南京虫 6/7
日本の近現代文学に多少慣れ親しんだ者なら、その正体については曖昧であるにしても、南京虫の字面くらいは少なからず目にしているはずである。
横光利一だったか開高健だったか、異国の安宿に泊まった作中人物が南京虫に咬まれて閉口する場面を読んでいて、それにしても度々目にするこの南京虫とはいったいなんだろうと、インターネットのイの字も聞かないはるか昔のこと、家にあった古い辞書をひもといて調べた記憶が鹿野にははっきりとあった。その説明では要領を得なかった少年の鹿野は、駅の便所などでたまに見かける、クロゴキブリよりよほど小さいチャバネゴキブリのことだろうと、どういうわけか独り合点したものだった。
舶来物に「南京」を冠するのは江戸時代の習いだったらしく、その例として南京錠や南京豆などが挙げられる。かぼちゃをズバリ南京というのもその一例。だから南京虫の南京とは、積荷に紛れて渡来したからそう名づけられたまでで、中国の南京市にしてみればとんだ名誉毀損というわけだった。だから現在国内ではもっぱらトコジラミと称されるとは、スマホで詳細を調べながらの清田の弁。シラミといわれるに似つかわしく、先の尖った口器を刺して人の血を吸う。吸血されたあとは赤く腫れ上がり、激しい痒みが一週間ほど続くのだという。
清田に聞かされて、トコジラミ問題なるものが世間を、いや世界を賑わしているのを鹿野は初めて知った。欧州の、なかでもフランスのトコジラミ問題は深刻で、十世帯中一世帯以上がトコジラミの被害に遭っているらしく、政府を挙げてその対策に追われているという。原因としては、旅行者の爆発的な増加と、加えてトコジラミの殺虫剤に対する耐性が挙げられるという。
清田がいうには、市販の殺虫剤がまったく効かないのらしい。日本国内でも被害件数が増加しており、脅威の生態をめぐっては、テレビで散々特集が組まれてきたとのことだが、ここ最近の忙しさにかまけてすっかりテレビと縁遠くなった鹿野には、真新しい話題でしかなかった。
江戸時代、海外からの荷に紛れていたというからには、外来種なのか。それにしてもなんと醜悪な外見か。鹿野の美醜の物差しでいえば、目の前で蠢く煎餅色の昆虫こそは、醜の最長不倒を易々と更新する。大きさは五ミリ程度。一見して形状はその扁平さにおいてピーマンや唐辛子といったナス科の実の種のようであるが、色は赤みの際立つ飴色で、よく見ると節をなすものか、昔の湯たんぽのような横溝が腹に幾筋も入っている。とりわけいやらしいのは、これが硬いのか柔らかいのかわからないながら、羽がなく剥き身ゆえ、中央に収まる器官が黒々と透けて見えることだった。鼈甲色の足は六本あって昆虫類であるのは明らかだが、腹の大きさに比してあまりに細く短く、歩行はすこぶる覚束ない。黒キューブを覆う布の、あるかなきかの目地にも足を取られる始末である。
しかしおぞましさはおぞましさとして、さまで人間を脅かす害虫とも鹿野には思えなかった。同じ赤身のノミなどは、驚異的な跳躍力でもって逃れ拡散し、それで人の手を煩わすとは想像に難くない。人毛の生え際に食いこむシラミなどは、その小ささゆえの駆除のしにくさだろう。ノミやシラミに比べたら、トコジラミなんぞ他愛もないようである。目を背けたいのとずっと見ていたいののせめぎ合いに堪えながら、脇に妙な汗の滲むのもかまわず五分十分と飽かず観察を続ける鹿野の目と鼻の先にいて、右往左往する個体は稀で、大半はじっとしている。こんな無防備で、よくぞ今日まで生き伸びたものである。
名はトコジラミでも、分類上はシラミ目ではなくカメムシ目だと、スマホを繰りながら清田は続けた。カメムシといえば臭虫だが、ご多分に漏れずトコジラミもまた異臭を発する。カメムシにはサシガメと呼ばれる連中がいて、南米には吸血しつつ風土病をヒトに媒介する猛者もいるし、カメムシ自体がもう侮れない。元はコウモリを宿主としていたのが、ヒトの祖先が洞窟に住むようになったのを機に、ヒトを宿主に替えたという説が一般であるらしい。以来トコジラミはヒトと運命を共にし、もはや人家のなかでしか繁殖しないという。ここで鹿野が思い出すのは、郵政民営化のさい官製はがきの切手の図柄がトキからスズメに変更されたその事由だ。人里近くにしか生息しないスズメのように、人に寄り添う事業でありたいなどという高邁な思想が語られたと記憶するが、それをいうならトコジラミほどふさわしい生き物もないわけで、トコジラミを図案化した切手のグロさに思いを馳せるのだった。
