終わりの夏 3/10
奏衣《かなえ》と子どもたちが、ついに到着した。
子どもたち、すなわち征郎と弓子にとっての孫たちとは、中学一年生の男子を年長に、小学五年生と小学一年生の女子ふたりだった。一番下の光唯は、車から飛び出すと、興奮のあまり宵の庭を走りまわりながら、きぃきぃと騒ぎ立て、下草に憩う虫どもは、驚かされて四方八方へ逃げ惑った。征郎は、孫娘がそばまできたところをすかさず抱き取って、掲げて頬擦りをした。髭が痛いと足をばたつかせて背けられ、さっそくジィジは嫌われる。弓子が笑い、篤子が笑った。いつもは征郎と弓子のふたりばかりの侘しい家が、にわかに七人の大所帯となり、煌々と明かりの燈るような、ときならぬ賑やかさだった。
夕食が済むと、征郎を先頭に、玄関からぞろぞろと皆が庭に降りてきた。孫の李仁の両の手には、それぞれキュウリとナスが握られていた。先の部分を折った割り箸を、四つ足に見立てて刺した、精霊馬だった。李仁は玄関先にしゃがみこむと、どこへどう置いたらよいものか、「向きは? 並べ方は?」と、神妙な面持ちして一々大人たちに訊いた。弓子がしゃがんで指南する。
「キュウリが馬で、ナスが牛。行きは馬に乗って、早駆けで来る。帰りは牛に乗って、ゆっくり帰られる」
征郎はいいながら、精霊馬の横にお明かしを置くと、線香二本に火を移し、煙が周囲に棚引くようにした。
「だれがのってくるの?」光唯が訊く。
「ご先祖様。さっき仏様にご挨拶したとき、仏間の鴨居の上に、写真が三枚あったろ」
「ジィジのおとうさんとおかあさんと、ジィジのおとうさんのおとうさん」
「そう」
「くるのは、さんにんだけ?」
「もっと来る。たくさん、たくさん、連れて来るだろうね」
「パパもくる?」
「パパは……どうだろう。いっしょには、来ないかな」
「どうして」
「うーん、まだ、ご先祖様というには若すぎるからかな。それにパパなら、お馬に乗らないでも、元気に歩いて来られる」
「どこから?」
「え?」
「ひとりで、くるの?」
このやりとりの間、終始弓子が小声で指示を出し、篤子も奏衣も、香炉を仏間から取ってきたり、バケツに水を汲んだり、蚊遣に火を移したりと、甲斐甲斐しく働いた。長女の野慧が、ふいに女たちを手伝いたがる。
「そうだねえ」
「まよわない?」
「迷わないさ。自分が生まれ育った家だもの」
「みゆいたちがきてるの、わかるかな?」
「心で呼びかければ、わかるさ」
しばしの沈黙のあとで、篤子が取りなすようにいった。
「そうだ、これからみんなで、温泉に行こう」
「おんせん?」
「とっても広いよ。泳げるくらい」弓子が加勢する。
「温泉のあとは、花火しよう」
篤子がいうと、子どもたちは口々に、やった、やった、といって喜んだ。
「海のほうに入浴施設ができたんだって。れっきとした温泉らしい」
これは奏衣に耳打ちした篤子の説明で、ふたりとも、年齢が近いので、かねてより姉妹のような口の利き方をする。篤子は、つと身を寄せると、奏衣の肘のあたりへ片手を添え、
「子どもたちは、わたしに任せて」
と囁いた。
家の白のヴィッツが、ゆるゆると庭を出ていく。これを征郎らが、玄関先から見送った。後部座席の李仁と野慧は、窓の外を一瞥すると、それきり俯いてしまった。助手席の光唯ばかり、窓に取りついて、いつまでも手を振っていた。
「なんで、ママは、いっしょにこないの?」
改めて美唯が、窓外に目をやったまま尋ねる。運転席の篤子は篤子で、同じ答えを繰り返す。
「ちょっとジィジとバァバにお話があるんだって。終わったら合流するっていってたから、温泉で待ってようね」
「はなしって?」
「さあ、なんだろう。あこねえにも、わからないな」
家の前の未舗装路を左折して舗装された農道に出ると、李仁が素っ頓狂な声を上げた。
「すげえ、あそこ、UFOと交信できんじゃね?」
