眠れる女 #5/6
それきり「首」が何も言わなくなったので恐るおそる手を伸ばすと指先をかすめたのは布の感触で、はてと思ってその頬に触れるつもりで手のひらを上からあてがうと抵抗なく潰れ昨晩脱ぎ捨てたままになっていたスーツのズボンの丸まったので、オレはどうやらそれの作る影を女の首と見まごうて問答していたようである。そんなはずはないとソファーの上を両手で手探っていると白いものの混じった長い毛髪が何本と指の股に絡みついてくる。
それがもう夢路だったかもしれずオレはいつのまにか寝床にぬくまっていて目覚めたのはもう日も翳り始める時刻。LINEが何十件と寄せられスマホの着信も十件を超えていたがオレはそれらすべてを無視してスマホの電源を落とした。まどろみながらもついに眠りは得られず布団のなかで胎児のように丸まりながら何をかこつといって情けないことにオレは空腹をかこつのだった。たまらず寝床を這い出すと居間とを隔てるドアを開き、とたんに鼻面を打つ昼餉の匂い。見れば食卓にところ狭しと並べられた色とりどりの菜の数々、ガスコンロの上には今しがた火を落としたばかりと見える鍋からもうもうと湯気が逆巻いて味噌汁の香が立ち昇る。飯も炊けている。しかしオレの期待とは裏腹に卓に伏せられた飯と汁物の椀は一組で、一人分の膳というありようはなぜかこのときのオレにはよほど堪えたのだった。隣室を覗くと女は寸分違わぬ横向きの姿勢で寝ている。死んでいるのかもしれないと嘯きながら相変わらず顔を覗き込もうともせず声をかけようともせず室のドアをそっと閉めた。
月曜日の朝。始業時間を過ぎても次長の姿が見えなかった。スケジューリングボードに出張や会議の予定は記されておらず欠勤の知らせもないらしい。いつもなら誰よりも早く出社して煙たがられているような次長だから珍しいことこの上ない。偉い人が何人か島に来て、次長は? と尋ねて去っていく。どことなく困惑げにみえるのは金曜の夜にここで酒盛りしていた連中で、オレが中座してから終電もとうに終わった時刻に次長がふいに現れて憂さ晴らしの馬鹿騒ぎに加わったとはこの時点でオレはまだ知らなかった。各々の島の長が呼び出されて会議室に吸い込まれていき、この緊急招集が次長の不在とどうやら関係ありげとは誰もが察した。程なくして会議室から吐き出された面々は例外なく沈鬱な面持ちして口を開く者はなく、ある者は自席を素通りしてハンケチで口を押さえたまま駆けるようにしてフロアを去った。なんだなんだとシモジモはなるわけで誰彼がそわそわしていると戻ってくるこの島の長と目が合った気がして気まずさに俯くと背後に立たれ何か咎められでもするのかと構えると「ちょっと、いいかな」と耳打ちされ席を立つと会議室のほうへ先導された。会議室の奥に座すのは部長ひとりで、座るよう促されて室長のあとにオレもロの字に囲われた長机の部長とトイメンの位置に着席した。もう話したの、と部長。いえ、と傍に控える室長。そうなの、と受ける部長の挙動はいかにも女性的でこの人にはオネエの噂が絶えず付き纏ったがれっきとした妻子持ちだった。
「あのね、◯◯さん(次長のこと)なんだけどね、死んじゃったんだよね」
あまりにもこともなげに言うのでオレは面食らった。質問を差し挟んでいい場面なのかわからず黙っていると、部長は続けて、
「昨日の夜、彼からLINEがあってね。自分はどこにいるのでしょうか、だって。これは危ないとすぐに察しましてね、私も方々手を回したんだが、間に合わなかった。先ほど福岡の警察署から連絡があって。彼ね、縁もゆかりもない土地のマンションの階上からね、飛び降りちゃったんだよ。まぁ、これ、他言無用だから」
ショックはショックとして、それにしてもなぜぺえぺえのひとりに過ぎぬオレにそんなマル秘話を聞かすのだろうと不審に思っていると、その不審が顔に現れたものかすかさず部長は言葉を継いだ。
「それで君をお呼びしたのはだね、これから私の福岡行きのお供をしてもらおうと思ってね。君は◯◯くんの信任がことのほか厚い若手だったし、君も何かと彼には世話になったろうから」
身に覚えのないことを言われ部長は明らかに人違いするようだったがその人違いも故意のように思われ、オレはただあいまいに返事をするのみだった。次長の信任が厚いとは本当かもしれずだからこそあんなに何度もオレに直に資料の変更を命じたのかもしれず、そうあってみれば死者の恩を無下にする理由もまたないのだった。かしこまりました、とオレは言って机に額のつくほどに深々と頭を下げた。自席に戻ったオレに声をかける人間はひとりもなかった。ただならぬ気配を察してのことだったろう。それじゃ、頼んだよ、と室長に送られてフロアをあとにするさいに一身に背に浴びた一同の羨望にも似た眼差しの熱さを、オレは生涯忘れることはないだろう。
