海坊主

🪼

怪談好きにかぎって自分には霊感はないなどと前置きしがちですけど、あれなんか語りの信用問題といいますか、背後霊が見えるなんて平気でいうヒトの話のほうがかえって胡散臭いんで。

私もこうして怪談をするときは、自分の体験として話すより、人聞きとことわるのが常ですし、そのほうが聞き手の信用を得られやすいと心得ている。とはいえ、みずからの怪体験が皆無というわけでもないんです。

霊が見えるとか、ヒト様の越し方行く末を占えるとか、そんな霊感体質ではもとよりございません。ただちょっと説明のつかない事象に遭遇することが、幼い時分からままあるにはあった。

ものを失くすなんてのはしょっちゅうで、そのことで母にはよく叱られたものですが、どうにも解せないケースも少なくなかった。トイレに立つ前にはたしかに食卓の上に置いてあったのに。寝る前にきちんと枕元に重ねて置いたはずなのに。数年もして、思いもかけないところから失せ物が転がり出てくる。

そんなことがつづきますとね、物心つく頃にはなにかにつけモノノケのせいにする心性が身についてしまった（そんな歌詞のアニソンが一昔前に流行りましたっけ）。もちろん失せ物ばかりではございません。目的地に向かってうつらうつら電車に揺られているつもりが、目を覚ますと窓外に見知らぬ田園風景が広がっていたりする。打ち解けておしゃべりしている相手が全然知らない人だと自分でも気がついて、周囲から怪訝な顔を向けられているなんてことも一度や二度でなかった。

中高生の私はそんなこんなで周囲からは変人扱いでした。大学生になって都会でのひとり暮らしが始まりますと、キャラの新調を画策したものですが、だいたい鼻息が荒くなると盛大に空回りするのが持って生まれた哀しきサガなんで、人の名前をことごとく間違えるのを手始めに、下宿先からキャンパスまでの道は覚えられないわ、人との待ち合わせやレポートの提出といった約束ごとは悉皆失念するわで、変人とは表立ってはいわれないものの、誰彼から早々に「テンネン」のレッテルを貼られたものでした。下宿先の鍵を失くしてなかに入れず、扉にすがって泣いておりますとね、なにごとかと隣人がそのうち顔を出すわけです。ワケを話しますと、またかという顔をして、《だからそういうときは一階の大家さんのとこに行って事情を話して合鍵を貸してもらえばいいんだって》と叱咤されましたけど、あの方はいま思ってもほんとうにいい人でした。

父は私が小学三年生のときに亡くなりました。あの日、ボートに同乗していたのは父と私の二人きり。父の死の一部始終を知る身でありながら、八歳の私はなにも覚えていないと繰り返すばかりで、周囲の大人もよくある心因性の健忘症と諦めるほかなかった。

父は海で溺れたことになっております。死体は上がっておりません。あんな浅い穏やかな海で、あんな泳ぎの達者なうみんちゅが溺れ死ぬものかね、と親戚の誰かが葬儀の場でいうのを聞いた覚えがございます。棺には遺体の代わりに、ところどころ黄色みがかった軽石のようなものが白い絹布に埋もれて置かれてありました。あの土地では、水難者の死体が十日上がらなければ死んだものとみなされ、後日漁船を二艘沖に出し、先に行く一艘から一塊の龍涎香を海中に投じ、つづく一艘がそれをすみやかに掬い上げて、故人のなきがらとする風習があった。大人たちが棺のなかの匂い立つ無骨な石クレを覗き込んでは嗚咽し号泣するのを見て、なんとも奇異に感じたものでした。

成人式に出席するため、二年ぶりに私は帰省したのでした。親戚交えてのささやかな祝宴も散会となりまして、一服しておりますとね、母があらたまって、話があるという。なんだろうと身がまえる私の目の前に、おもむろに紙切れを置いて差し出した。我が家では包装紙やチラシを真四角に切って束にし、それをメモ用紙に使っていた昔を思い出した。すっかりシミだらけになったそれの中央に、鉛筆の走り書きのあるのを私は認めた。

《暈音トユク。後ハ頼ンダ。》

父の字でした。暈音（かさね）とは私のこと。私は暇さえあれば、季節を問わず、ひとり堤に座って朝に父の船を見送り、夕に帰港するのを出迎えたものでした。船倉から上げられるたび西日を浴びて銀色に輝く釣果にはさしたる興味もなく、私は幾度となく船員の頭数を数えては、その都度ハッとなって、いつか父に問い糺そう問い糺そう思いながら果たさずきたのでした。