行手に見える十字路を指して、どうやら興奮するようである。辻の四隅に背高な街灯が立ち、篤子の預かり知らぬ近年にLED化されたものだろう、路面は不必要なまでに明るく照らされていた。都会の子どもには、あんなものさえ珍しいのだろう。篤子はおもむろに減速すると、十字路の中央に停車した。
「なに、なに、なに、なに?」
李仁が大袈裟に狼狽していった。
「見えるかもよ」篤子はいった。
「なにが、みえるの?」光唯が訊くが、ほくそ笑んだまま篤子は答えない。子どもたちは恐るおそる、両手で硝子の反射を防ぎながら、窓外を覗き込んだ。周囲の青田は、黒々として静まり返っている。しかししばらくもすると、鈴を転がすような音がそこかしこに立ち始め、やがてカエルの大合唱へ転じていった。
「UFOに、車ごと攫われたら、どうしよう」李仁がいう。
「それはそれで、おもしろそうじゃん」
篤子は、ヘッドライトを切り、ハザードをつけた。ハザードのカチカチ音が、三人の子どもたちの逸る心拍に、次第に同調していく。
「なにもみえない」光唯は怯えていた。
「あ」野慧が小さく声を上げた。
「なに?」李仁が野慧の側へ飛びついて、妹を押しのけるようにして、窓外を覗き込む。
「いま、白い鳥が、田んぼのなかに見えた気がした」
「鳥? なんだ、つまらない」
「鶴みたいに、すごい大きな鳥だった」
「みゆいもみたい!」
篤子はハザードを切ってベッドライトをつけると、車をゆっくりと発進させた。
「この勝負、野慧の勝ち。ポイント一点を付与します」
「やった!」
「勝負だなんて、聞いてない。ズルいよ」
「これからもときどき勝負がありますからね。東京に帰るまでにポイントを一番多くゲットした人には、素敵なご褒美が、あるとか、ないとか」
子どもたちがやいのやいのいうのを尻目に、篤子は兄の衛のことを思っていた。衛は往時、あの辻を、世界の中心と呼んだのだった。そのことを、子どもたちに伝えようと思った。歳が十も離れた妹に、高校生の兄は、のちにブルースの神様と呼ばれる男のクロスロード伝説について、教えたのだった。幼い自分には、ブルースの意味がわからず、香港のアクション俳優のことだと、後年まで勘違いしていた。せっかく悪魔から、無二の歌声と無二のギターテクニックを授けられながら、なぜ彼はカンフー俳優になったのか、篤子には解せなかった。悪魔の厚意に逆らったのだから、早死にして当然だくらいに思っていた。
「あこねえ、なにが、おかしいの」
小さい子どもは油断がならない。
「え?」
「さっきから、にやにやしてる」
「そうお? 温泉、楽しみだね」
「うん、たのしみ!」
あの辻で、衛は悪魔を待っていたのだろうか。そして出会えたのだろうか。出会えたとして、なにと引き換えに、衛は魂を売ったのか。「あっこよ、魂と引き換えになんでもくれてやると、悪魔に持ちかけられたなら、おまえならどうするよ」そう篤子に問いかけた衛の声が、まざまざと蘇る。あのとき、「兄ちゃんだったら、どうするの」とすかさず返せなかった自分が、つくづく悔やまれた。
あの十字路を、あなたたちのパパは、世界の中心と呼んでいた、といおうとして、自分でも思いも寄らぬ嘘が、口をついて出た。
「あの十字路にはね、ときどき幽霊が立つの」
幽霊、マジで、こわい、と子どもたちが騒ぎ出す。田舎のあんな辻には、悪魔が似つかわしいと衛は思っていて……といおうとして、
「あなたたちも、見るかもしれない。あ、立ってる……ってわかったら」
嘘は加速していく。
「全力で、逃げて!」
助手席の光唯の軀が、数センチ跳ね上がった。
「こわいはなし、やめて!」
「わかった、わかった。これで、おしまい」
「えー、もっと聞きたい」
李仁がいうのへ、
「ほんとうに?」
バックミラー越しに篤子の目と行き合って、いや……と中学生の男子らしく、すかして目を逸らした。