彼らの食事が人血のみであって、その代替がいっさいないというのがまず気色悪い。人血は排泄されると血糞と呼ばれ赤黒いまだらなシミを作り、これが営巣地を特定するよすがになるというのが、さらに気色悪い。加えて、この一見すると脆弱に見える生き物が、一回の吸血で数ヶ月生き延びることができ、メスの成虫は吸血後五日程度で平均八個の卵を産み、半年に渡る生涯に二百個ほど産卵するという、その途方もない繁殖力の強さがもう、絶望的なまでに気色悪かった。
トコジラミの生態に関する説明をひととおりし終えた清田は、おもむろに立ち上がると、鹿野がすっかり持て余したキューブのなかをのぞきこみ、ははーんといったきり、したり顔して頷いた。
「どうしたの」
トコジラミ講義を聴くばかりですっかり憔悴しきった鹿野が不安げに訊くと、
「白いというか、半透明のさ、羽蟻の羽のようにペラペラしたのが、内に満遍なく散ってるでしょう。それ、どうやら卵のようだよ」
さも面白そうに清田はいうのだった。
殺虫剤が効かないならどうするとなって、熱に弱いとあるのを恃みに、さっそく給湯器の温度設定を五十度にし、濛々と烟るシャワー室でキューブについた虫と卵とを洗い流した。無数の死骸が排水口に吸われていくさまは胸のすく光景ではあったが、キューブはすっかり水浸しになって、今度はそれを持て余す。
鹿野には咬まれた症状もなければ痕跡もなかった。鹿野よりも事務所で宿泊することの多い清野も同じだった。念のため裸になって、背中を中心に互いにたしかめ合う。二人ともおそらくネガティブ。となると、トコジラミの食い扶持となっているのは一人しかいない。ともあれ、いまは確かめようもないことで、それよりなにより喫緊なのは、ほかに虫どもの繁殖場所がないかを探ることだった。というわけで、鹿野と清田は各々のテリトリーに使用している二十個からのキューブをすべて床に平置きにすると、片っ端から蓋を開いて隈なく調べていった。やがてこれでは埒が明かないとなって、いったん作業をやめ、近くのホームセンターに出向き、六十リットルのビニール袋を百枚と、噴霧器三個と、キッチンハイターと、木酢液と、ニンニクに唐辛子に薄荷液と樟脳と、そして二人同時にディスプレイの前で思いついて、ケルヒャーの最新のスチームクリーナーを買いこんだ。
取り敢えず鹿野と清田の黒キューブは、中身をいったんビニール袋に空け、虫が逃げないよう、口を固く結んだ。中身をすべて移し終えると、シャワー室にキューブを一つずつ据え、必殺ケルヒャーで百度近い蒸気を隅々まで噴霧した。ケルヒャー作戦は二人の図にあたって、確実に者どもを殺傷し得る上、キューブの布の濡れも最低限に抑えられた。
しかしこれを都合六十三個のキューブすべてにやろうというのだから、それはそれで途方もない作業なのだった。じじつ、最初に鹿野が異変に気づいたのが昼近い午前のことで、少なくとも鹿野は食欲など失せていたから昼飯など思いも寄らず(清田にはケルヒャー片手にアンパンを齧る図太さがあった)、いつのまにか日は暮れていた。高熱蒸気による駆除が終わると、まずはハイターを水で薄めて次亜塩素酸系の殺虫剤をこさえてみるが、これは御方方をご他界させる能力ありとはわかっても、布に触れればたちまちこれを脱色せしめ、シミをなすので室内には撒けないとなった。それではと、水で薄めた木酢液をタンクに入れ、これをカーペットの上を逃げ惑う一匹をとらまえて噴霧してやると、じきに腹を見せてくたばるかに見えた。よしこれはいけるとなって、さらにニンニクと唐辛子と薄荷液と樟脳とを混ぜようといいだしたのは清田だった。故郷では害獣の忌避剤としてよく調合されたもので、祖父母の家の屋根裏にハクビシンが巣食ったさいにもこれを撒いて効果覿面だったと清田は自信満々にいった。ハクビシンと南京様ではだいぶ事情が違うんじゃないかと鹿野は思ったが、この頃の清田の提案には有無をいわさぬ説得力があった。