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シガールーム(前編)

 脱サラして大成功した先輩がいるんですね。その先輩が現在何をしているかはここでは伏せておきます。話の本筋とは関係ありませんし、差し障りがあるといけませんから。

 わたしが会社を辞めたのを人伝に聞いたと言って向こうから連絡をくれましてね。そりゃ、驚きましたよ。わたしなんかにしてみれば、向こうは雲上人ですから。

 初めてお会いしたとき、わたしは新人一年目でした。先輩は、super 社員の呼び声高く、週末は会社役員のお歴々から酒席を通じて帝王学を授かっているともっぱらの噂でした。
 たしかに仕事は凄腕でした。迅速にして正確、企画も斬新で、あのころのわたしが彼を形容していたことばは、「鮮やか」の一語。俳優でも十分通用するような精悍な面構えで、長身にしてスレンダー、ともかく非の打ちどころがなかった。身につけているものもなんか違うんで、靴やスーツはどちらで、と思い切って聞いてみたことがあって、「バーニーズニューヨーク。ボーナスはぜんぶ消えちゃうね」と珍しく屈託なく破顔したもので、後日バーニーズニューヨークとやらを見つけ出していそいそ足を運んだところが、そこにある品々の桁がことごとくひとつ違うんで、驚くというか、呆れるというか、当時のわたしにしてみれば、夢のある話だなぁ、と。嘱望されれば相応の高給取りになれるものかと早合点したわけですが、これがとんだ勘違いで、先輩はご発言通り、給料のほとんどを衣料品に費やしていたんでした。

 自分に厳しい人で、下にも厳しかった。当たりの強い人だったから、やっつけられるほうは彼が帝王学を授かってるちょうどそのころ、陰口大会開いてドンチャンやる。でもあれは、どう贔屓目に見ても負け犬の遠吠えで、わたしもよくそんな飲み会に誘われましたけど、あからさまに同調するのは控えましたね。わたしもえらく先輩にしごかれた口でしたが、言われることが一々理に適ってましたから、こちらはぐうの音も出ない。見返したいの一心で、会社が引けても家には真っ直ぐには帰らず、ファミレスに寄って日付の変わるまで残務処理するのが日課となって、土日返上もザラだった。そうしないと追いつかないんですから。
 先輩が本社にご栄転と決まったとき、後輩ではわたしひとり声をかけられまして、今度飲みにいきましょう、と。
 酒席の先輩は、職場とは打って変わって気さくな人物でした。
「私は君が休日にこっそり会社に来て仕事をしていたのを知ってるし、私のしごきにもよく耐えてくれた。なにより嬉しかったのは、若い人たちのする酒の席で、君が私を庇ったことだ。それがなければ、いまごろ暴動が起きていたかもわからない」
 そう言って、例の屈託ない破顔を見せるのでした。あれは、ほんとうに、嬉しかったですよ。報われたとでも言いますか。

 しかし先輩は程なくして会社を辞められた。上とぶつかったという話でしたが、詳しいことは下々の者にはわかりません。性格に難あり、と公然と先輩を悪罵する向きもあれば、会社こそ理不尽、と庇う向きもある。先輩にメールにてお伺いすると、落ち着いたらいずれ、◯◯さんにだけは気をつけて、とだけ返信があって、その後はこちらから連絡するのもなんだかはばかられて。◯◯さんというのは、当時の先輩の直属の上長で、あれから十数年を経て、◯◯さんはいまや社長ですからね。エラいもんです。

 言いつけ通り◯◯さんに気をつけてきたわたしは、どうにも社内で居心地の悪い塩梅となりましてね。「あなたのことがきらいです」と、顔に書いてあったのかもわかりません。で、先が見えたとなって、わたしは会社を辞めることに。潔く、というのが偽らざるわたしの本心でした。
 起業を決意して日夜奔走していたそんな最中、直々に連絡があったわけです、先輩から。会わないか、と。そうそう、会社を辞められてからの彼の活躍について、なにもお話ししてませんでしたね。前職とはなんの関係もない道に進まれましてね。独学で製品を開発して、方々行脚してご自身で売り込まれたと。しんどかったと思いますよ、正直。で、その真価を認める企業が現れて、雑誌に紹介され、テレビに紹介されして、しかも当人がモデル並みの美形ですからね、これ以上言うと誰だか特定されかねないので控えますけど、いっときテレビを通じてそのご健在ぶりを度々目の当たりにしたものです。世離れとはああいう風態を言うんでしょうね、肩までの長髪に金銀宝飾を鼻やら耳やら唇やらにアクセントに添えて、衣装もいかにも高級そう。MCに腕時計をいじられる場面があって、パネライのなんとかいう限定品で……と、要するにさっきも言ったように雲上人ですよ。あのアルカイック・スマイルがまた心憎い。目が笑ってないんです。おのれの才能ひとつで立身した人間の凄みと余裕というやつですよね、あれがなんともわたしには羨ましかったし、羨ましいでは足りない、眩しかった。

