときに必要になるのが、自己を省みる「内省」であり、この作業がなければ自身の善悪のカルマを見分けることができないのである。
カルマを理解し、カルマに臨む
一般的にカルマといえば「自身がしたことは自身に返ってくる」という因果応報の法則をいうが、秘教の世界を紐解けば、個人が積むカルマはパーソナリティーの各諸体に細分化されていることが分かる。
それによって個人が積むカルマの総量が決まるのである。
秘教では「個人が積むカルマの総量」をサンスクリット語で「サンチタ」というが、このサンチタの後に更に「プラーラブダ」と「アーガーミ」というものが続いていく。
このプラーラブダは「出で立つカルマ」を意味し、アーガーミは「未来のカルマ」という意味である。
これを簡単に説明すると、過去世で個人が積んだカルマを「サンチタ、プラーラブダ、アーガーミ」という一連の過程を経て、来世のカルマとして生成し転生の準備をする。
このカルマの生成は、人が生まれ変わったときに過去世で積んだ自身のカルマを消化しやすくするための霊的な仕組みになる。
先のジナラジャダーサの著書「入門神智学」では、来世生まれ変わった場合、このサンチタの総量を仮に100%と想定し、60%は悪のカルマで40%は善のカルマという比率の例を挙げている。
この比率を見て分かるように、明らかに悪のカルマの方が善のカルマよりも上回っている。
その理由について、入門神智学の44頁の中で説かれていることを要約すると以下のようになる。
そのため人の一生は快よりも不快な出来事の方が多く、それがカルマの調節になり、また霊的な学びにもなるのである。
また前回の記事、第50回:超秘教入門12|Sabbath Bloody Sabbath カルマは影の如く・・・の中でも説いたように、人は気づかぬうちに他に迷惑を掛けていることもあり、「塵も積もれば・・・」で多大な負のカルマを積んでしまっている可能性があるのだ。
なので、過去世のカルマの総量であるサンチタだけでは悪のカルマの方が善のカルマを上回っているため、この状態で転生すると来世で霊的に進化しづらくなってしまうからである。
そのような理由からサンチタの調整をしなければならず、プラーラブダで善のカルマを増し、アーガーミでより霊的に進化しやすいようにカルマの調整がなされるのである。
これで何故カルマがこのような生成を必要とするのかが分かるであろう。
では、この人間のカルマを、いったい誰が霊的に調整しているのであろうか?
それは「カルマの神々」であり、彼らによって人は霊的な査定を受け、それに見合った来世のカルマからその人に必要な経験を得るため、生まれる国や人種、遺伝子、両親、家族、友人、援助者や妨害者などの環境や人間関係などが決められるのである。
これは過去世のカルマから導かれる宿命であるが、先天的に定められた「宿命」とは別に、自身の自由意志と努力により変えられる部分の後天的な「運命」も存在する。
よって、霊的な視点に立って自己を省みるなら、全ては自らが過去世で積んだカルマに原因があり、今生の境遇の「快、不快」はその結果になる。
ならば諸友よ、如何なる境遇にあってもそれは神が与えた試練と見なし、ただひたすらなお一層の精進を心懸けようではないか。
延いてはその姿勢が霊的に目覚めた人の証ともなるのである。