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水顔

1

 天井に楕円の水影が映る。

 水影とは、戸外に置かれたバケツに張られた水の面が陽光を反射して作る、光と影の綾。
 それが、わずかな空気の動きに反応して、絶えず蠢く。右から縮緬皺が寄って幾重もの線が並行に走るかと思えば、たちまち均衡は崩れて斜め左上から細かい波が侵食し、一面魚の鱗模様に覆われ、それもまた雲散霧消すると束の間の鏡面状態を得、これも破れて今度は八方から波紋が走って中央に八芒星を作るや、たちまち八方へ逃れ去る。

 かように綾模様は目まぐるしく変化する。しかし見る者によっては、そこに規則性があると主張する。風の便りとも、水の便りとも、光の便りとも呼んで、人語に翻訳し、ノートに書きつける。そうなると結末は剣呑で、数冊のノートを残して早晩狂うのが大概。ノートの中身を見た者は、例外なく戦慄するという、その意味不明ぶりにおいて。


2

 Nは二年前に離婚した。
 子は小学生の男女が一人ずつあったが、二人とも元妻が引き取った。ハタから見てもNには相当理不尽な離婚劇で、その後の彼の行く末を誰もが危ぶんだ。じっさい、Nは誰にも知らさぬまま職を辞し、行方をくらました。一年のうちは、もしやという思いがふと首をもたげて、しばらくなにも手がつかなくなるなんてことが男にも幾度かあったが、年が明けると、嘘のように杞憂の波は引き、Nもどこぞで元気にやってるのだろうと楽観するばかりになった。おそらく男は、自分では認めたがらないながら、罪悪感とやらにさいなまれていたにちがいなかった。友を救えなかったという罪悪感。いや、それは欺瞞というものだったろう。破滅の階梯を下る友の背中を見送りながら、内心ぞわぞわしたものを感じていたのを、男は否定し得ないのだから。罪悪感を抱くとしたら、そのことでなければならなかった。

 登録にないメールアドレスからふいに連絡があり、長の音信不通をNは詫びていた。……いまはS県にある海辺の町で暮らしております。もちろん(とは?笑)独り身ですよ。今度よかったら避暑がてら遊びにいらしてはどうです。一人で堪能するにはもったいないような自然に囲まれて、ちょっとぼくなんか、持て余し気味なんですよ。食べ物も酒もなにもかもうまいです。東京者のあなたは魚のほんとうの味を知らないでしょう。これは断言できる。ぜひホンモノをご賞味あれ。もちろんご家族で、気兼ねなく、遊びにいらしてください。廃屋同然のリゾートマンションの最上階にて優雅に暮らしておるのですよ。部屋数は自分の寝室と居間と食堂を除いてもさらに四部屋ある。そりゃ、持て余すよってね(笑)。

 韜晦の仕方といい、諧謔のあり方といい、ちょっと別人かと訝られるような文面に、男は正直面食らわずにはいられなかった。Nはお堅い人物としてもっぱら知られていた。


3

 八月も半ばを過ぎていた。
 盆休みが始まってすぐ、とうとう男はS県にある海浜のリゾート地を訪れた。もちろん一人で。Nからはその後三度催促のメールがあった。自宅に招くのが必ずしも社交辞令でないとわかると、男はやるせないというか、つくづく気が重かった。最初の返信で「機会があればぜひ」などと心にもないことを書き送ったのがそもそもの間違いだった。春休みにはきっと、五月の連休にはきっと、……と繰り越すうちに、いよいよ苦しくなった。Nがときならぬ躁状態を得ているようなのも、遠慮願いたいと思ういっぽうで、無性に気がかりではあるのだった。

 男はなんなら日帰りのつもりで未明のうちに発った。正午前に着く予定が、半島の輪郭をなぞるようにして通る渋滞しがちな海沿いの道を避け、山間部を横断する道を取ったのがいけなかった。車数はまばらでも、九十九折りの一車線を法定速度を大幅に超えて走る地元ナンバーの車が前から後ろから迫りきて、街乗りばかりに慣れた男は始終肝を冷やしっぱなしだった。何度引っ込みに停車して車をやり過ごしたか知れなかった。ようやく樹々の影が車道から後退して、下りの緩勾配になりはじめたころには日は傾きかかり、眼下に霞む盆のような海と、白化した環礁か砂漠に散る骨片を思わせる町なみが近づくにつれ、目を細めずにはいられないほどのまぶしさを感じた。
 海沿いの道をゆるゆると車を走らせながら、なにもかもが白いうちに、海に面して立つ高層のホテルなりリゾートマンションなりの大半が文字通りの廃屋であるのを、男は認めざるを得なかった。一階部分が居抜きなのは早々に商売を引き上げた店舗で、スケルトンなのは中途で出店自体が頓挫したものと男は推測した。中途で頓挫するどころか、ビル自体が完成を見ぬまま打ち捨てられたようなのも少なくない。かたや海はといえば、波は穏やかで、延々と続く白浜はたっぷりとして、清潔で、美しかった。しかしそこに遊ぶ人数ひとかずも、海沿いの散歩道を歩く人数も、じつにまばらだった。前触れもなく見捨てられた町。赫灼たる陽を浴びながら早晩干からびて砂塵に帰すと、塩辛い風に遠く拉されて永遠とわに潰え去る。
 男は頭上の蒼穹が瞬時に裏返るような具合で、前から後ろへ、後ろから前へ、右から左へ、左から右へと、波紋の影が目まぐるしく走るのを見たように思った。それはめらめらと、あるいはゆらゆらと、揺らぎをやめぬまま舞い降りて、遥か沖の水平線のきわに幻の白亜の町を浮かび上がらせる。幻の町にやがて紅蓮の炎は放たれるだろう。男は、男の白のセダンが幻の町を矢のように駆け抜けるのを見たように思った。