手製の駆除剤が出来上がると、これを部屋じゅうに撒くと清田は主張する。匂いはいうまでもなく凄まじいものがあった。山火事直後の山中に入りこんだような匂いがするのは木酢液がためであり、ニンニク薄荷樟脳の匂いはいうに及ばず、唐辛子の臭気にいたってはひとたび眼球鼻腔口蓋気管肺腑に触れればたちどころにこれを爛れさせ、地獄に大気があるとすればこんなだと思わせる。だから鹿野はこれを「ジゴク」と呼んで、室内での散布に猛反対した。すると清田は鹿野を手招いて、自分の膝元をのぞくよう合図した。恐るおそるいざり寄って鹿野がのぞきこむと、のぞきこんだ先で清田はジゴクをひと吹き噴射した。なにしくさると激昂してハンカチで口元覆うのも束の間、タイルカーペットの目地から溢れかえるようにして南京様らは湧き出して、あたふたと逃げ惑うさまはよくよく見ると愛らしい……ってまさかまさか、絶対、断然、穢らわしいの一語でしかない。
清田と駅前のファミレスで食事をしているところへ、赤崎からLINEが来た。
《いまどこ?》
《ファミレスで夕飯。清田もいっしょ》
《ボヤでも出したか。事務所がやけに焦げ臭いんですけど。喉とか目とかヒリヒリするし》
《あ、それ、ジゴク。もとい木酢液。事情は帰ってから話す》
《おまえらのキューブとビニール袋で足の踏み場もないし。室の明かりもつけっぱなしだし。》
《それも同じ事情。奴らは明かりが嫌いなんで》
《奴ら?》
《あとで紹介する》
早々に鹿野と清田が事務所に戻ると、赤崎は部屋着のスウェットにとうに着替え終え、キューブでこしらえた縄張りの内側で酒缶を開けてすっかり赤くなってくつろいでいた。営業に行くとはいい条、その成果は捗々しいとも聞かないし、この頃では女のところへ通うのではと鹿野は疑っている。入浴後のサッパリ感をまとっているが、髪の濡れ具合からして事務所のシャワーを使ったのでないとは容易にわかる。女の家のそれか、ラブホのそれか。ただし赤崎の場合、ボルダリング後のシャワーの可能性もある。暇さえあれば、いまでもジムへ一時間二時間と汗を流しにいく。会社が軌道に乗ったら、まずは槍ヶ岳の壁に単独で挑むと、酔えばしきりと宣言する赤崎だった。
「なにかあったの?」
キューブのベッドから首だけ上げて怪訝そうに問う赤崎だったが、鹿野も清田も聞いちゃいないから返事もしない。彼らの関心はもっぱら赤崎の軀の露出部分にあって、灰色の上下のスウェットはあいにく冬物で、見えるのは足首から先と手首から先、そして首から上に限られた。それでも首のうしろにやや濃い赤みが差すのを鹿野は目ざとく見つける。発疹の存在を仄めかすよう。清田にもそう見えただろう。
「最近軀に異変は?」鹿野が訊いた。
「そうさなあ、日本に帰ってきてから、少し広背筋がデカくなったかもな。トレーニングに懸垂を取り入れるようになったから」
「発疹ができて痒いとか、ないの?」清田がストレートに訊く。
「いや、ないね。なんで?」
「アカちゃんの背中を見てみたいのさ。その自慢の広背筋とやらを!」鹿野が軌道修正する。
「なに、おまえらもついに筋トレに目覚めるときが来たってわけか。いいでしょう、いいでしょう。ちょうどボルダリングのあとだから、筋肉はどこもパンパンよ。自重トレーニングのみで培われたこの肉体美、とくとご覧あれい!」
いって背中を向けた赤崎が諸肌を脱いだ刹那、鹿野と清田は口をそろえて「ギャッ!」と叫んで文字通りうしろざまにのけぞった。背中についた筋肉の迫力に二人して気圧されたものと勘違いした赤崎は、しばらくはボディビルダーよろしく数種のポーズを決めて独り悦に入っていたが、いくらなんでもその後の沈黙が長過ぎると勘づいたらしく、
「ん? どーした? なんだ? なんなんだ?」
「ほんとうに、背中、なんともないの?」
清田が震え声で訊く。
「なにが?」
赤崎がみるみる機嫌を損ねていくのが声音で判じられた。
「痒くないわけ? 痛くないわけ?」
「ぜんぜん。なんで?」
鹿野はスマホを取り出すと、赤崎の背中を撮ってその写真を見せてやった。それを見るなり赤崎は、ゲっといったきり右手で口を押さえ、写真を凝視したまましばらく凍りついてしまった。
