暗闇を抜け出した方法と忍耐の日々
体の不調だけを抱えて卒業し、自死を意識し始めてから数週間あとだったと思う。
私はたまたま近くの本屋に行き、そこでストレッチの本がふと目に留まった。見出しに『体が変わる』と書いてある。それまで運動の習慣もなくスポーツをすることもなかった私は、目から鱗の思いで気がつくと本を買っていた。
画像付きで説明された本の中のストレッチは、誰でもできる簡単な動きだった。私は見よう見真似でなんとなく身体を伸ばし、深呼吸をしてみた。
と、その時、世界が変わったような感覚を覚えた。
目の前の視界がひらけていくような爽快感。私は初めて、自分がずっとちゃんと息を吸えてなかったことを知った。体がガチガチに固まって呼吸ができていなかったのだ。
苦しみからの解放の第一歩はきっとこれだと思い、私はストレッチと深呼吸を毎日やるようになった。やるたびに手応えを感じた。だいぶ体がほぐれたところで、すでに最悪のところからは逃れられた確信があった。こんなことで良かったのか、と驚いたが、心の中の暗闇の穴は確かに塞がり始めていた。
希望が出てきた私は、健康関連の本を読み漁るようになった。民間療法や自然療法の本だ。西洋医学では私の不調に答えを出してはくれなかったから、ストレッチの本を見つけたように、自分で見つけていくしかないと思った。
私は徐々に食事を見直し始め、西式甲田療法に出会ってからは玄米や野菜中心の食事を摂るようになった。いわゆるベジタリアン食よりもう少しクセがあって、生野菜や生米まで食べる仙人のような食事だ。
その食事が本当に良かったかというと、正直微妙なところだ。断食もそうだが、合う合わないがあるし、長期的にやるようなものじゃない。でも当時はとにかくなんでもやってみたかった。もうすっかり“健康”とは何だったか分からなくなってしまった体に、なんとかして健やかに生きることを思い出させてあげたいという一心だった。
そのためには以前の生活習慣や食生活を否定するしかなく、当時私はかなり偏狭であったと思う。食事法を厳格にやるというのは、交流を捨てることに等しい。家族とは別のものを食べていたし外食には一切行かなかった。友だちとの交流も断っていたから、ほんとに一人の闘いだった。
だんだんと体の中のしがらみがほどけはじめてくると、私は目の疾患のことも気になりはじめた。ちょうど当時私が取り組んでいた西式健康法を取り入れている東洋医学の眼科が栃木にあることを知り、通うのには随分遠い距離だったけれど行ってみることにした。大学卒業の年の11月だった。
初診は両親が車で連れて行ってくれたのだが、私はその日特に不調で顔色が悪かった。
医院ではまず内臓の稼働を見る東洋医学の検査を行った。経絡(ツボ)に微弱の電気を通して現在どれだけ動きがあるか測るのである。
そのときの私の結果が残っていた。
赤い線の範囲に入っていれば正常な働きということだ。しかし私のグラフを見るとどの内臓系も非常に低い数値で、つまりほとんど動いていないことがわかる。先生も少しびっくりした様子で「末期がん患者ほどの生命力しかない」と言った。私はその言葉を聞いて衝撃があったが、すぐに深い安堵に変わった。やっぱりそうなのか、と。
診断がなかったから、これまで親にすら満足に説明できなかった。ともすれば仮病や詐病なのではないかと疑われかねなかったし、自分でも自分が本当はどんな状態なのかよくわからなかった。
でもやっぱり衰弱していたのだ。やっと診断がついた。
西洋医学で何も見つからなかったのは『壊れたわけではなかった』からだ。私の内臓は損傷せずに、ただ静かにその動きを弱めていた。その微妙な状態異常は東洋医学じゃないと測れなかった。
そのことについて私はさんざん調べたし考え続けた。体を部品として見て、各々の損傷具合を見るのは得意だけど、全体を俯瞰する手段に乏しく慢性疾患に弱い西洋医学。もともと戦争のための医学だったというからその性質には納得できるが、現代にはびこる様々な慢性疾患や精神疾患に対応するにはあまりにも不十分な気がする。そしてその不十分さを多くの普通の国民は認識していない。西洋医学だけがもてはやされ、頼られ、まるでそれしか手段がないように教育されるからだ。そうなると私のようにその枠からあぶれたら絶望するしかないし、別の手段で健康を得ようとすると変な目で見られたり宗教にでも入ったのかと思われる。
私は次第に常識を恨むような気持ちになっていた。今までの教育とは、普通とは何だったのか。真面目にやっていても体を悪くするだけだったではないか。
