第34回:月の霊学1 THE DARK SIDE OF THE MOON (月の裏側)|精神世界の本音と建て前
スピリチュアル、それは素敵な「黄金色」の世界
霊的な世界。
何も好き好んで来るような世界ではない。
一見、スピリチュアルという横文字を聞くと綺麗に聞こえる世界ではあるが、その実は「金、欲、エゴ」等の負のものが渦巻く、ただの「魔界」である。
けれど、スピリチュアルを公言しているスピリチュアルリーダーの人達は、その事にまるで気付かず、異口同音に「愛と光」を口にする。
そして、その「愛と光」をそれらしく語るのであるが、それを生業にしている為に、それとは別に「金子(きんす)」の要求もきっちりと口にするのだ。
それが精神世界における、有料のセミナーというものである。
今の時代、霊的に奉仕しようと思えば、霊的な情報に関心のある人々へ向けてインターネット上で無償のセミナーを開き、情報を共有することもできるはずだ。
現に、私も一円の足しにもならないが、このnoteでこれからの時代に必要になる「光の勢力の出現」等の情報を人々に提供している。
また、「実践的霊学」や「魔切りの方法」等の情報も提供しているのは、ワクチン接種やシェディング被害で苦しんでいる人達の症状が少しでも軽減できればという思いから、稚拙な文章の記事ではあるが、自身の経験から紹介できる情報を公開してきたのである。
無料奉仕に生涯を捧げた偉大なスピリチュアリスト達
私達、精神世界の先輩の中にも、長年に亘り無償奉仕を捧げてきた有名なスピリチュアリスト達がいる。
かつて眠れる預言者と言われた米国人ヒーラー、エドガー・ケイシーや、世界教師マイトレーヤの出現を説いてきた英国人画家、ベンジャミン・クレームといった人達がそれに当たる。
何故、精神世界で活動している人達は、愛や光を語るのにこの世界に関心がある人々から「金子(きんす)」まで要求し、有料セミナーまで開く必要があるのだろうか・・・。
今挙げたエドガー・ケイシーやベンジャミン・クレームは、1円たりとも人々に金銭を要求したことはなかった。
なのに、精神世界の後輩である彼らは、先輩達の偉大なる霊的な在り方を、何故、模倣しようとしないのか。
要するに、彼らは「哀しいがお金に負けた人達」なのである。
彼らの説く「愛」は「哀」である・・・。
先程述べた、「金、欲、エゴ」。
これらのものが、彼らの心の中に渦巻いているのだ。
「お金」をいただくのは、生活の為。
それは仏教的に言えば、「欲」を表わす。
有料セミナーを開いてまで、人々に講習するのは「エゴイズム」。
自身の自己顕示欲を満たす為、自身にスポットライトが当たるステージを必要とする。
これがスピリチュアルと言われている、精神世界の哀れな実体である。
このような有様なので、商売を目的に精神世界で活動しているスピリチュアリストに、「霊格の高い存在」である神や天使、高次元のマスター等が付くはずもなく、もし、霊的な存在が付いているとすれば、「霊格の低い存在」の狐狸や魑魅、天狗の類いであることは、ほぼ間違いないだろう。
(要するに、霊格の低い存在が「霊格の高い存在に成りすましている」ということ。)
それは「精神世界で愛や光を心から求めるには、先立つものが必要です。」というスタンスで活動しているからである。
(えっ!お金のない人って、もしかして切り捨てっ?)