4

「あれは、ある種の言葉なんです」
 Nは穏やかにいった。いいながら、また天井に映る楕円の水影の絶え間ない揺らぎを眺め、悦に入るようであった。
「そう、もっといえばメッセージなんです。ご覧なさい、いかにも読み解きを誘ってくる変幻自在ぶりではありませんか」

 いまのこのNに接して、吹っ切れたようだとか、大悟したようだとか、肯定的な印象を口にする者も少なからずいることだろう。しかし穏やかさなど所詮は表層であって、男には先刻からどうにも引っ掛かるものがあった。なにとは名指しし得ないもどかしさがまた、違和感を増幅するのでもある。まずNの話ぶりが男の気に入らなかった。自身のある種の倒錯について、語る明け透けさそれ自体は好ましいものにちがいなかったが、Nが自分に胸襟を開いて話しているわけではないことくらい、男にも易々と直感された。Nは問わず語りにあらゆることを赤裸々に語った。滔々と語った。しかし男の理解を求めてNがことば数を費やしているわけでないのは明らかだった。だとすれば、Nは誰に向けて語っているのか。それは告白なのかもしれず、あるいは糾弾なのかもしれなかった。いや、自分が引っ掛かるのは、単に彼の語りの通奏低音のようにしてある、どこか開き直ったふうな態度だ。……そう男は内心でつぶやく。そして人はそれをしも狂気と呼ぶのかもしれないなどと、男はふと思わないではなかった。

「……それらのメッセージをぼくなりに言語化しましてね、ノートに書きつけていくうち、あるとき重大な発見をしたんですよ」
 天井を見上げるNの両目がとたんに見開かれ、大袈裟な……と思われるような首肯をゆっくりと二度繰り返すと、かすかに痙攣するかに見えてやおら男のほうへ向き直り、いまのを見たかと目顔だけで訊いてくる。

 夕刻の日は、海原の西の端を区切る半島の、緑濃い丘の遥か頭上にいまだ燻っていた。南向きのバルコニーに差し込む陽光のほんの一部が、そこに置かれたバケツの水面に反射して、その反射光がカーテンの開け放たれた硝子戸を透かして部屋の天井に楕円の水影を作る。絶えず揺らぎをやめない、光と影とが織りなすときならぬ符牒めいた綾模様が、恩寵のようにしてそこに現出する。それを日がな一日眺め、メッセージなるものを読み取り、それを人語に翻訳して紙に書きつけるというのだから、剣呑も剣呑なのだった。そもそもなにがきっかけでそんなことを始めたのか。そして誰からのどんなメッセージが届けられるというのか。