そうやって不貞腐れて、どんどん変人の道を極めていくようになるのだが、ここでは話が逸れるのでまた別の機会に。
栃木の眼科では結局、眼疾患の件は解決しなかった。私がそれどころでない悲惨な体調だったというのもあるが、やはり目の疾患は難治で、すぐにどうにかなる話ではないのだ。それでももしかしたら健康になった先に治る道があるかもしれなくて、私は希望でいっぱいになった。
とはいえ、体調をもとに戻し働けるまでになるためには、それなり長く苦しい道が待っていた。内臓があまり動いてくれない状態なので、たとえばたくさん食べるとかよく運動するとか、精力をつけるためにする普通のアプローチではかえって疲れるだけで効果がない。なにかを頑張るためのおおもとになる、気力そのものがないのだから難しくて、もどかしくて仕方がなかった。
できることと言えば体に良いものを食べて適度に散歩して、西式健康法の運動をやって、あとはなるべく気持ちが暗くならないように、楽しいことを思い浮かべながらゆっくり気長に戻していくしか方法が思いつかなかった。
栃木の医院にはときどき通って内臓の状態を見てもらうようになり、その縁で医師が主催している食養生の通信講座を受けることになった。内容は玄米菜食や伝統食の有効性を学ぶもので、今ではほとんど何も実践していないのが笑える話ではあるが、当時は何かに取り組んでいることそのものが救いになっていたし、自然のままの食材を体に取り入れることは体質改善の一助にはなったと思う。
私はパートの仕事に就業できるようになるまでおよそ5年も孤独な闘いを続けることになった。その間、私は西洋医学を不当なほど悪者にし続けたし、回復したのは民間療法や自然食のおかげだと思っていた。もちろん、そのおかげは大きいだろう。しかし今は根本の認識がズレていたのではないかという気がする。
私が回復したのは恐らく本当は、学生時代の記憶を忘れかけてきたからだと思う。もっと言えば、人と関わらなくなったからだ。
もはや周囲とは生きるステージが大きく変わってしまったことで私は療養期間中、無闇に人と比べることがなかった(自分を責め続けてはいたが)。他人に煩わされることもなく、家族との関わりの中だけで生きられた。それにより学生時代の人間関係の嫌な思い出が薄れたのだ。
ここでポイントなのは、決してクリーニングして浄化したわけじゃないということだ。あくまで記憶を彼方に押し込めただけ。いや、体に良い自然の食べ物はある程度私の中の何かを浄化してくれたかもしれない。深い呼吸も浄化に役立っただろう。そうやって私は昔の傷ついた思い出を代替行為によって少しずつ薄れさせたのだ。
中学の記憶が決定的な原因とどこかで気づいていながら、それ自体を浄化しようとはしなかった。いや、思いつかなかった。あの思い出に決着をつける必要があることすら認識できなかった。
そうやって私は長い長い回り道をすることになったのだが、全てがまったく無駄だったとは思っていない。私は西洋医学以外の道を自分で探求することで新たな世界を知った。学校で教わること以外のことに真理が隠されている可能性を知ったし、多様性を知った。
そうだ、私は多様性の中の一つの個体である。私はいまだによく他人と比べて落ち込むが、私が私の体験を通して今ここに生きていることはなにかしら奇跡のようであると思う。
全く同じ経験をしてきている人はいない。同じ苦しみや苦しみの果ての解放を体験した人もいない。ここに書き記すことはそれだけで意味がある。私のクリーニングで誰かのみんなの中の苦しみの記憶が消えるとしたらなおさら。
今思うと、内臓の動きが緩慢になったというのはウニヒピリの疲弊と抵抗だったのではないだろうか。そうなってもなお自分の内側を考慮することなくこの年になるまで放置し続けたこと、申し訳なく思う。
私の中の小さな女の子は、今日は少し怠そうに体を横たえている。昨日クリーニングをサボろうとしたからだろうか、それともつらい記憶を引っ張り出したからか。
本調子になったときに目一杯抱きしめて、クリーニングを依頼しよう。
体調不良と闘った数年の、一つ一つの瞬間は無駄ではなかった。すべての取り組みには意味があった。
しかし認識には誤りがあった。すべての原因と解決策は心にあったのだ。“自分”を顧みて大切にすべきだった。
【ごめんなさい】
【ありがとう】
【愛しています】
【許してください】
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