 そんな彼からお声がかかりまして。いそいそと都心のオフィスに出向いたわけです。
「新たな人生へのはなむけといったら失礼かもしれないが、もしよかったら君にこれを」
 言われて渡されたのが、ペリカンのヴィンテージの万年筆。
「君、万年筆、好きだったでしょう。たしか、集めていた」
 集めていたなどとはおこがましいかぎりで、たしかにその昔万年筆に魅せられて何本か(わたしにしてみれば)大枚はたいて買ったこともありましたけれど、コレクターというにはほど遠い横好きも横好きで、いまとなっては道楽を聞かれて万年筆と答えるわたしではございません。万年筆が好きで集めてます、などと公言したのらしいかつての自分の見栄の張り方が恥ずかしいというより空恐ろしくて、返すことばがにわかに見つからなかった。市販の万年筆でさえこの有様なのに、ヴィンテージともなればもはや守備外。しかし向こうはわたしが感無量すると取ったようで、
「それは私のマテリアルを最初に認めてくれた会社のお偉いさんがくれたもので、契約書ひとつサインするにしても、こういう価値あるもので書かなければ運はついてこないと諭されてね。もとより私には万年筆の価値などわからないし、機会さえあればこれは君に譲ろうと、前々から思いついたんだ。その機会がついに到来した。違うかな」
 わたしにしたところで、その古色を燻された一級の工芸品のような万年筆の価値など正確にわかったもんじゃないが、ここはありがたく頂戴することにしました。

