安らかな眠りをください
花冷え。
そう呼ぶにふさわしい一日だった。
関東では、桜が開花している中にちらつく雪。
水分の多い、べちょっとした感触に足元を汚された人もいるだろう。
外出自粛要請。
人々の足を止めるため、天の神が向けた差し金か。
我が家は今日も、5人仲良く自宅に籠もった。
かねてからの懸案事項だった、布マスクを作ったり。
魔女の宅急便を家族で鑑賞したり。
三度の食事にきゃあきゃあ言ったり。
そんな、なんてことない一日を過ごした。
そう、なんてことない。
外出自粛だろうと、外出禁止令だろうと、別に変わらず過ごしていると思う。
そういうものだと思ってしまえば、その状況だって楽しめなくはない。
そう、楽しまなければ。
それも人生なのだから。
ただ、我が家には一つ懸案事項がある。
認知症の義母だ。
本日は、どういうわけかトイレに通いっぱなしの義母。
トイレに入る。
こもる。
10分後くらいに出てくる。
部屋に戻る。
また、すぐトイレに行きたがる。
…本当に、これの繰り返しだった。
今日一日だけで、何回自室とトイレの間を往復したかわからない。
止めても無駄。
おとなしく座っているのは、食事の時間だけ。
気にしなければどうだっていいことなのかもしれないが、いちいちリビングを横切っておぼつかない足取りで歩く義母を、家族はみんなハラハラしながら見守った。
そして、夕方から夜にかけてもそれはおさまらなかった。
さぞかし疲れているだろうに、眠くてしんどくて仕方がないだろうに、取り憑かれたようにトイレに足繁く通っている。
見ているこっちが、いい加減疲れ果ててしまう。
「部屋に知らない人がいる」
「今日はどこへ出かけるの?」
夕方くらいから、意味のわからないことを真顔で言うようになってきた。
私は努めて冷静に振る舞おうと思ったが、理性がくたばってしまったらしい。
何度も何度も部屋とトイレを往復する義母を、「いいから早く寝てください!!」と何度も部屋に連れ戻した。
なんだか悲しくてやるせない。
ここ10日間、私は夜間の義母の見守りのためにリビングにマットを広げて就寝していたが、今日はそのお役目を放棄させてもらうことにした。
義母は、夜中も家中を徘徊しているかもしれないけど。
疲れ果てて、トイレで寝てしまうかもしれないけど。
寝ぼけて転んで、怪我を負うかもしれないけど。
もう、四六時中付き合い続けるのはムリだ。
主人の方からそう言ってくれた。
私は今、久しぶりに子供部屋に布団を広げて、子供の寝顔を見つめている。
こんな当たり前のことが、こんなにも嬉しくて、苦しい。
階下から「看護師さん、看護師さん」と泣きながら呼ぶ義母の声がする。
2ヶ月半の入院生活が、まだ抜けきれないのだろう。
久しぶりに布団に包まれて、子どもたちの隣で眠れると言うのに、そんな幸せを存分に感じることも許されないと、思ってしまう。
どうか、安らかな眠りをください。
この世界にある当たり前の幸せを、存分に味わいたいだけなんです。
安らかな眠りがほしい。
そう、願わずにいられないのは罪なのか。
今夜は眠れそうにない。
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