四方山話
今日はテーマのない投稿です。
胸の中の思いを言葉にすることで、自分をなだめる、あるいは自分の気持ちを確認できるだろうかという試みです。
後半はネガティブかつプライベートな内容を含むため、最初一部有料にしましたが、やっぱり素の根暗な私も公開してしまおうと考え直しました。
全文で7,000字を超えますが、後半はブラックマネキネコがぼやいているだけです。
自分の心を開放するためだけの文章であり、有益な情報はありません。
ご了承いただければ幸いです。
◎猫さま 久しぶりの留守番への意思表示
GWに娘が来て、日ごろの猫さま不足を解消すべくベタベタ過ごした一泊二日。
普段の猫さまはわりとクールな表情が多いのですが、この時、普段では見られない遠い目をした猫さまの表情をととらえました。
嫌いな抱っこをされ、視線をどこに合わせていいかわからない、途方に暮れたような表情がたまりません♡
しかも片手を前に伸ばす姿が独特で笑いを誘います。
娘が写り込んでいるので全体像は控えますが、この後さすが軟体動物猫さま!といえるような見事な下半身ひねりを披露し、娘を蹴り飛ばしました。笑
抱っこ嫌いな猫さま、この後しばらく人間から距離をとりました。
GW開けの5月8日、私の初出勤日。
帰宅して、猫さま部屋(リビング)のラグを歩くと親指に何か柔らかいものを踏んだような感触がしました。
足元を見ると、茶色とベージュをベースにしたラグの上に何かある!
保護色で気づきませんでした!
はい、立派な一本ものでした。(^_^;)
なにかやらかすだろうとは思っていましたが、予想を超えた戦略でした。
猫さま、ごめんね。寂しかったんだね。
猫さまが何をしようと怒る気にはなれないのが、下僕という生き物です。
だって猫さまがなにかやらかすのには、必ず原因があり、そしてそれは下僕の責任なのですから。
◎介護問題(介護記録)
◆かかりつけ医への通院
父の入院以降、姉妹で話し合って両親のお金の管理は、近所に住んでいる私が行うことになりました。
来週は母が認知症の治療のための病院への通院があります。
病院へは妹夫婦が車で連れて行ってくれるのですが、保険証や診察券、支払いのための現金は私が管理しているため、週末に実家において来ようと思っていました。
しかし天気予報では土曜日から雨の予報だったので、昨日帰宅後に生活費と一緒に持っていくことにしました。
新聞屋さんや、定期購入しているヤクルトなどの支払いもあるというので、千円札に両替した生活費と一緒に、母の病院セットを実家に届けました。
時間は午後5時を少し過ぎたところで、かかりつけの病院でもらっている薬がなくなり病院にいきたいといいます。
これを聞いて、薬の管理がちゃんとできているんだなと思い、少し安心しました。
病院は午後6時までやっています。
明日は雨だから今日中に行った方がいいと、連れていくことにしました。
この日の母は割としっかりしていて、会話も普通にできていました。
火曜日にデイサービスに行ったことがよかったのかもしれません。
徒歩5分くらいの病院まで15分くらいかけてゆっくり歩く道すがら、デイサービスの話を聞きました。
ちゃんと忘れずに自分で支度をして、初回では参加しなかったゲームにも参加して楽しかったと話していました。
友達もできたようで、さすが社交的な母だなと思いました。
食事もおやつも美味しいし、お風呂も一人につき一人の介助者がついてくれるので安心だと言っていました。
週2回くらい行きたいようでした。
病院に着くと、その時間帯にしては混んでいて驚きました。
受付で診察券をだすと簡単な症状を聞かれるので、耳の遠い母に代わり対応し、待合室の椅子に座らせると「もう帰っていいよ」と言います。
この日はしっかりしていたので私は家に帰り、帰宅したころを見計らって電話を入れ、無事に帰宅したことを確認しました。
保険証とお薬手帳を、来週の病院セットに戻すように伝えて電話を切りました。
◆専門家との連携
5月6日に司法書士さんに両親の施設探しを依頼して1週間。
たった数日の間に、司法書士さんは母のケアマネHさん、父の入院先のケースワーカーCさんと連絡を取ってくださいました。
Cさんからの紹介で、地域包括支援センターの看護師Eさんとも連携されました。