「シガー、吸う?」
 煙草をcigarと英語読みするのも雲上人の習いかと心得て、
「もう、やめました」
「あれ、やってたの。さすが」
「職場も喫煙ルームがなくなるご時世ですから……」
「ああ、それはcigarじゃなくて、cigaretteね。わたしが言ってるのは、葉巻」
 そう言って、三本の葉巻をのせた銀の盆を机上に置いた。どれもセロハンの袋に覆われていて、金の帯紙が巻かれている。色と長さがまちまちで、どうやらいずれも種類が違うらしい。
「葉巻は、やったことあるの」
「葉巻はないですが……」
 ここでわたしは悲しい嘘をつきました。わたしは次のように答えたのです。
「葉巻はやりませんが、いっときパイプにハマりまして。ダンヒルのマイミックスチュアをよく吸ってました。ホワイトドットで」
 この最後の「ホワイトドットで」のところが余計で、万年筆の次に魅せられたのがパイプで、パイプ熱が高じて台東区のさる工房に何度か出入りしたのもほんとうですが、歯が汚れるのと血圧が上がるのに怖気付いて早々にこれまた放棄した道楽だったのが、いかにも長年嗜んだかのように言いふらし、ダンヒルなどと(文字通り)煙に巻いたに至っては言語道断でした。パイプひとつにかけた金などせいぜい数千円で、安いものでも七、八万はするダンヒルのホワイトドットに手が出るはずもありませんでした。
「それなら煙草のほんとうの味はわかるわけだ。大したものだ。さすが。それでは門出を祝して。どれでもお好きなものをどうぞ」
 言われて、見当もつきません。
「965がお好きなら、これかな」
「965とは」
「ダンヒルのマイミックスチュア965。965って略さないのかな。ごめん、パイプのことはよく知らない」
 馬脚を現すとはこのことです。おそらく顔面火を噴いていたのは明らかだったでしょう。
「ただ、ここは賭けをしたい。このなかで一番高いものを選んでみて」
 言われてわたしは気を取り直し、少し迷った末に、白っぽくて短いのを敢えて選びました。敢えて、というのは、わたしのなかの葉巻のイメージが、万年筆のように太くて長いそれだったからです、たとえば写真の吉田茂が手にするような。その定番のイメージを裏切るものこそ希少性が高いと睨んだわけでした。
「さすがはお目が高い。では、吸ってみて」
 言われるまま金と銀の雲龍の装飾を施したシガーカッターで端を切り落とすと、通常のそれの二倍はあろうかという長さのマッチを擦って、先端をその火で炙りながら先ほどの切り口を吸おうとした。
「まだ口に持っていかない。火をもう少し遠ざけて。シガーを横にして、先をよく見ながら、縁を満遍なく焼くイメージで転がしていく」
 火がつく段になって、くれぐれも煙は肺まで吸わぬよう、注意される。それはさすがに知ってましたけど。パイプも葉巻も煙は口に含むだけ。ニコチンは口内の粘膜を通じて体内に摂取される。そうなると肺癌とは無縁のようですが、口腔喫煙は口腔に癌をもたらすと言われていて、葉巻もパイプも健康志向の代替品とはいかないとは、これまた余談。
 ひと吸いして吐き出すとどうでしょう、煙草(cigarette)のそれとは香りはもちろん、きめの細かさから濃密さから棚引き方から何もかもが比較にならないほどにgorgeous。政治も文学も、このように芳醇な香りから生まれる夢にほかならないなどと嘯いている。ふた吸いみ吸いとするうち時間の流れが緩慢になり、それこそ雲の上に寝そべるような、これまでに得たことのない心地よさに身も心も痺れるようでした。
「これはまた、なんという……」
「さすがだね。私は初めて吸ったとき、頭がくらくらして卒倒しかけた。味わうどころではなかったよ」
 こんなに旨いものがこの世にあろうかとわたしは不思議でした。
「一本で二時間楽しめる。その間に男たちはビジネスの話をする。政治やアートの話をする。あるいは女の話」
 ことばがうまく出てこないんです。ただ、自分の顔がとてつもなくいやらしい感じでニヤついているのがわかる。酩酊してるんですね。
「君の吸ってるのは、シガーではもっとも人気のあるやつだ。吸いやすくて、初心者向け、値段もシャンパンくらいと手頃。私の吸ってるのが、値段にすると、ホワイトドット一本分くらい。そしてこちらが今日の一押しで、君がもらってくれたペリカンの万年筆といい勝負なんじゃないか」

 先輩は、わたしの全然知らない遠い遠い世界の住人なんだと、改めて思いましたね。
 そんなことを羨ましがるとは、俗物成金趣味丸出しじゃないかって? このわたしが? まぁ、そう言わないで。当時のわたしは言うなれば失業者、妻と二人の子に不自由させてはならないとそれは無我夢中でした。明日をも知れぬ不安の最中にお呼ばれして、ヴィンテージの万年筆やらシガーやらポルシェやら軽井沢の別荘やら言われて、それこそ夢のある話だと、まずもって慰められたまでです。独立すれば、物欲の満たされるgorgeousな生活が待っているなどと、本気でわたしが短絡するとでも? まさか。葉巻を燻らせながらわたしが夢想していたのは、つましい我が家というやつです。足るを知り、矩を越えず、です。人には人の分というものがある。わたしという人間は、たとえ大金頂戴しても、サンダル履きのラフな格好して、休日には寝癖のまま図書館へふらふら舞い込むのをやめないような、もとより元手のかからない人間にできている。ただいっぽうで厄介な夢想癖があるから、ペリカンのヴィンテージと聞けば書き味を試してみたいし、シガーと聞けば味わってみたいし、ポルシェと聞けば一度はハンドル握ってみたい。そんなものか、でいずれハラリと落ちるとわかっていながらね。
 シガーの二本目は固辞して、わたしは早々に先輩のオフィスを退散いたしました。これで話は終いのようですが、じつはこれが長い長い前置きでして。

 ついに起業して、ポツポツ顧客がつき始めてなんとか生きていかれる、と安堵しかけたとき、また先輩から連絡があって、某日、お連れしたいところがある。都内某所にあるシガールームだが、とっておきの場所なので、とこうあった。

 断る理由など、わたしにあるわけがございません。

つづく

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