愛人
出社して一瞥するなり、その見慣れない若い女性を、取引先の担当者が原稿でも取りに来たくらいに思って、鹿間は別段不審に思わなかった。
ところがいつまでもそこに立っているので、さすがに気になり始めた。取引先の担当者が替わったのなら、事前に上長に伴われて自分のところへ挨拶に来ているはずだと、今更のように鹿間は思いついた。入社二年目の、鹿間の息子のようにも若い社員の着座する背後に女は控えて、彼の手元をじっと見守るようである。若社員はさっきから机上の資料とパソコンのディスプレイとの照合に余念がなく、いささかも背後を気にするふうでない。島の長が中座から戻ってきた機をとらまえて、鹿間は小声で呼びつけた。
「小室さん、あれ」
鹿間が目顔で知らせる先へ、小室課長も視線をやった。
「あれ、とおっしゃいますと」
「戸田さんのうしろ」
「うしろ、ですか」
てんで話が伝わらず、鹿間は珍しく苛立った。
「いや、君、戸田さんのうしろにね、始業時からずっと女性が立ってるでしょ。あれは誰で、なんの用向きなの」
「女性、ですか」
「ほら、ベージュのスーツを着た、黒髪のおかっぱ頭の」
フロア全体を注意深く見渡しながら、
「申し訳ありません。近頃視力がめっきり弱くなりまして……」
と、課長はハタで見ていて気の毒なほど恐縮した。いや、そこ、目の前……とさらに食い下がろうとして、戸田の背後をいままさに別の社員が通りがかって、件の女の軀をすり抜けたものだから、鹿間は危うく声を上げそうになった。失礼、なんでもない、と放免する刹那、足元がふらついて、課長に腰を抱えられるという失態を演じた。
「部長、大丈夫ですか」
自身、顔から血の気が音を立てて引くように感じられた。鹿間は課長の手を振り払うと、憮然としてはばかりへ立った。
誰もいないのをいいことに、洗面台に屈み込み、両手に水を掬っては、盛大に顔に叩きつける。何度となく繰り返す。するうち、背後に気配がして、「あの……失礼します」と、狼狽えるような女の声が立って、個室の戸が勢いよく閉められた。あれ、間違えたかな、と思って鏡を覗き込んだ鹿間は、そこにすっかり化粧の崩れたおかっぱ頭の女を認めた。しまった、と呟いていた。なにが「しまった」なのか自分でもわからぬまま、手元のポーチを開いてあれこれ取り出す手つきを、我ながら手慣れたものだと眺めていた。
自席に戻ると、体調がすぐれないと課長にいい置いて、鹿間は社屋をあとにした。具合が悪いので早退した、と帰りの電車のなかで妻にLINEを書き送る。多少の混乱はあるものの、鹿間は体調に問題を抱えるわけではなかった。少なくともその自覚はなかった。しばらく電車に揺られてうつらうつらしていると、隣りに座る乗客のそわそわする気配が伝わって、なにごとかと視線を向けたのと同時に乗客は立ち上がり、こちらの視線を振りほどくかのようにして、すたすたと車両の端へ移動した。移動した先で腰を下ろすと、一瞬、鹿間を睨みつけたように見えた。奔放な服装の感じから、女子大生、と鹿間は当たりをつける。釈然としないまま周囲を見回すと、車両には数えるほどしか乗客がおらず、座る場所などいくらもあるのに、よりによって座席の端に座った若い娘を詰めるかのようにその真横に自身が座っていたのを、遅ればせながらに気がついた。
駅前の紀ノ国屋に立ち寄り、スコッチのシングルモルトと、ちょっと値の張る肴をいくつか見繕った。ここ一ヶ月は休日もなく働き詰めだったのを思えば、にわかに自分を甘やかしたくなるのも道理というもので、時刻がまだ正午前であるのを鹿間は素直に喜んだ。
玄関先に立った鹿間を認めるなり、出迎えた妻はみるみる蒼白になった。どうした、と呼びかけると、どうしたじゃないだろう、と初めて耳にする男言葉で応じて、文字通りわなわなと震え出した。