Eさんは、父の入院後初めてセンターを訪れた際に担当してくださった方で、両親の介護申請を代行してくださった方です。
10日には父本人とのZoom面談も済ませでくださり、父の意向も確認できたため本格的に施設探しが始まることとなりました。
ケアマネのHさんからの助言で、父の介護度が3以上であれば、母の介護度が1でも特別措置として夫婦一緒に特養に入れる可能性もあるとのことで、父の認定結果次第では、まずは特養を探すことになりました。
その他、老健の情報なども私たちが知らなかったこともあり、やはり専門家集団が結集するとすごいと思いました。
母の介護認定通知は、Cさんが役所まで受け取りに行ってくださるそうで、ありがたいことです。
父の方は郵便で届くようです。
連絡がないので、まだ認定が下りていないのかもしれません。
実は両親の施設入居に際しては、実家の土地問題がありました。
実家の土地家屋は父の名義ですが、その土地に叔父が二人住んでいるため売ることができないのです。
二束三文であっても買ってくれる人がいれば手放して、施設入居の費用の足しにしたいところですが、難しいのが現実です。
このことは数年前に両親の遺言作成時にもわかっていましたが、悠長に先延ばししてもいられなくなりました。
このことについては土地問題に詳しい弁護士さんに相談しており、8日の月曜日に、娘が窓口となり、司法書士さんと弁護士さんと話し合いをしてきてくれました。
考えられる選択肢はいくつかありますが、両親が亡くなった際に遺産放棄するというのが最も現実的な解決策だろうということになりました。
私と妹が遺産として受け取れるものは、この土地と生命保険くらいですが、生命保険はいずれ解約することになりそうですし、私も妹もすでに持ち家があり実家に住む選択肢はないからです。
放棄した場合、この土地は父の兄妹3人で遺産分割することになりますが、もう父の兄妹とは縁を切りたい私たちとしては「どうぞご自由に」という気持ちなのです。
当然相続税などもかかってくるわけで、それらも放棄できるのであとは強欲な3兄弟で好きにしてください、という感じです。
両親の資産は施設に入った場合、かなり早い段階で尽きる予定なので、その後は生活保護になるだろうとのことでした。
両親の死後は生活保護費用の返還義務が生じるため、遺産放棄によりこの返還義務も放棄できるとのことでした。
生活保護を受けても施設に入居することができる事など知りませんでしたし、返還義務があることも知りませんでしたから
やはり専門家の力を借りるということは、お金を払うだけの価値があると思いました。
◎人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし
あまりにも有名な徳川家康の遺訓です。
本当は家康の言葉ではないという噂があることを今回初めて知りました。
それはさておき、改めて読んでみると、時代を超えて通用する人生の教訓だと思いますが
忍耐が大事とか怒りを敵と思え、などというのを読むと、人間は長い歴史の中でずっと同じようなことで失敗を繰り返したり、悩んだりしていたのだろうということが分かります。
近年、アンガーマネジメントなどがもてはやされたりするのも、国内外を問わず、そして人種を問わず同じようなことで悩んでいることがうかがえます。
さて、家康の遺訓に話しを戻しますと、今回私が注目したのは後半ではなく、まさに文頭の一行です。
人の一生は重荷を負をひて遠き道をゆくが如し
その後の教訓はさておき、本当に人生とはまさにこのこと通りだなと思います。
この教訓を実践できていたら、私の荷物はもう少し軽かったのだろうか……と思ったりしました。
私も還暦を過ぎ、本来なら人としてある程度の器に育っていなければならないはずなのに、現実はそうではありません。
私はとても心が狭く、臆病で、頭でっかちで、怠惰な人間です。
変な正義感をもち、べき論に凝り固まっていた時代もありました。
いつも自分に自信がなく、幸せの真っ最中に不幸な未来を想像してしまい、自ら不幸を引き寄せてしまうような愚かな人間です。
それでも若い頃はエネルギーもあり、自分の力で未来を変えようと足掻いてこともありました。
人生のつまづきは、10代の頃に母から言われたこの一言から始まったと思っています。