「あのう、なにかいわれは、あるんですか」
野慧の声は、消え入るように小さい。三人のなかで一番賢げで、それなのにというべきか、それゆえにというべきか、一番押し出しが弱い。オタっ子ちゃんになりつつあるのが悩みのタネで……とは、夕食時に漏れた奏衣の愚痴だった。
「いわれ? ああ、いわれね……。あそこに幽霊が立つ理由なんて、たぶん誰も知らないね。でも、名前ならある。わたしが子どものころから、大人たちはみんな、イク、と呼んでいた」
自分の嘘にすっかり呑まれながら、さもいまさら気がついたとでもいうように、ほんとうに本当のことを自分は初めて口にしているのだと、篤子は思っていた。思いながら、腰のあたりがにわかに冷えびえするのを感じた。
あなたたちの父親が、いまやイクになったのだとは、口が裂けてもいわれない。
濡れ縁のある仏間の硝子戸は、あいにく閉じられていた。
仏間の硝子戸どころか、家のあらゆる窓という窓が、閉め切られていた。暑がりの弓子は、一日じゅうクーラーに頼りきりで、網戸ばかりにして家内に風を招いて涼を取るという発想とは、いつからか無縁だった。もとよりクーラーぎらいだったはずの征郎にしても、弓子の生活スタイルに慣れて久しかった。
だから家内の音が、いっさい外に漏れ聞こえてこない。雨戸を閉てられなかったのは、せめてもの救いだった。仏間の明かりは落ちていた。敷居の襖が開け放たれて、仏間を隔てた食堂の様子が、庭からあからさまに見えた。濡れ縁の網戸には、大振りのショウリョウバッタが、取りついていた。
食卓の右端の、下座にあたる位置に、奏衣は座っていた。左の体側を、こちらへ晒している。両肩を内に巻いて、俯いたきりの姿勢は、先刻から微動だにしない。テーブルの下では、膝に置かれた両の手が、白のハンカチを固く握りしめ、ときおりこれを揉みしだいている。疼痛を忍ぶようにも見える。あるいは、ひっつめ髪の鬢のほつれが、規則正しく煽られるさまから、クーラーの冷気を正面からまともに浴びて、これにじっと堪えているとも、見えなくはなかった。
彼女の左斜め前に座るのが征郎で、右斜め前の、流しを背にして座るのが弓子だった。征郎の背中が近景としてあって、その大きな背中の陰に、対座する弓子が、見え隠れしていた。
肘を抱き、肩をいからせ、項垂れる征郎のうしろ姿は、絶望、忿怒、拒絶といった、いずれも負の感情をはらむかに見えた。それでいて、波間に漂う小舟のような身の揺すり方には、自説は金輪際内にとどめ、相手の意をよくよく反芻しながら、深いところで得心しようとする人の、鷹揚さがあった。明らかに分裂した背中だった。いっぽうの、見え隠れする弓子の顔にもまた、泣き笑いというほかない、矛盾した面相がしばしのあいだ張りついた。が、ほどなくして笑いのほうへ大きく舵を切ると、おもむろに椅子を引き、立ち上がり、奏衣の強張る肩へそっと手を添え、前屈みになりながら、なにをかを耳元に囁いて、その刹那、奏衣はたまらず両手で顔を覆って、堰を切ったように嗚咽し始めた。ほとんど同時に、征郎の背中もまた、緊張から解き放たれて、平生の彼には似つかわしくもない、芝居がかった両腕の広げ方をして(このわざとらしい身振りにこそ、悲しみの炸裂ぶりはうかがわれた)、やおら立ち上がり、嗚咽して震える奏衣を、弓子もろとも、その持て余した両腕に抱きかかえるようにした。
征郎が食器棚の高いところから、小豆色の堅牢そうな箱を取り出した。なかからお目見えしたのは、首のやけに長い、なで肩の洋酒の瓶だった。首に巻かれた金紙と、胴のラベルが眩く光を散らす。クリュッグのボトルだった。なにか祝い事のあるときに開けようと取ってあったもので、息子の不幸があり、長年そこにしまってあるのさえ忘れられていたのを、ふいに征郎は思い出したのである。恐縮する奏衣の手前に江戸切子のグラスが置かれ、弓子の手にも揃いで色違いのグラスが握られた。征郎がふたりに注いで、自分のは、翠の琉球ガラスの杯に注いだ。三つのグラスとも、学生時代の衛が旅先の土産として二親に贈ったものだったが、おそらく奏衣は、そのことを知らない。ささやかな乾杯のあと、グラスの縁が唇に触れるなり、たまらず弓子はわなないて、目尻を指先で押さえた。