もし、このような彼らをあえて擁護するならば、「物質的な欲の世界を脱するには、まず、物質的なお金という執着を捨てなければならない。でなければ、より周波数の高い愛と光に溢れた霊的な世界には行けません。」という、彼らの心の優しさから来る「衆生済度の理論」なのかもしれない。
けれど、私のような衆生で喘ぐ凡夫からすれば、「それって、ただ欲深くて、お金に汚いだけじゃないかしら?」と思ってしまうのは、気のせいだろうか。
とにかく、精神世界で彼らが語る愛と光の恩恵に浴する為には、「一にも、二にも、お金が必要」ということになる。
言い変えれば、「愛も光も、お金があれば買えるものだ。」ということだ。
まあ、古人がいうところの「地獄の沙汰も金次第」ということを平気で地でゆく世界が、「耳に心地の良いスピリチュアルの世界」ということになる。
ということは、お金という物は「神」と言っても過言ではない存在になるのではないだろうか。
否、お金とは「神」である。
では、「お金=スピリチュアル」ということになり、あなたは自身のハイヤーセルフと繋がろうと思えば、財布を覗けばそこにあなたのハイヤーセルフは存在する訳だ。
(ハイヤーセルフとは、簡単に言えば「あなたの魂」のことである。)
なら、大枚をドブに捨ててまで、スピリチュアルリーダーが主催する有料のセミナーに参加する必要があるのだろうか。
ロックから学ぶ狂気、スピリチュアルから学ぶ狂気
イギリスのプログレッシブ・ロックバンドで知られるPINK FLOYDには、有名な「狂気」というアルバムがある。
(原題:THE DARK SIDE OF THE MOON)
このアルバムの「狂気」は、ロックの世界ではマイケル・ジャクソンの「スリラー」(1億1,000万枚)、AC/DCの「バック・イン・ブラック」(4,900万枚)に次いで、3番目に売れたアルバム(4,500万枚)である。
そのメガ・ヒット作の「狂気」の中に、アメリカや日本でシングルカットされた「Money」という曲があるが、かなりお金儲けに関して皮肉った内容の歌詞が記されている。
ロックバンドで売れるという事は「ビジネス」であり、純粋に音楽をクリエイティブできるということではないらしい。
精神世界の彼らもその所為か、純粋に「愛だ、光だ」を語るだけでは食べていけないので、「しっかりいただける物(金子)はいただく」というスタンスである。
だから、商売でスピリチュアルを語るリーダー達は、間違っても生々しい話は語らない。
それでは食べていくことができないからだ。
その為、終始一貫「綺麗事」を口にして、愛と光に包まれた形で話を終えるのである。
これって、私からすると、PINK FLOYDのアルバム「THE DARK SIDE OF THE MOON (月の裏側)」のタイトルそのものではないか・・・。
「月」とは、西洋占星術やタロットカードでは、「人の心、情緒」を表わしている。
その為、PINK FLOYDのこのアルバムの「月の裏側」とは、「人の心の裏側」と見なすこともできる。
ここでは、月の意味を今のスピリチュアルリーダー達に当て嵌めて、彼らの心の中の表と裏、即ち「商売における本音と建て前」という捉え方を私はしたい。
話は戻るが、このアルバムは現代社会の中で暮らす人の「心の中の闇」について物語る内容であるが、最終的には「光」を見出して終わる形の作品となっている。
しかし、精神世界の彼らはその逆で、「愛と光」から始まって最後は「お会計で終わる」という、生々しい即物的な物質性の闇で幕を下ろすのだから、アルバムの「狂気」とは、結びがまるで真逆である。
PINK FLOYDの狂気は、
「人の心の闇」から「光」へ。
精神世界のスピリチュアルリーダーは、
「本来の神性の光」から「闇」へ・・・。
それなら、スピリチュアルの怪しげな本等は買わずに、PINK FLOYDの「狂気」のCDを1枚買って何度も聞いた方が、まだ心の中の光に意識が向くのではないだろうか。
意識の拡大、サナギから蝶へ
故に、金、欲、エゴ・・・。
これらのものが「三位一体」となっているのが、今の時代のスピリチュアルリーダーと言われている人達である。
要するに、そのような有料セミナーでは、表面的には「愛だ、光だ」等と人の中の意識の拡大を説くが、本当の霊的な意味での「意識の拡大の危険性」を全く説く事はしない。
その意識の拡大を、金蔓に説けば・・・もとい、セミナー受講者に説けば、そんな危険な世界にお金を払ってまで来るはずが無くなってしまうからである。
ここで私は、大きな過ちに気付いた。
それは今のスピリチュアルリーダーが、「意識の拡大の危険性をまだ一度も体験していない霊的に稚拙な人達である」ということに。
それでは意識の拡大の危険性をセミナー受講者に説こうにも、説けるものではない。
何故なら、まだ意識の拡大における「霊的危機」を体験していないのだから。