その年、夏休みになってしばらくして、父と二人きりになった折に私はついにそのことを訊いたんです。それから数日して、明日は未明からおまえのボートで沖へ繰り出そうと突然父がいい出して、それが先だっての私の問いに対する父の答えであるのは明らかでした。私はいわれて早々に床に就いて、まんじりともしなかった。一睡もしてないなら船酔いするからこれを飲めといわれ、食塩を溶かした白い濁り水をコップ一杯飲まされた。浜に上げられた三人用のボート「暈音丸」を漆黒の海へと父は押し出して、きゃっきゃとはしゃぐ私をひょいと担いでボートに降ろし、自分は軽やかに艫を跨いで飛び乗ると、舫い綱をほどいてエンジンをかけた。

月明かりのない晩でした。舟からあらためて仰ぎ見た満天の星空と卑猥なほどに濃密な潮の香とを、これまた私はよく覚えております。やがて東方の海と空との境に朱が一線に滲んで、水平線のあたりに連綿とわだかまった雲叢が、紫とも藍ともピンクとも、えもいわれぬ色に染まりゆくのに呆然と見惚れながら、ああして朝ごとに世界はあらたに紡がれるのだと私は妄想したものでした。

「それ、お父さんが最後に残したメッセージ。それっきり、二度と帰らなかった」
「ふつうの書き置きだよね」
「ふつうって？　どこが？　娘と海へ釣りに出かけた夫が、『後は頼んだ』なんて妻に告げる書き置きのどこが、ふつう？」
「わからない」
「そう、あなたはいつだってなにもわからないの。でもあなたは二十歳になりました。自分のことは自分で引き受ける年齢です。あの日、お父さんになにがあったか、あなたはいまだになにも思い出せないのよね」
「思い出せないよ。わたし、気を失ってたんだから」
「そうだったわね。だからこそ大人になったあなたにヒントをあげる。少しは思い出すかもしれないから。このメモからわかること、それはね、お父さんはあなたと心中するつもりだったってこと」
「大発見じゃないの。警察とか、叔父さん伯母さんとか、みんな知ってるの？」
「知ってるわけありません。このメモは、私が墓場まで持っていくと決めたんです。ただあなたには知っておいてもらいたいの。お父さんと私は、何年と悩み抜いた末に、ひとつの結論に達した。それを実行するかどうかは時間の問題だった。あなた、弓枝ちゃんと琴羽ちゃんと葵ちゃん、覚えてるわよね」
「覚えてるよ。たしか海で死んじゃったんだっけか」
「覚えてるのはそれだけ？」
「それだけ」
「ちがうの。あなた、あの子たちと最後までいっしょにいたのよ。始業式のあと、あなた、あの三人に呼び出されて海に行ってるの。ほんとうになにも覚えてない？」
「覚えてないなぁ」
「三人は忽然と消えてしまった。あなただけなの、戻ってきたの。お父さんも私も、そのことをどう受けとめたらいいかわからなかった。私たちだけじゃない、三人の娘さんの親御さんはもちろん、村の人たちみんなが困惑した。それであなたと私たち二親を、責めて責めて責め抜いた。だからお父さんは、最悪な形で責任を取ろうとした。あなたにそのことがわかって？」
「わたし、その子たちと仲良かったんだっけ」
「とんでもない。あなたはその子たちから壮絶なイジメを受けていた。その子たちばかりじゃない、学校じゅうからあなたは除け者にされていたの」
「お母さん、助けてくれた？」
「もちろん助けようとしたわ。何度も何度も学校に掛け合った。教育委員会にも訴えた。さすがにあの騒動のことは覚えてるでしょう」
「覚えてるのかなぁ」
「なんなの」
「わかんないよ。だって、状況はなにも変わらなかったんだから。それにわたし、化け物っていわれたってしょうがないじゃん。そもそもヒトの子じゃないんだから」
「なにいってるの」
「わたし、ママとパパに似てないどころじゃない、私のこと、ヒト認定するほうが無理あるもの。六月の満月の夜、海では毎年珊瑚がいっせいに産卵します」
「暈音！」
「何億という珊瑚の卵が海を覆い尽くします。それはまるで宇宙を漂う無数の銀河のよう。銀河のなかには無数の恒星があり、恒星のまわりを小さな星々がめぐり、その星々をもっと小さな星々がめぐる。そうして何万分の一の確率でそれらの卵に異常が生じ、ヒトの胚らしきものへ変貌します。ヒトの胚らしきものへ変貌したそれは月明かりを浴びながら海の濃ゆいスープに揺籃されて発生を何万何億回と繰り返し、やがてヒトの胎児のようなものになる」
「暈音！　いい加減にして！　この話はもう終わり！」
「終わりじゃないよ。はじまりの物語だもの。そしてまたそのヒトの胎児のようなものは、何万分の一の確率で沖へ流されず捕食もされず岸辺にたどり着いて、また何万分の一かの確率で善良なヒト族に見つけられ、拾われ養われます。だから私は、一万年に一度の奇跡の申し子」