征郎は立ったまま、杯を呷った。グラスを手にしたまま、食堂に背を向け、もう片方の手で仏間の壁をまさぐって、スイッチを探した。
天井灯がつくと同時に、眼前に明々と照らし出されたのは、仏壇前に飾られた精霊棚だった。仏壇の大戸も障子も開け放たれてあった。左右に笹を立て、その先を真菰の縄で結んで、祭りの火屋のようにホオズキの赤い実が、等間隔に渡されていた。縄の中央に吊るされてあるのは、十六ささげのひと房と茹で終えた一把の素麺。真菰の筵を敷いた棚の上には、白磁の皿がいくつか置かれ、小玉スイカ、ナス、トマト、モモ、アケビ等の季節の野菜や果物が盛られてある。あるいは、三角に積んだ素麺の乾麺の束、ナスとキュウリとカボチャを賽の目に切って水に浸し、蓮の葉にくるんだいわゆる水の子、ミソハギの花を浸した浄水などが、整然と並べられてあった。
毎夏、略式で済ましてきたのを、この夏の盆に限って、なぜか征郎は本式にするのにこだわった。眼前に露わになった精霊棚は、だから、なにもかも完璧な、往時の再現だった。
精霊棚の前に正座した征郎は、グラスを床に置くと、両脇の雪洞に明かりを燈した。居住まいをいまひとたび正すと、仏壇に向かって、そっと手を合わせる。
車の音を聞きつけて、奏衣は玄関の扉を開きに立った。征郎と弓子がそれに続いた。
「なんで、ママ、おんせんにこなかったの」
玄関先で、なじる光唯。
「おかげで、ぼくは、男湯にひとりだった」
李仁が尻馬に乗るのへ、
「なにゆうてんの、お母さん来たかて、お母さん女なんやから、結局あんたひとりで男湯は、変わらんやろが」
篤子がすかさずいい、大袈裟にしょげてみせる李仁を見て、征郎と弓子はハッとなり、思わず声を上げて笑った。こういう調子のいいところは、衛にそっくりだと、ふたりして思うのだった。
子どもたちは、それ以上奏衣を責めなかった。というのも、温泉施設からの帰りがけに大型スーパーで大量の花火を買い込んだもので、子どもたちの関心の大半を、それらが占めていたのだったから。
東京の子には珍しいのかもしれない打ち上げ花火を、篤子は銘々に買ってやったもので、子どもたちはさっそくそれを打ち上げたいと大人たちにせっついた。七人総出で庭に立ち、見物する。李仁が先陣を切って、点火棒を手に、両手にようやく収まる太さの筒の導火線に火を灯す。着火するや、火花と同時に青いような煙が濛々と上がり、李仁はにわかに恐慌して尻餅をついた。
「早く、離れて!」
そう叫んだのは野慧で、兄はいわれて立ち上がり、大童になって見物のほうへ駆け込んだ。この様子がまた、大人たちの笑いを誘う。火花と煙が一瞬やんだかと思うと、シュルシュルシュルシュル……と風を切り、煙を細く真っ直ぐに引きながら昇天するなにかがあって、ふたたび音の絶えた一瞬ののち、パンッと、これは、見物が想像したよりはるかに低い高さで破裂して、貧相な赤い花が散った。それでも子どもたちは大喜びで、跳んではしゃぐのだった。野慧は、そつなく青い花を束の間に開かせた。そして、光唯のときに椿事が出来する。
子どもたちの証言は、次の通りである。導火線に火が放たれてからすぐ、煙幕のなかへ、なにやら影がすうっと迷い込んだ。木の葉が落ちてきたとも思えたのは、火花のわずかな明かりを照り返して緑と見えたからで、しかし薄茶のセロハンの膜と、弛緩したように投げ出された肢とを伴うことから、バッタであるとは判じられ、筆のように太いのが、狙い澄ましたように打ち上げ花火の筒の側面に取りついて、羽を畳むなり、這い上るのではなく、後肢は地につけたまま、前肢を筒の縁にかけ、そのまま伸び上がり、勢い筒は傾いで、あっと叫ぶ暇もなく、シュルシュルシュルシュル……と風を切り、煙は緩やかな弧を描いて、屋敷林のほうへ吸い込まれていった。
