不定愁訴と希死念慮

体調不良を語るときに思い出さなければならないのはやはり、中学2年の終盤だ。あそこがすべてのはじまりだった。

同級生からのいじめを体験した当時の私は深く傷つきながら、同時にヤケを起こしていたようだ。思い返せばどこか破滅的。無視され始めた時点で修復なんてできないと分かっていたから、だったらこの不幸をとことん味わい尽くしてやろう、初めての体験を心に刻んでやろうと心のどこかで思っていた。でないとあそこまで我慢し、自虐し、誰にも相談せず自らを追い込んだ理由がわからない。私自身がこの絶望を望んでいたのだ。無意識に経験したがっていた。
だから私は自分を追い込んで、自分がどこまで耐えれるか、すなわちどこまでいけば壊れるかということを検証しようとした。
追い込んて追い込んで、あるときストレスの臨界点を迎える。そのとき、ガチャリと何かが切り替わったことを今でも思い出せる。『内臓の位置がズレた』『身体の仕組みが変わった』とはっきりと感じ、私はその時やっと、取り返しのつかないことをしてしまったと悟った。少なくともこの検証は無謀だった。自分を責めるという『ウニヒピリ(インナーチャイルド)の虐待』をすべきではなかった。
果てしない後悔がはじまることになる。

体調不良に関してはこの体験がきっかけであり、全てであった。心が傷つき、連動して身体のバランスが崩れた、ただそれだけだ。しかし完全に調和していたものが捻れるように壊れてしまったのだから、非常に複雑な事態となってしまった。その頃はまだ心と身体がいかに連関し合っているものかも分かっていなかったし、西洋医学以外の手段も知らない。一つ一つ出てくる経験のない症状に首を傾げながら向き合っていくしかなかった。
まずパニックが出たので、私は医者の勧めのもと抗うつ薬を飲むことになった。これは前回の記事でも詳しく書いたが、この選択を私はいまはじめて評価するような気持ちになっている。当時高校生の私は、薬の副作用があるから100%本調子とはいかなかったものの、放課後にアルバイトができるくらいまでは元気だった。心の傷に蓋をすることによって身体的にもそこそこ元気でいられたようなのだ。パニックも抑えられたから大学受験にも挑戦できたし、無事に卒業して行きたい大学にも行けた。
抗うつ薬の危険性はのちにガチガチの自然派になってから嫌と言うほど知ったし、実際根本的な解決にはなり得ないのだと思う。それでも服用してある程度前向きに身体を騙していけるとしたら、その選択は大いにありだとも思う。絶対やめる必要があるとも思えない。
とはいえ一度飲み始めたら離脱症状で簡単にはやめられないアンフェアさはあるし『副作用と共に明るく生きる』か『心の傷を思い出してでも自然な体で生きる』ことの選択を結局は常に迫られることになる。私は後者を選んで結果的に体調不良と闘うことになった。うつの薬を一生飲む気には到底なれなかったからいつかは直面しなければならないことだったが、それは簡単なことではなかった。

うつの薬で抑え込んでいたものがなくなると、ありのままの心はさっそく傷を思い出し始めた。まずは体の具合がどうにもおかしいことに改めて気が付き、体力仕事がだんだんきつくなってバイトが続けられなくなった。(レストランのホールの仕事を始めたばかりだった)
大学デビューと称してあれだけ浮かれて通い詰めていたサークルからも次第に足が遠のき、3年に上がると全く行かなくなった。3年時の春のゼミ選択の時には、他人の関係性への恐怖についてフラッシュバックした(前回の記事参照)。そののち以前に増して加速度的に体調が悪化することとなる。
今振り返ればただ記憶がループしているだけなのだが、その頃はそんな俯瞰的な視点は持てなかったし謎の体調不良への対処法も何も知らなかった。

体調が悪いと一口に言ってもいろいろある。たとえば病名がつくような症状だったら説明がしやすいのだが、残念ながら私の不調はそうではなく、非常に言語化が難しかった。
常に熱っぽくて、怠くて、たまに目眩がする。お腹のあたりがギシギシしたりモヤモヤしたりする。このお腹の違和感について当時の私は『すべてのカオスの原因』と判断していた。絶対この箇所がうまくいっていないという感覚。恐らく、中学生の時に私がジェンガの1ピースを抜いてガチャリと仕組みが変わる原因になったのはそこなのだと思う。そのピースを引っこ抜いたから、他の内臓も本来の場所からズレてしまったのだ。
当時の私がどれだけ体力がなかったかというと、数十分歩いただけで疲れて横になりたくなってしまう始末だった。横になったところで、溜まった疲れを取るためにまた大量のエネルギーを消費するから気分は優れない。しかもそれは一過性のものではなく、365日常に続くのだ。たとえ風邪のような軽度の症状でも毎日果てもなく続いたら地獄だろう。しかもその症状には対処法がないのだ

私は血液検査や、その他いくつか検査を受けたけど、何も異常は見つからなかった。西洋医学では私は健康なのだ。しかしそんなはずはない。私は毎日すぐに疲れてしまうし、目眩もする。身体中にほつれた糸の束があるようなスッキリしない心地悪さがある。
大学を卒業して無職で4月を迎えた私にはなんの希望もなかった。誰にも理解できない診断すらされない不調だけがぽつんとあって、なにも活動できる気がしない。
同級生のほとんどは今ごろ新社会人として新たなスタートを切っているというのに、私はなにをやっているのだろうと呆然とした。この時私は、完全に道を外れたのだと思った。今までは傷を負い彷徨いながらも学校に通い、みんなと同じように卒業し次のステップに踏み出せていたのに、今度ばかりは完全なる挫折であり、敗北だ。置いていかれたのだ。
このときの私は、優秀であることが自分の価値であると思っていた子どもの頃のままだった。とても視野が狭く、一つの模範とされる生き方しか知らなかった。視野を広げればどんな生き方だってあるしどんな境遇の人だっている。こんなの挫折のうちにも入らない、まだ諦めるには早いということが分からなかった
私の心の中の大きなブラックホールはまだ消えてはいなかったのだ。うつの薬をやめてから、以前ほどじゃないにしろ穴はまた存在を現していた。そこから吹き出てくる劣等感は体調不良を加速させ、またもや負のループに延々入り込んでいった。
そしてある日、私は実家の自分の部屋の中でぽつりと『死のうか』と思った。
それは友だちにネタで言う『死にたい』とはわけが違う、何段階も深い死への渇望だった。もし目の前に手段が用意されれば迷わず手に取っていただろう。そのくらい私は追い詰められて、疲れていた。
実行に移すことを考えると心がゾワっと恐怖を訴えたから、まだ生への未練もあったのだろう。私はつらいと思いながらも、とりあえずは自殺願望を心にしまい込んだ。それは本当にこの世に何も希望がなくなった時の、最後の手段にしようと思った。

(つづく)


私は過去を順にクリーニングをしていくうちに、既に抗うつ薬を悪者にしていた過去を消し去ることができている。それどころか抗うつ薬が効いていたことによって身体も動けていたという恩恵を思い出し、心のケアがいかに大事だったか振り返ることができている。過去の見方がすっかり変わってしまったようで戸惑いはあるが、やっと筋の通った物語になった安堵の気持ちもある。

ここでは自分の体を実験のようにして壊れるまで放置したことと、
立ち直りきれなくて大学卒業の年には自殺まで考えて自分を蔑ろにし続けたこと、
悔悟します。
【愛しています】

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