もし、彼らが霊的危機の体験者であれば、霊的な世界に関心を示す人達からお金をいただいてまで、危険な精神世界での生き方を奨めるはずがないからである。
人が意識を拡大するという事は、いわばその人が「今までの古い自分を捨てて、新しい自分自身に生まれ変わる」という事を意味しているのだ。
それを例えるなら、その人はサナギから脱皮をして蝶になり、新しい世界に羽ばたくことを意味する。
何でもそうだが、新しい事をするということは、誰にとっても「未知の領域に足を踏み入れる」ということになる。
それまでにその人は、「新しい世界に適応できるだけの準備」が整っているのかということだ。
精神世界の人間でなければ、何を言っているのか分からないだろうから、簡単に説明すればこうなる。
その手のスピリチュアルのセミナーに行って、「愛だ、光だ」という話を聞いて喜んでいられるうちはまだ華だが、問題は、その先に必ず「試練」が待っている、ということである。
しかし、精神世界に関心を向けた人達には、初期の時点では「愛と光」という話は感動的な話なので、自分も「今後はそのような愛と光に溢れた霊的な人格者として生きよう」と思う。
それで、その人は周囲の人々にも、自身が感動した愛と光の世界の話を吹聴して回るようになる。
ここまでは良い。
霊的な世界に来て感動し、人々にもその感動的な世界に誘おうというのは、ごく当たり前のことである。
それを説く本人は、まだこの時点では気付いてはいないが、実は端で聞くと歯の浮くような「綺麗事」を並べ立てて話している。
別に私は、その人が説く綺麗事を批判しようというのではない。
何故ならその人が説いている愛や光の教えは、人々や自然環境にとってはとても優しいものだからである。
これが最後まで通るなら、本当にその人は素晴らしい教えを人々に説いて回っていることになる。
そして、いずれ自分自身が口にしてきたカルマが、自分自身に還ってくる刻が来る。
即ち、その人の行いを「神(宇宙)は、その人の魂を通して見ている」のである。
これが霊的世界でいう「イニシエーション」、古神道でいう「お試し」、またはトランスパーソナル心理学でいう「スピリチュアル・エマージェンシー(霊的危機)」というものを、必然的に迎える事になるのだ。
それでも「イエス」と言えるのか
その人は、自身が口にしてきた愛と光の教えが、現実世界でどこまで本当に身に付いたのか、神(宇宙)はその人の霊的な段階を試すのである。
例えば、愛を語ってきたその人が、通勤中に通り魔から刃物でザクザク刺されまくったとする。
それで一命を取り留めたとしても、自分を刺したその通り魔を絶対に恨んではいけない。
寧ろその人は、通り魔を恨むのではなく、その通り魔の彼が、何故このような凶行に及んだのかについて、理解を示す心の広さを持たなくてはならない。
また、自分自身が犠牲になった事で、他の人が刺されなかった事を心から喜ばなければならないのだ。
でなければ、その人が周囲に説いてきた愛の教えは「嘘」になってしまうのだから。
要するに、刺されてもなお、その痛みと苦しみの中に自身が求めた愛を見出さなければならないのである。
それが、霊的な世界における「真の光」ということになるのだ。
しかし、そのような奇特な人が、世の中に本当にいるのだろうか。
実は、奇特とも言えるそのような人が2000年前のパレスチナの地に実在したのである。
彼(か)の人のことを、私達人類は「ナザレの人、イエス」と呼んでいる。
即ち、世界的に有名な「イエス・キリスト」のことである。
彼は当時の思想犯と見なされ、理不尽な罪を着せられた上、十字架上で血みどろになりながらもこのような言葉を発した。
「父よ、彼らを許し給え・・・。彼らは、自分達が何をしているのか分からないでいるのです・・・。」
決して彼は、自分をこのような酷い目に遭わせた人達を恨む事もなく、彼らに対する哀れみを抱きながら、十字架上で死を迎えたのである。
もし、私がこのような酷い目に人々から遭わされたら、先ず間違いなく次の言葉を叫ぶだろう。
「ジーザスッ!」
キリスト教圏でいう「ちくしょうっ!」という意味である。
話を戻すが、このように霊的な世界では、「自分が口にしてきたことがどこまで身に付けることができたのか」を試される時が来るのである。
それが先程述べた「イニシエーション」という言葉であり、古神道でいうところの「お試し」ということになる。
そしてトランスパーソナル心理学でいう「スピリチュアル・エマージェンシー(霊的危機)」ということになるのだ。
君は、刻の涙を見る・・・
この三つの言葉は、基本的に同じ事を意味しているのだが、現実的に言えば「スピリチュアル・エマージェンシー」というトランスパーソナル心理学で言われている状態が一番怖い。
厳密に言えば、「イニシエーション」や「お試し」というものは、霊的に進化した者に起こる神の試練であり、それは「霊的な意味における自然現象」と捉えても良い。