バッタの仕業とは、大人たちにはとても信じられるものでなかったが、打ち上げ花火が屋敷林目がけて飛んでいったのは、紛れもなく本当だった。屋敷林すれすれに火薬が炸裂して黄色い花を咲かせると、一同は、夜闇よりなお濃く凝った林の樹影が、一瞬、墨汁の滲むかのようにして膨らむのを見た。膨らんだかと思うと、鳥や虫どもの騒擾する声がいっせいに湧き起こり、それこそ無数といいたいようなおびただしい小さな影が、樹影の輪郭が解けて粒子になって四散するように、飛び立った。騒擾が鎮まりかけると、今度は樹々の闇黒から、餅でもちぎるような塩梅で黒の塊が引き離れ、翼をゆっくりとはためかせながら、その首の長さから水鳥とは知れる大きな鳥の影が、七人の頭上を覆って飛び去った。
線香花火を〆に、庭の花火は仕舞いとなった。その昔、線香花火の煙を吸うと、その年の冬は風邪をひかないといわれたものだったと征郎が蘊蓄を披露すると、李仁と光唯がさっそく肺腑いっぱいに煙を吸い込んで激しく噎せ返り、馬鹿だ阿呆だと大人たちから失笑された。
濡れた花火の燃え屑はみな、ビニル袋に集められた。バケツの水は、縁側の横の水場に捨てられた。屋敷林のほうまで火の気のないことを確かめに回った征郎が、家内に入る最後の人間となった。玄関の扉が閉ざされてしばらくもしないで、夏の虫どもが、庭の方々で盛大に鳴き始めた。
食卓に置かれたなで肩のボトルを認めるなり、篤子が目を丸くし、口を尖らせてなにをか訴えている。ズルい、わたし、狙ってたのに、くらいの不平を垂れるものと見える。新しいグラスを手にした征郎が左手から現れて、おそらくは篤子を宥めながら、ボトルの残りを注いで差し出す。篤子は大事そうにそれを味わって、その口がたしかに、おいしい、と発した。仏間に明かりがついて、子どもたちがなだれ込んでくる。精霊棚の小玉スイカを指差して、あれが食いたいくらいのことを光唯あたりがいい募る。お明かしをつけに来た弓子は、悪戯っぽく微笑んで、立って食堂に引っ込むと、両手に大玉のスイカを妊婦の腹のように抱えて敷居から仏間を覗き込む。ふたたびの歓声。食卓の上座のほうへ子どもたちは回り、手伝おうと台所の流しに行きかかって制止させられた奏衣が、下座に座りつく。流しに立つのは弓子と篤子で、じき大吟醸の一升瓶を手にした征郎の背中に食堂の光景の大半が遮られ、海の蒼を切り取ったような長崎ビードロの盃をおそらくは四つ、食卓に置くと、一升瓶を傾けて、うちのひとつを奏衣に勧め、奏衣は一度は固辞するも、二度は断れない。
スイカの半月が配られて、これに各々が旺盛に食らいつく。と、タタタタタ……と古い家を震わせて仏間に上がり込んだのは誰あろう光唯で、濡れ縁へ通ずる硝子戸まで躊躇なく走り寄ると、両手で部屋内の光の反射を防ぎながら硝子に額をぴたりとつけて外を覗き込み、図らずも目が合って、「あっ」と、これは、そのような驚きの声を発した、幼な子の小さな口の丸い形ばかりが宙に数秒ぽっかり浮かんで、その間に光唯はあわてて食堂へ引き返し、でっかいバッタがいるとでも騒ぎ立てたものだろう、連れてこられた李仁にしても野慧にしても、網戸にとまっていたというお化けバッタをついに見ることかなわず、李仁にいたっては、硝子戸を開き、網戸を開いて、つっかけ履いて庭に降り、濡れ縁の下まであたり隈なく探すという執心ぶりを示したが、結局お化けバッタはどこにもおらぬとなって、嘘つきがまた始まったよと李仁と野慧は小さい妹を囃し立てた。