◆家庭運に恵まれない。という刷り込み
どんなシーンで、どんな言葉で言われたのか、細かいことはもう覚えていません。
自分の名前の画数とか、そんな話題から発せられた言葉でした。
私はそれ以来、ずっと自分の名前が嫌いです。
孤独で寂しい家庭運。ずっとそんな風に脳に刷り込まれ、人の愛情を素直に受け止められない人間に育ったように思います。
「今」という時間を楽しむことができず、絶えず将来この幸せを失ってしまうかもしれないという不安に怯えていました。
若い頃はその理由がわかりませんでした。
家庭内の問題もいろいろありました。
長女というだけで、共働きの両親に代わって家のことをやることも当たり前のようにしていましたが、今思えばそう教育されていたのかもしれません。
家庭というのは閉ざされた空間であり、よその家庭がどんなルールで生活しているのかなどわかりません。
ポンコツな父もコンプレックスでした。
若い頃は自力でそこから出ようという気概もありましたが、母に泣かれたりして踏みとどまってしまいました。
結局、私には自信がなかったのだと思います。
家を出て一人で生きていけるだけの自信が。そしてその覚悟もなかった。
結局今私は、母の予言通り家庭運のない孤独な老人となったわけです。
今思えば「心配」「できるわけない」という母の言葉や涙に騙されて、意思とは裏腹に母にコントロールされて生きてきたのだろうと思います。
いつしか自分の意見は「どうせ通らない」という諦めに変わり、気持ちを言葉にすることや、表現することができなくなっていきました。
その代わり、偽りの笑顔でその場を乗り切り、心の中に不安や怒りだけが蓄積されていきました。
しかしそれらを外に出す方法を知らないので、自分という器の限界を超えると突然爆発してしまうのです。
そうやって時間をかけて作り上げてきた関係を、突然自ら壊してしまうこともありました。
そして気持ちを表現しないから「何を言っても大丈夫」「何をやっても大丈夫」と思われることもあり、利用されることもありました。
若い頃は周りの人に恵まれていたこともあり、人を信用しすぎる傾向があり、社会に出てから騙されて悪者にされたり、その人の出世に利用されたこともありました。
あとから「ああいえばよかった」「こういえばよかった」と悔し涙を流すのですが、その場では言葉が出ないのは今も同じです。
還暦を過ぎて、いまさら後悔しても遅いですが、最近いろいろと過去の自分を悔やむことが多いです。
◆生きる意味
ここ数年、生きてきた意味を見出せなくなっています。
noteではできるだけ明るく楽しことを書きたいと思う一方
気持ちはどんどん沈んでいくのです。
5月から働き始めましたが、本当は嫌で嫌でたまりません。
特に今は、いちいち難癖をつけてくる偏屈な男と働くことになり、いつも動悸がして胃が痛く、不眠症がひどくなっています。
時給千円程度で、この歳になってこんな理不尽なことに耐えなくてはいけないのはなぜなんだろうと思います。
しかし真面目すぎるのか、契約した以上簡単にやめる勇気もないのです。
前世でよほど悪いことをして、いまその罰を受けているのでしょうか。
多分私は人に舐められやすいんだと思います。
昔から「おとなしそう」と言われていて、顔に感情もあまり出ないし、言い返したりすることもないから舐められるのだろうと思います。
今更変えることは難しいと思うので諦めています。
気持ちを切り替えることも下手です。
いつまでも嫌なことが頭から離れず、自分で「今」という時間を台無しにしてしまうのです。
いつも過去や未来にとらわれて、今という時間をうわの空で生きてきたように思います。
ああ、もったいない。
両親のことは、老後は面倒見ようとか一緒に暮らしたいと思ったことはないですが、親の介護は家族がするという日本の構造の中でできる事をやるしかないという義務感でやっているのです。
ただ、先日の父との面談や母の介護を通じて、年老いた姿をみるともう恨みや怒りという気持ちも薄らいでいることに気づきました。
そしてやはりいなくなったら、きっと寂しいだろうなという気持ちすらあるのでした。
その一方で、娘との関係のほうが今の私に寂しさをもたらしているように思います。
娘には申し訳なかったと思うことがたくさんあります。
両親の離婚など望んでいなかったはずです。