🪼

ボートの上でじき私は猛烈な眠気に襲われたのでした。おそらくは酔い止めとして飲ませた食塩水に眠くなるなにかを父が盛ったのでしょう。それで私は正体をなくし、父の死の顛末の証言者たり得ないのは、警察の公式記録にある通りです。

でも、ほんとうのところ、父の最期を私は見届けてるんです。量が少なかったか、それともそもそも人外には効かない代物だったか、いずれにせよ、父の目論見に反して事の遂行途中で私は目を覚ましてしまった。

目を覚ましたとき、私は船底に仰向けに横たわっておりました。空が白々と明けようとしていた。このとき父と目が合いましてね。起き上がろうとして、なにかいいかかる私を自分の口先に軽く人差し指を当てて素早くこれを制した。訳知り顔の、なんとも優しげな笑みを浮かべていた。それから右手を伸ばし、そっとこちらの目元を撫で下ろしましてね、まだ休んでなさいという合図とも取れたが、あれは、私になにかを見せまいとする父の配慮だったといまなら確信する。あのとき父は、背後に迫りくるものから娘を守ろうとしていたのでした。

朝な朝な繰り広げられる天地創造のプレリュードとはあまりにそぐわない、墨で塗りつぶしたよりなお黒い小山を背負うようにして父は私を見下ろしているのでした。それは、凪の海に生じた不自然な起伏、幾重にも重なり、うねうねと蠢きながら、船端に寄せては返す。父の額には暑くもないのに汗の玉がびっしり浮いて、それがだらだらと緒を引いて顔じゅうを濡らした。父は私の瞳を介して、背後を探るようでした。やがて声には出さずに、口の形だけでこう伝えた。

う

み

ぼ

う

ず

そしておのれを鼓舞するかのように小刻みに首肯しながら、なにやらぶつぶつとつぶやきはじめる。

南

無

妙

法

蓮

…

ほどなくして、舟が片側に大きく傾いて、海から舟縁へなにやら這いのぼる気配があって、濡れた裸足のびちゃびちゃと舟床に着地するような音すらが艫側から伝わって、それも一つでない、二つ三つ、四つ五つと這い上がってきてはひしめくようで、こちらは目覆いされて姿こそ見えないが、耳覚えのない言語で父を交えてヒソヒソと話し合う感じは深刻な交渉めいていた。

瞼の上の父の手が離れてからは一瞬のことでした。音はコトリとも立たなかった。ボロボロに擦り切れた着衣の童女が三人、私を恨めしそうに見下ろしているのが垣間見えた。顔は……いわゆる土左衛門。「元気？」にっこり笑って私は声をかけた。

パッと生温かいものが顔に飛び散って私は目眩まされた。ようよう視界を取り戻すと、かろうじて転覆を免れた舟の激しい揺れと、凪いで波ひとつ立たない鏡面のような海とがあるばかりでした。舟縁から身を乗り出して両手に海水を掬って顔をひと撫ですると、薔薇の花のような血煙が海中に広がった。透き通った海の底に、舟の影がゆらゆらとゆらめいている。朝が新しい世界を承認しつつあった。船の底に白い小さな石が散らばっているのを見つけましてね。曙光を溜めて朱に輝いていた。全部で十六ございました。朝焼けの天空に白い鳥の大群の横切るのを、奇跡の寿ぎのように私はいつまでも眺めておりました。

白い石の正体ですか。
父の歯でございます。

🪼

どうしました、皆様、そろって怪訝な顔されて。教訓なき怪談話とお思いで。それなら心配ご無用。このたびの怪談の教訓は、凪の海に殺意を持ち込んではならないの一事です。宵の凪において世界は死に、朝の凪において世界は再生する。その摂理を知らぬ愚かなヒト族は、朝に夕に神聖なる海において命をなぶり、血を注ごうとする。

殺すなら、真夜中ないしは真昼にしておけ、というのが、うみんちゅの私からの切なるアドバイスですぞ！

母ですか。あいかわらず元気にやってるようです。あの広い家でひとり暮らすのは難儀らしくって、改装して二階を貸すか、いっそ土地ごと売ってしまうか、考えあぐねるよう。所詮は血の繋がらない女どうし。母は私への愛情を薄く保つことが延命の条件であることをよくよく理解しています。賢い女です。海へ屠るまでもないと、今日の今日まで私に思わせているわけですから。

血の繋がらないのはほんとうですよ。先にも語りましたように、私は六月の満月の夜に海で生まれたのです。ご覧なさい。これが私のお腹。皆さんにはこのあたりに臍の緒の痕があるんじゃありませんか。ご覧の通り、私のお腹はツルツルでしょ。

ついでにお胸もご覧なさい。あるべきところに、あなた方のいわれるところの乳首の二つ、これまたございませんでしょう。

私には、あなた方と繋がるプラグのことごとくが、欠損しているのですよ。