しかし、「スピリチュアル・エマージェンシー」というものは、まだ霊的に進化できていないにも関わらず、精神世界の有料セミナー等に何度も通っている内にその気になり、「まだ霊的な器もできていないのに精神世界で生きていこうとして反動が出てしまった場合」の事をいうのである。
例えば、アニメの世界で言うと、機動戦士Zガンダムに出てくるシャア・アズナブルやカミーユ・ビダンは、他の人類よりも進んだニュータイプである。
しかし、この作品の中に出てくる強化人間は、人工的に作られたニュータイプなので、どうしても精神錯乱などの障害が出てきてしまうのだ。
要するに、「ニュータイプ」のシャアやカミーユは「自然界が作り出した存在」であるが、「強化人間」という存在は「人工的に作られた不自然な存在」ということになる。
霊的に言うと、前者のニュータイプは「イニシエーション」や「お試し」という言葉が当て嵌まるが、後者の強化人間は「スピリチュアル・エマージェンシー(霊的危機)」ということになるのだ。
これは自身が口にしてきた事が霊的進化の過程として自身に還ってきたという例であるが、また別の意味でのスピリチュアル・エマージェンシーというものもある。
スピリチュアル・リーダーに影響された人達が、自身のサイキック能力を開こうとして霊的な行法やワークを行い、その結果、サイキック能力が目覚めたものの手が付けられなくなり、生活に支障が出てしまうという厄介な例である。
(私の知っているある人物は、注意したにも関わらずヘミシンクをし続け、「幽」から「顕」の世界に意識が戻りにくくなってしまった、という例もある。)
いずれの場合でも、霊的な世界を目指して自身に起こった出来事は、「全て自己責任」として自らが責任を負わなくてはならない。
言ってしまえば、「何が起こっても誰も助けてはくれないし、神仏も自由意志で選択した事なのだから手を貸す事はできない」ということになる。
これがスピリチュアルといわれる、霊的な世界の実体である。
スピリチュアルから、ビジネスへ
そもそも、霊的な世界に意識を向けようというのが本来のスピリチュアルであって、そのスピリチュアルをしながらお金に意識を向ける事自体が矛盾しているのである。
お金は誰がどう見ても、硬化でもお札でも物質以外の何物でもない。
その物質の先にある領域に意識を向け拡大をしていくということは、人間の意識が物質的な資質から、より精妙である霊的な資質の世界に意識変換をしていくので、必然的に「周波数領域が変わる」ことになる。
もっと分かり易く言えば、「精神世界で金儲けをする事は、理論的には出来ない」ことになるのだ。
理由は、至極簡単である。
お金は、濃密な物質資質でできた周波数の存在になる。
それを得ようと思えば、物質的なものを強く求めなければ、引き寄せの法則として手に入れることはできない。
なのに、霊的という精妙な世界に意識を向ければ、濃密な物質資質の周波数とは違う領域の周波数になるのだから、お金とは縁遠くなるのは必然である。
にも関わらず、精神世界を生業として活動していくという事自体に無理があるのだ。
しかし、スピリチュアルリーダーといわれる人達は、それでもこの世界で食べていけるのだから、彼らの心の中にあるのは「霊性」ではなく、「物質性という強い欲心」があるということになるだろう。
でなければ、彼らはこの世界で「周波数の法則」により、食べていくことができなくなるはずだからだ。
これが人の心の中における「THE DARK SIDE OF THE MOON」、つまり、月(心)の裏側ということになる。
そして、彼らスピリチュアルリーダーの主催する有料セミナーに足繁く通う人達は、彼らに憧れ、今度は自分達も次のスピリチュアルリーダーになり、成功することを望む。
そこには、やはり必然的に「金儲け」という言葉がついて回ることになる。
要するに、精神世界における有料セミナーとは、スピリチュアルをダシにして食べていくことを望む人達の「職業訓練学校」ということになるのだ。
それは最早、スピリチュアルではなく、ビジネスの世界である。
PINK FLOYDのアルバム「狂気」の最後の曲であるEclipse(狂気日食)の末尾はこのように結ばれている。
この詩に霊的な意味を加えて翻訳し、今回は筆を置くことにしよう。
「あの太陽(本来の神性)の下、全ては調和を保っている。
けれど、その太陽は徐々に月(人の心)に浸食されていくのだ・・・」
推薦動画:PINK FLOYD THE DARK SIDE OF THE MOON
1973年にリリースされたアルバムなのに、音の古さを全く感じさせないロックの名盤、PINK FLOYDの「狂気」をフルに聴いてみよう。
名曲「Brain damage(狂人は心に)」からノンストップで入っていく「Eclipse(狂気日食)」は、是非何度も聴いてみて。
作詞がとても深いから。