「盗人猛々しいとはこのことだ!」
妻は叫んでいた。
「よくも、まぁ、いけしゃあしゃあとこの家の敷居を跨いだもんだ。なにしに来たんだよ!」
「具合が悪いから、会社を早引きするとLINEしたはずだが……」
「わたしが、いないとでも、思ったか!」
「え? いや、おまえ、どうした」
いい終わらぬうちに、一足束になったスリッパが飛んできて鹿間の顔面を直撃した。当たりどころが悪く、鼻腔にたちまち熱いものが膨らんで、ぽたぽたと足元に垂れた。血だった。それを追った目が、鹿間の履き物の爪先をとらえる。ぎょっとしたのも道理で、それは白のパンプス。鹿間はほとんど反射的に家を飛び出していた。
タクシーを拾う。行き先を告げる。鼻に当てたハンケチがじわじわと赤く染まっていく。ベージュのスーツの襟にも、血が点々と付いているのを見て舌打ちしたが、もはや舌打ちするのは鹿間であって鹿間でなかった。
「お客さん、大丈夫ですか」
タクシーの運転手がミラー越しにこちらを覗いて声をかける。
「大丈夫なように見えんのかよ!」
タクシーを拾うという選択をしてから以降、鹿間はさながら映画を見るような按配で傍観者に徹していた。そうするほかなかった。赤の他人の内側に閉じ込められるというこの感覚は、しかし閉所恐怖症気味の彼には不思議といえば不思議だが、絶望感を惹起することは全然なかった。むしろぬくとい心地すらしていたのである。
どこぞの古いマンションの前でタクシーを降りると、女は小走りでエントランスを横切り、オートロックの共同玄関を通過して、待機していたエレベーターに滑り込んだ。最上階まで来ると外廊下を突き当たりまで進んで、その角部屋の扉を開く。施錠されていなかった。なかから男の声が立った。
「遅かったじゃないか」
その声を聞くなり、一種独特の居心地の悪さを感じた。そう、それは、録音された自分の声を聞くときの違和感にほかならなかった。玄関先まで廊下を近づいてくる逆光の黒い影こそは、上下スエット姿の鹿間自身にほかならなかった。女の手に提げたレジ袋を奪い取ってなかを覗き込むと、
「あいかわらず気が利くね。俺の好きなものばかりじゃないか」
自分は実年齢よりは外も中身もだいぶ若いなどと、根拠のない自信があったのだ。その自信が脆くも瓦解する瞬間だった。白髪の勝った薄い頭を見るにつけ、もはや年寄りの域である。背つきにしても、長年の重力の酷使に堪えず、節々はひしゃげ、全体として頽れた感じは隠しようもない。それからその芋虫のように太くて武骨な指。指の背に生えた短い毛を見るにつけ、文字通り怖気をふるった。よほど平均より爺むさいではないかと目を剥きながら、こちらの口元に寄せてきた無精髭の口から発する腐臭のようなものに、堪らず顔を背けた。
「いいじゃないか。こんな日は滅多にないんだ。丸一日、獣のようにしようよ。バイアグラだって、ちゃんと飲んだんだ」
鹿間は全身総毛立った。嘔気を堪えるうち、安穏として映画を見ていた観客がいつのまにかスクリーンの世界に引っ張り込まれて主体的に振る舞うのに似て、口を吸われる感覚も、腰を抱き寄せられる感覚も、すべてが鹿間自身のものとなり、嫌悪する意志も、それがために男を押しのける所作の逐一も、鹿間の意識に直結した。いや、もう、ここで犯されようとしているのは、鹿間自身にほかならなかった。男は拒絶されるほどにまなこの奥のほむらを滾らせて、女をその場に組み伏すと、あろうことか殴打した。繰り返した。やがて首にかけた手に力を込めながら、もう片方の手をスカートのなかへ潜らせてそこへ指を忍び寄らせ、触れられれば軀は弓なりに反って鹿間の意志とは裏腹に失禁する。
「この変態め」
鹿間は鹿間の左の耳介を、丸々口に含んだ。
刹那、なにもかもあげるわ、と囁く若い女の声を聞いたように鹿間は思った。