敵わないという気持ち(主に容姿について)
私が自己肯定感を失った最も大きな出来事はいじめだったが、やられっぱなしで文句の一つも言えなかった理由、甘んじて虐げられる自分を容認してしまった理由は、自分を卑下する素地が既に私の中にあったからだと思う。
振り返れば私の自己肯定感とは昔から薄っぺらいもので、“能力のある人間”だから“価値がある”のだと思っていた。楽器を上手く吹ける、勉強がそこそこできる、転校の経験を活かして友だちとうまくコミュニケーションを取れるという自信。人よりも優れていることを数え上げて、それがそのまま自分の価値や存在の意味になっていた。
だからこそ、友人関係につまずいた時に……楽器がうまく吹けなくなった時に……自分なんて価値がないと責めてしまったのだ。
別になにができなくたって、健やかに生きていることそのものに価値があるんだと、その時は到底思えなかった。今だって難しい。
私はいつも誰と比べている。
自分を卑下する習慣が今もなお抜けないのは、人と比べて『敵わない』と打ちのめされた記憶があるからだ。誰もが一度は経験する“自分の限界に気づく”瞬間。圧倒的に能力が上の人間がいることを目の当たりにして目を剥き、自分は最強ではなかったのだと気落ちする。特に多様性を感じにくい幼少期の学校社会の中では、その差異は……(たとえば足が速いとか、社会人になったら何の関係もなくなることでさえ)残酷な現実として突きつけられ、“自分ってこんなもんなんだ”とある日、決めてしまう。
私もどこかのタイミングでがっくり肩を落としたことがあったはずだ。それはたとえば私より圧倒的に絵の上手い子を見たとき?それともテニスの試合で惨敗したとき?それとも中学受験に落ちたとき?
何が最初かは分からないが、あらゆる場面で、あらゆる人間に負け続け、劣等感を植え付けられていったはずだった。私は特にプライドが無駄に高いから、もしかしたら気落ちする前にスッと蓋をして見ないようにしてしまったかもしれない。思い出せないものもきっとたくさんある。
さて、能力の問題とは視点が変わるが、自己卑下の素地のひとつとして容姿へのコンプレックスがある。めちゃくちゃある。
容姿の問題について、私が劣等感を持ち始めたのはいつ頃からだったろうか。小学校高学年くらいまでは自分の顔にそこまで頓着していなかった気がする。特別可愛くもなかったが、そう悪くもなかったはずだ。少なくとも、変わらなきゃと焦るほどではなかった。
しかし6年生になる頃には、あの子は美人で良いなぁと羨ましい気持ちを抱いていた記憶がある。そして中学に上がった頃には確実に、ハッキリとしたコンプレックスになっていた。明らかに私にないもの。脚が長かったり細かったり顔がシュッっと整っていたり。最初から“持っている”子にものすごく憧れを持ったし『私はこの程度』という卑下の気持ちも大きくなっていた。そんな中でいじめ事件があって、ただでさえ思春期の荒波に揉まれ自己否定の悪循環が始まっていた私に、決定的な打撃となった。
いじめの加害者が可愛くてスタイルの良い子たちだったから余計に惨めだった。
私が楽器の才能があったように、彼女には美しい顔と体が与えられていて、それだけでとんでもないアドバンテージのはずなのに、どうして私から“能力”すらも奪おうとできたのだろう。
この期に及んでクリーニングしきれていない感情が出てくる。
私の容姿コンプレックスを含む自己卑下の鬱屈は、太りやすい体質と思春期特有の体型の変化も相まって、高校生の時にはもう手を付けられないほど肥大してしまっていた。
同じクラスに私の憧れるアイドルみたいなスタイルと顔立ちの子がいて、その子に体型のこと遠回しに言われた時はひどく傷ついた。忘れられない記憶だ。
クリーニングしなければ。
高校生の時のことを書き記すのはもう少し落ち着いて思い出してからにしようと思うが、私の容姿コンプレックスはこの令和の時代に面白いようにループが来たから、書き記しておく。