「見ませんでしたか。いまほど今日はっきり現れたことはありませんでしたが。見なかったとは残念です。今日また見られるかどうか」
「なにが見えたというの」
「顔です」
 Nはこともなげにいった。
「さっき見えた顔は、明らかにあなたに笑いかけていました。どうやら顔は、あなたを気に入った模様です。よかった。ほんとに、よかった」
「どんな顔」
「果てしなく柔和な、無限に優しい顔です。あんな顔、ぼくはいままでに見たことがないな。想像したことすらない。思うに、あれは、死者の顔なんです。死をくぐってこその慈悲深さとでもいいたいものが、あの顔には刻印されている」
「誰の顔なの」
「そりゃ、大切な人の」
 男は咄嗟にNの別れた細君と二人の子どもを思い浮かべていた。そしてあらぬことを想像して戦慄した。それをしもすぐに察したらしいNは、嘲るような笑いを浮かべて(そしてそのときほどNの本心が垣間見えた瞬間もなかった)、いった。
「なるほど。そういう物語もあり得るわけですね。みずから手にかけた妻子の御霊が、水影となって夫を慰めにくる。赦しにくると。いや、そのように殺人者の夫が勝手な妄想をしていると。それはそれでなかなか素敵にグロテスクな、狂いの人が一人できあがる」
 天井に映る水影は、日の高度の加減で徐々に部屋の奥へと移動し、楕円の形状についてもいつか縦に長く伸びていた。凪の刻限だったのかもしれず、窓外の葉叢はそよとも動かないのに、バケツの水面は絶えず攪拌される空気の動きを忠実に伝え、さらにそれを光が精密になぞった。水影の揺らぎ/蠢きは、命あるものの鼓動を連想させるし、日がな一日とはさすがにいかないまでも、しばし眺めて陶然とすることくらいには同情の余地がある。しばらく無言のうちに天井を眺めて放心するようなNは、そのまま会話の接ぎ穂を見失うのかと思いきや、
「しかしそれはぼくの好きな物語とはちょっとちがう」
 そうきたもので、まったく油断がならないのだった。男は男で、顔らしきものをとらえられるかもしれないとの期待から、Nと視線の先を同じくして水影の変幻自在ぶりを注意深く観察する。ながら、Nの語りの先を念じてうながすのでもある。
「……天井に映る水影は、要するにこの世とあの世を結ぶ、ときならぬ窓なのです。そしてここは筋金入りの事故物件。かつて凄惨な殺人事件の舞台だった。未明に黙々と侵入者は刃物を振り下ろし、その都度被害者はあらん限りの声を上げて抵抗し、やがて静まって、あとはざっくざっくと刻む音ばかり、弧を描く血の雨と、時折引き摺り出される肉片の宙を舞って天井に張り付く。元々この土地は中世からの刑場だったのですよ。もっぱら火炙りが行われた。だからね、この世の未練があの世から顔を誘う。あの窓からこちらを覗かせる。覗く顔は、いずれも断末魔の苦しみから解放されて、すっかり洗われたよう。殺した者も、殺された者も、地獄なんてございません、あるのは浄土ばかり、なにもかも浄化されて、赤ん坊のほっぺたのようになるのです。それでも未練は残る。残る者がある。この世を覗く顔は、だから果てしなく柔和で、無限に優しい。懐かしいから。この世がとても懐かしいから。ぼくだって、すでにして懐かしいのですよ。窓から顔を覗かせて、よかった、そう思う。わたしは、ぼくは、かつてここにいた、そう思ってなにもかもが愛おしくなる。そうするとね、きっと連れていきたくなるんじゃないのかな、顔を見た者をね」


5

 男は結局Nの家に一泊した。
 昨夜は瓶ビールを一本空けたばかりだった。飲めないNは、グラスに半分注がれたのを、付き合いで一口舐める程度だった。彼の自慢した魚の刺身は、どれもいうだけのことはあって、魚本来の味と香りが堪能された。素直にうまかった。惜しむらくは、それにふさわしい器に盛られなかったことくらい。

 たださえ深い眠りを得難い年齢である上に、ところ変わっては容易に眠れぬ性質の男が、黴臭い寝具にくるまるなりすうっと寝ついて、一度も寝覚めをせぬまま朝の訪いとともに軽々と目覚めたというのは、僥倖というより妙だった。ミレイの『オフィーリア』が男の念頭に浮かんでいた。
 こんなにも深い眠りを得たことは、久しくなかった。この明澄感を持ってすれば、あらゆる難事を解決できそうだ。そう感謝しようとして、男はしばし耳を澄まし、部屋内にひと気の絶えているのを察する。Nは出かけたのか。はたして彼の居室の寝台には、かすかな寝乱れの跡すら見えなかった。居間に足を踏み入れるなり、男は己の迂闊さを呪った。
 バルコニーに通ずる硝子戸のカーテンは、すっかり左右に開け放たれていた。おそらくは昨日のままだったろう。バルコニーに人影は見えないが、視界の下半分が居間のテーブルに遮られているから、安心はできない。男はテーブルの向こうへ回り込もうとして、あっと小さく声を上げた。
 バルコニーにNがいる。
 こちら向きに両膝をついて、いましも五体投地でもするかのような姿勢のまま微動だにしなかった。両手はバケツの縁をしっかりとつかみ、顔はそのなかへ、おそらくは水にすっかり浸かって、しんと静まり返っている。もう何時間とそうなのだろうと、男には得心された。
 ガラス戸を開ける。空気はそよとも動かず、すでにして戸外は夏の暑気に蒸れ始めていた。おそらくは朝凪だったろう。
 振り返った男は、部屋の天井に水影の映るのを見た。風もないのに水面は揺れ、その揺れに乗じて光は戯れて、意味ありげな紋様を絶え間なく繰り広げる。それでも次第に一つの形に収斂して、遅ればせながら男も気づくのだ。
 顔だ。
 果てしもなく柔和で、無限に優しい。
 ほかでもないNの。
 さて、面倒なことになったと男が思案に暮れていると、水影はいつか天井に吸われるようにして跡形もなくなった。


……ああ、父さんだ。母さんは。そう。ひとり留守番か。えらいな。父さんね、いまから帰るから。夕方には着く予定。うん。土産を買ってく。うん。じゃあ、留守番頼んだよ。うん。それじゃ、またね。









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