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BGM conte vol.16 《夏の終りのハーモニー》
会いたい。
車出して。
いわれて拾ったのが二十三時過ぎ。
高速は程よく空いて、車は快適に走る。カーラジオはお決まりのJ-WAVE。気づまりな二人にはちょっと悲しすぎるような、アイルランドのブルースを特集している。いつか雨滴がフロントガラスをぽつぽつ叩いて、左に右に流れていく。もう一時間とふたりに会話はなかった。
窓を閉めていても車内に潮の香りが漂い出した。車はいつか思いついてお台場を目指していた。潮風公園から、海を挟んだ対岸の埠頭を半日と眺めて飽きないといったのを、ふと思い出したのである。とはいえ、それも遠い昔の記憶。そんなこと、いったかな、とキョトンとされても不思議もないような、そんな遠い距離にふたりはいつかなっていた。躰をいくら重ねても、縮まりきらないどころか、いよいよ隔たっていくような関係というのは、やはりあるものだ。なにを考えているのなどと、相手の心を測り知ろうとする試みすら、互いにもうしなくなっている。
雨は降ったり止んだりだ。
傘を差すまでもなかった。
公園の噴水はとうに枯れ、ライトアップすらされていない。それでもかしこに人の気配はある。ベンチは濡れていて、一見すると人の姿は見えないのに。晩夏というべきか初秋というべきか、夜は一枚上に羽織らないではいられない寒さだが、こんな季節に限って蚊はかえって猛威を振るうから、ちょっと木陰に隠れてというのは、想像するだにゾッとする。
ふたりは肩をならべて歩かない。
それはいまに始まったことではなかった。初めはならんで歩いていても、いつか相前後するようになって、背にその視線を負うことがやがて安堵のしるしになっていた。いまもまたうしろを歩かれて、収まりのよさを感じている。たくさんの写真を撮られていて、ことごとく後ろ姿であるのに苦笑すること度々だった。しかしなぜ後ろ姿ばかり、とはついぞ聞かずに来てしまった。なぜだろう。その必要を感じなかったから。なぜだろう。最後に聞くことになるのか、それはわからない。
鉄柵に取り付いて、埠頭を見た。そうやってうっとりと視線をやる男女が、沿道に等間隔にならんでいる。ライトアップされた紅白のクレーンたちはみな、背後の要塞を守る巨大な神獣めいて見える。その頭上、分厚く垂れ込めた雲を裂いて、間遠に飛行機が降臨する。あるいは雲のなかへ突入していく。いつかあれに乗って、どこか遠くへ行こう。眺めるうち、無性にそんな気に駆られて、振り返れば、そこに誰もいなかった。
しばらくそこに佇んで、雨脚の激しくなったのを機に、立ち去った。周囲を探しもしなかった。
あれから二十年が経とうとしている。小糠雨の降る晩に、時として家人らに妙ないい訳してひとり車を走らせることがある。カーラジオはお決まりのJ-WAVE。向かうはお台場の潮風公園。気の済むまで埠頭を眺めてから、引き返す。なんだかもう何年と、そこに置いてきてしまっているような気がしていた。未練なのか、後悔なのか、同情なのか、それは自分でも詳らかにしない。
こんな感傷にいつまでも囚われているのは、男の側の甘さとは、よくよくわかっている。ただもう、後ろ姿を二度と撮られないと思うにつけ、人生の下り坂を意識する年齢にあっては、この上なく寂しいばかり。