まずはTikTok世代の若い子の顔面へのこだわりと評価の厳しさに驚き、私は自分の顔を久しぶりに鏡で見て(普段からまじまじと見ないようにしていた)何年ぶりかに自分の『現実』と『限界』を知った。30代にもなって私の顔はこうなんだとガッカリするほど馬鹿らしいことはないが、ついつい画面の中の華やかな子に目を奪われて落ち込んでしまうのだ。
ウニヒピリは、TikTokなんて見なければいいのにと言っている。たしかにその通り。でもなかなかやめられないのよ。
また、私の彼が奇跡的に顔のかっこいい人で、釣り合うのかと何度も問うて病みそうになった。相手は何も変えなくていい、そのままでいいと言ってくれるのだが、自分で自分を認められてないから納得できないのだ。
今なお、顔と体型について残念に思うところは多分にあり、目に付くたび憂鬱になる。顔もそうだし、脚が太いことだってもう十数年ずっと悩んできたのだ。いつになったら解放されるのだろうと思いながら。そう――クリーニングができていないから、何回も何万回も同じ苦さを追体験する羽目になるのだ。
さて、この一連の負の連鎖を手放すとはどういうことだろう。
自分が劣っているという感情そのものをクリーニングするべきか。しかしそれで自分を好きになれるものだろうか。こんなじゃがいもみたいな顔も多様性と割り切れるものだろうか。
それとも“痩せなきゃ”という感情をクリーニングすべきか。これも十数年単位の気持ちだからなかなか根深い。あまり食べない生活を送っていた時期はたしかに多少は痩せていたが常にへろへろでそんなに元気じゃなかった。私には絶食という手段は向いていないのだと思う。そうなると痩せるって難しいし、運動もどれが正解か分からないし……などとさらなる混沌が生まれてくる。
健康については、これまた死ぬほどたくさん話のタネがあるので(ということはクリーニングのしがいもある)またの機会にするとして、今できるクリーニングをやろう。
話をまとめると、
私の自己卑下のおおもとは人と比べてしまう性質からきている。その決定的な契機は思い出せないが恐らく自分の全能感が薄れたとき、なにか圧倒的に人に敵わないと初めて感じた瞬間に起こってきたはずだ。
ここでもう一段深く掘り下げてみると、私は家族から十分に愛されていたが、それは私がよくできるから愛してくれるのだとどこかで思い込んでいた。恐らく『失敗の経験が少なかったから』『子どもとして優秀だったから』尚更そう思ってしまったのだと思う。(これはいま閃いたことだ)
私は幼少期に、たとえなにができなくても生きているだけで価値があると思えたことは一度もなかった。他人と比べて優秀でいようとしたのは、親からの継続した愛情を得るためだったのかもしれない。
あとは単純にプライドが昔からものすごく高かった。人より抜きん出ていたいというのはもはやDNAに刻まれた性質ではないかと思えるほど。
そして人と比べて少しでも優位に立ちたいという気持ちは容姿という変えられないものの前で打ち砕かれ、劣等感のループに入ることとなった。
これらのすべてを完全になくせなくても負の気持ちだけでも浄化できるように、ウニヒピリに依頼しようと思う。
特に人と比べて優位になりたいという浅ましい気持ちと、それが親や友だちからの愛情と結びついている(と思い込んでいる)あたりは厄介なので特に熱心に浄化をお頼み申したい。
容姿については鏡に向かって美しいね、可愛いねと言い続けたり、ストレッチという物理手段を使ってなんとかします。体型は、痩せられればいいけど、痩せていなければいけないという強迫観念のようなものは手放します。痩せていても太っていても私はこの世でたった一人の、尊重されるべき人間なのだから。
嫉妬心やコンプレックスを体験させてくれて【ありがとう】、自己卑下ばかりして【ごめんね】、ありのまま、個体としての私を【愛しています】
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