鹿野は赤崎に「蟲」を見つけた経緯から、キューブを一つひとつスチーム洗浄して「ジゴク」の調合を完成するに至るまでを、ざっと話して聞かせた。残るは赤崎の持ち物とキューブの洗浄だが、直接事情を話して許可を得ようと君を待っていたら、こんな時間になってしまった。
時刻は十時を回っていた。
「まさか、いまからやるつもり?」赤崎が目を剥いた。
「もちろん」鹿野は即答する。
「いやいや勘弁してよ。俺、疲れてるしさ、明日も早いしさ。明日も俺、外を回ってくるからさ、そのあいだにやっておいてよ」
「でも、今夜はどうするの? 寝る場所は?」
「いつも通りここで寝るけど」
「マジで? ここ、蟲がいるんだぜ。しかも君、したたかに咬まれてんだぜ。それなのに平気なの?」
「ぜんぜん。これまで気がつかなかったんだから、今更でしょうが。蟲に食われたくらいでジタバタするような器じゃないのよ、俺は」
鹿野も清田もその夜は事務所に泊まらず、自宅に帰る選択をした。鹿野にとっては一週間ぶりの帰宅となった。連絡することで寝ている妻を起こしてしまうのは忍びないが、予告なく帰宅して驚かすのも本意ではない。一応LINEで「今夜は帰ります」とだけ入れ、帰路についた。家の近くのコンビニで、妻子の数ぶんのシュークリームを買った。家まであと数分というところで、驟雨に見舞われた。
玄関の軒先に、明かりが灯っていた。スマホを見ると、妻に送ったLINEに既読がついているが、返信はない。妻も子もとうに寝入った時刻だが、食卓を見ると、鹿野の定位置にラップをかけた夕餉が準備されてあった。
急に蟲のことが思い出された鹿野は、人知れずまた怖気を振るった。この平穏無事の家に、あの穢らわしい悪魔を招じ入れるなど金輪際あってはならぬと、たちまち総毛立つ。玄関の革靴をば外に出すと、台所の棚からゴミ袋を引っ張り出して風呂場へ駆けこみ、着衣のすべてと鞄とをビニル袋のなかへ投じて、その口を固く結んだ。
素っ裸で奮闘しているところへ、小一になる下の娘が、寝ぼけまなこをこすりこすりしながら、「パパ、おかえり」としなだれかかるような声でいって出迎えた。
翌日。
鹿野より先に清田が出社していた。清田が出社したときにはもう赤崎の姿はなかった。いまは八時前。鹿野と清田のキューブはすべて壁際に片寄せて積み上げてあり、赤崎のは一つひとつビニル袋に丸ごと包んで、床一面に平置きされてあった。赤崎キューブは四十二個に上った。清田はビニル手袋をはめた手で、キューブの中身を外へ、といってもビニル袋の内ではあるが、慎重に移し替えていく。
「僕、こっちやってるから。リソのほうお願い」
行きの電車のなかで鹿野はメールチェックはもとより、注文に対する返信も終えていた。相変わらず印刷と折りのみの小口の注文だが、一日三件はいまごろの反応としては悪くなかった。リソを回してから三千部を自動紙折機にかけて巻き三つ折りにし、結束機で五百ずつの束にして段ボールに詰める。これを三ターンするわけだが、合間あいまに清田を手伝って、案の定、赤崎のキューブが蟲どもの巣窟であるのをまざまざと見た。蟲の巣喰わぬキューブは一つとしてなく、まさに赤崎はみずからの軀を張って彼らを養っていたといっても過言ではなかった。にしても、背中一面が湿疹の星座群のようになりながら、さまで無自覚でいられるとはあり得ることなのか。赤崎は香港時代、アパートに住んだのはほんの数ヶ月で、あとはもっぱらホテル暮らしだったと打ち明けたことがあった。掃除から洗濯からすべて請け負ってくれるし、香港の住宅事情からするとそれで経費はトントンなのだから賃貸なんて馬鹿馬鹿しいと持論を展開した。そのことを当時は特に気にも留めなかった二人だが、昨日今日出来したトコジラミ騒動が、彼の香港における生活スタイルと無関係どころでないのはいまや明らかだった。なるほど、耐性か。蟲が薬剤に耐性を得るなら、ヒトが蟲の毒に耐性を得るのも道理だろう。そう、トコジラミは人間のある種のいやらしさをミラーリングするような存在なのであって、そのことが鹿野の神経を脅かす最大の原因なのかもしれなかった。