だからこそ不自由のないように必死に働きましたが、そこに固執するあまり娘とのかかわり方に失敗したように思います。
おかげで娘は私を反面教師として、早くに自立し、精神的に安定した人間に成長しましたが。
60年以上も生きてきて、いまさら私はなぜ生きてきたんだろうと思います。
若い頃は夢もありましたが、ことごとく母に潰されました。
しかし家を出てしまうという選択肢を捨てたのも自分なのです。
だから結果はどうあれ、自分の責任と言えなくもないのですが、昭和のあの時代、独身の女性が一人暮らしをするなどなかなか認められない時代でもありました。
就職の際には、実家から通っているかを身辺調査される時代でした。
ひとりで娘を育てている頃は、娘の存在が生きる原動力でもありました。
辛いことがあっても娘のためと思えば耐えられたのです。
家を買い、中高大と私立に通わせ、やりたい習い事はすべてさせました。
これからは英語が必要な時代と考え留学もさせました。
自分にできることは教育しかないと思ったからです。
そして全てが完了したとき私自身が燃え尽きました。(◞‸◟)ナサケナイ
この時私は、自分が生きていく意味を見失ったように思います。
最近、友人の一人がこのようなことを言いました。
人間だけが生きることに意味を見出そうとするのかもしれません。
それ以外の命あるものは、ただ今を生きている。
でもそれが一番難しいように思うのです。
◆楽しみがない
コロナ前、私の楽しみは数年に一度の海外旅行でした。
いつも一人旅でしたが、それでも非日常に身を置くことは、旅の小さなストレスはあっても気持ちをリフレッシュさせる大切なものでした。
ひとりで行くのがつまらないと思うようになったこともありますが、今はまったく旅行に行きたいという気持ちが起きません。
もともと趣味がなく、なんとか現役時代に老後の趣味を探したいと思っていましたが、みつからないままでした。
ドラマなども最近はあまり集中できません。
読書もしてはいますが、なんだか頭に入ってこない。
そもそもやりたいことがないし、気力がないのです。
何かをやりたいという気持ちが湧いてこない。
来月の尾瀬ハイキングは気持ちを振り絞って参加申し込みしましたが、準備する意欲もわかず、体力的なことやその他不安ばかりが先行している状態です。
本来なら楽しみなはずのイベントなのに、全然そういう気持ちが湧いてきません。
とにかく外に出ることに不安を感じるのです。
できればずっと家の中でだれにも会わずに暮らすことができればいいのにと思うほど。
もともと40歳くらいで死にたいと思っていた私が、図らずもこんな歳まで生きてしまい、子育ても終了した今、ますます生きていることに意味をみいだせません。
◆自分も誰かも楽しませながら生きられたら
友人で音楽イベントをする法人の代表をしている人がいます。
もともと音大を出ていて、音楽家の仕事の場と、聞く人を楽しませる場の両方を提供したいという志から法人を立ち上げました。
ご主人がいて生活の心配はないということもありますが、誰かを笑顔にする、人のためになる仕事をしている彼女がまぶしいです。
還暦すぎた私は、そろそろ自分が楽しいだけでなく、誰かを笑顔にするために生きていく頃なんじゃないか。
でも自分にはそんな大それた技能や能力はないように思えてまた諦めている自分がいます。
人を楽しませるには、まず自分が元気で笑顔でいないとできませんよね。
生きていくための仕事はもちろん大切だけど、そのために自分をすり減らして生きていても全然楽しくない。
結局、今の私にできることなどないのです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
後半はブラックマネキネコの戯言です。
これから自分がどう生きていけばいいのか、わからない。
いい歳をして、寂しさや孤独感に苛まれ、生きる気力を失っています。
自殺なんてする勇気はありませんが、早く死にたいなぁと思う毎日です。
死ぬつもりはありませんのでご心配なく。
みなさまが良い週末を過ごせますように。
この記事が参加している募集
読んでくださってありがとうございます!もし気に入っていただけたらサポートいただけると嬉しいです。猫さまのために使わせていただきます。