昼日中のうちだったが羽田を離陸してまもなく部長とオレは空港で買い置きした缶ビールを開けた。こういう場合乾杯ではなく献杯するのだと部長は教え、一口目を含む前に二人して進行方向に向け心持ち缶を捧げた。とても飲む気にはなれないオレをよそに部長はあれよというまにひと缶を飲み干し、ふた缶目はロング缶に手をつける。ようやく人心地ついたというふうな安堵の顔を浮かべ、どことなくはしゃぐ気配すらある。食うか、と差し出されたアタリメなどオレは滅多に口にするものではなくその匂いに嘔気するくらいのものだったがひとつ頂戴していつまでもそれを手に持ったままだった。部長はみるみる顔を紅潮させ背もたれを倒せるだけ倒して深々と息をつき宙のあらぬ一点を見つめてしばらく一言もなかった。オレは目を閉じて寝たふりするのが最善のように思えじっさいそうしたがしばらくすると部長は構わず話しかけてくる。
「君はさ、彼のことはどこまで聞いてるの」
「次長のことですか」
「もちろん。彼のプライベートのこと」
少なからず聞いてはいるのだがあからさまに話せば誰から聞いたのとなるやも知れず図らずも誰かを売ることにもなりかねないと自重したオレは、ほとんど知りません、ご離婚されているとはご本人から聞きました、とだけ言った。
「離婚、してないけどな。彼、自分でそう言ったの」
「奥様とお子様たちとは別々に暮らしている、とはおっしゃってましたので」
「うん。そうね。でもね、離婚はしてないのよ。離婚してもらえなかったのよ。彼、うちの若い社員と不倫関係になりましてね。もうあなたが入社する前の、ずっとずっと前のことですよ。それが、まぁ、奥さんにバレちゃった。そしたら即離婚とかなんとかなりそうなものだけど、あの奥さんは違った。別れる。でも離婚はしない。してやらない。それが奥さんのなし得る最大の復讐だったんだね。で、これが彼には効いた。結局不倫相手は会社を辞め、彼と世帯を持つつもりでいたのがそれも叶わずで別れ、以来彼はずっと孤独を強いられてきたの。まぁ、自業自得と笑う人もあるかもしれないが、金輪際誰かに許されないというのはね、人には一番堪えるもののようですよ。君はそう思いませんか」
人の殺意を掻き立てる一番の動機づけが「相手から憎まれている」と信じ込ませることだというのが米軍の兵士養成哲学の根幹であると何かで読んだことのあるオレはそのことを思い出し、許されないとは憎まれていると同義でありそのストレス下に人生が束縛されたならとても正気ではいられまいと我が事として思うのだった。
「それは辛いですね」
「君だったらどうする」
「私だったら……高くつくかもしれませんが、なんとか調停で離婚に漕ぎつけようとするんじゃないでしょうか。どの道先に進まないわけですから」
「ドライだね。さすが、やっぱり若いね。いや、そう割り切るのが結局は正しいんだろうけどな」
憎悪もそうそうひとりのうちにおいて持続するものではないとも思うのだが余計な感慨を述べ話がにわかに議論めいて多岐に渡るのをオレは恐れた。部長はそれ以上言葉を継がなかった。部長のほうからやがてかすかな寝息が聞かれ始めオレは片手に持ったままだったアタリメをそっと空き缶のなかに投じて深々と息をついた。
鏡張りのような最新のビル群のただなかにあってその警察署はどことなく教会を思わせるような白壁の年季の入ったペディメントを持つ建物で、薄暮のなか桃色になずんでいた。受付で用向きを告げると建物最上階にあるのらしい会議室で待機するよう言われ、扉の開閉は言わずもがな昇降の加減速するたび人を不安にさすような物々しい音を立てずにはいない古いエレベーターで運ばれていく。扉が開くなり目の前は薄暗い廊下でどこかで寿命を迎えた蛍光灯が明滅していて底冷えがしてそこはかとなくカビ臭もしてまず思ったのが霊安室だが、霊安室が最上階にあるのはまったくもって合理的でないし廊下の片側には折り畳み椅子と折り畳み机とが乱雑に寄せられてもう何年と開けられたことのなさそうな引き戸の向こうは倉庫か何か、左手奥は行き止まりで窓越しに建物裏手に隣接するガラス張りの高層ビルが沈みゆく太陽を映してこちらの目をまともに射抜き、逃げるようにして右手に進むとややあって鍵の手に折れ続く廊下の正面に赤茶に塗られた鉄壁が明滅する蛍光灯の下で寒々として袋小路をなし、鉄壁は観音開きにこちらへ全開する式のものらしいが今はぴったり閉ざされて片側に切られたくくり戸のドアノブへ部長は躊躇なく手をかけて引き、するといかにもそこは会議室らしく百畳は優にあろうかというだだっ広さで三方のブラインドがすべて上げられているので夕の日に染まって全体茜色と言いたいところだが事情が事情なだけにオレには血塗られたようにしか見えない。すでに先客があって似たような事情を抱える者たちだろうか、四隅のうち二隅をそれぞれ親族らしい四、五人が陣取って、オレたちにチラと視線をやるなりあからさまに肩を怒らせ声を低めるようだった。部長は迷わず西日をまともに浴びる窓際の隅へ進んでゆき、しばし窓辺に取りついて窓外を眺めながら、中洲はどっちかな、などと呟いていたがとてもオレは高所から下を覗こうなどという気にはなれなかった。
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