夕方までに赤崎のキューブの洗浄はひととおり終えた。ビニル袋のなかへはジゴクを噴霧する。するとじき袋の底で蟲どもがのたうち回った。赤崎の山の装備一式も同様に洗浄された。そして残る最後の牙城は、赤崎の持ちこんだ銀色のトランクのみ。これを開けようとして、ナンバーキーのあるのを見落としていたとは、鹿野も清田も迂闊だった。
トランクの暗証番号を教えるよう鹿野が赤崎にLINEすると、言下に拒絶された。それは銀行口座の暗証番号やスマホの暗証番号を教えろといっているのと同じだと、鹿野の不見識を激しく詰った。それでは今夜、君にトランクを開けてもらい、君の立ち会いのもと、しかるべく駆除にあたると書き送ると、それも断固拒否すると来た。完全に臍を曲げた格好だった。
《なぜ?》
《なぜでもだ。誰だって自分のプライバシーを守る権利はある》
《プライバシーを侵すつもりはないよ。君がすべてやってくれればそれに越したことはない》
《だからさ、初めから完全に俺を犯人扱いじゃねえか。それが気に入らねえのよ。トランクなんて、密閉されてるわけだろ? どこにシラミが入る余地があんのよ》
《犯人扱いなんてしてないって。いまやるべきことは、心当たりの箇所は全部当たって、駆除できるものは駆除するってことだろ? それでも卵を持ったやつを一匹でも見逃せば、一ヶ月後には百匹二百匹になるんだから》
《開けたくない》
《だから、なんで》
赤崎いわく、数ヶ月前からの下着やらなにやらの汚れ物が洗濯しそびれたまま突っこんである、匂いとかそんなんもあるし、自分で開けて処理するのがもうしんどい、なんならトランクごと捨ててしまいたいとかねてから思っているのだと。そんなことかと鹿野は笑ったが、ただ、たしかにそう聞かされたあとでは、暗証番号を教えられても、ちょっと開けかねるかもとは思わざるを得なかった。トコジラミの総本山を拝むだけでは足らず、野郎の汚れ物の山をも拝まなければならないとなれば、こいつは思案のしどころだった。なんだか急に忿懣こみあげて、それならそれで明日にでもどこぞへ捨てに行けよと書きつけて、鹿野はスマホをわきへ放った。
ほとんど同時に、さっきからトランクの前に屈んでナンバーキーをいじくっていた清田がぼそっといった。
「開いちゃったよ」
「え?」
YouTubeの動画を見て、見よう見まねでごちゃごちゃやってたら、それらしい感触をつかんでできてしまったと清田はいった。みずからしでかしたことにみずからおののいていた。
「どうしよう」
「百万積まれたって見たくないものがなかにはある。やめようぜ」
「でも」
蟲がそこにうじゃうじゃいるのに放っておくのかと清田が目で訴える。そんな職場で気持ちよく働けないのは鹿野にしても同じだ。いっそ俺らで捨ててくるかとも思う。
「なにが入ってるんだろう」
清田が独り言のようにいった。
「二ヶ月分の洗濯物だとよ。オッサンの汚れた下着の山なんか、誰が好き好んで見たがるよ」
「衣類だけだって?」
「奴がいうにはね」
「いや、そんなはずはない。これ、ものすごく重いもの」
いわれて鹿野が持ち上げてみると、たしかに衣類ばかりを詰めたトランクの重さではなかった。なぜだがその瞬間、背中に鳥肌が立った。
「え、なに?」
「まさか、バラバラ死体とか?」
「え、まさか、そしたら匂いとか、すごいでしょうよ」
いうハナから二人して錠の部分に鼻を寄せてくんくん嗅いでみる。
「やっぱ開けよう」鹿野がいった。
「バラバラ死体だったら」
「当面は俺たちも共犯扱いでブタ箱に入れられる」
「そんなのイヤだな」
「これをいまから捨てにいくこともちょっと考えたが、それはそれで別の犯罪を構成することになる。もっと面倒なことになるだろうな」
「つまり、ほかに選択肢はないわけだね」
「そうなるね」
清田は深く息を吐くと、両手でトランクの留め具を解除した。そして恐るおそる蓋を開いた。
彼らがそこに見たものは、真空パックされたバラバラ死体でもなければ、異臭を放つオッサンの二ヶ月分の洗い物でもなかった。未開封の新品のワイシャツが梱包材のように詰めこまれたその上に、富士通のノートパソコンとMacBookが無造作に重ねられてあった。
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