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病院薬剤師が語る歴史人物数珠つなぎ 「道長と藤原摂関家」編❾藤原房前
もし薬学の道を選ばなかったら日本史の先生になりたかった私、病院薬剤師だまさんによる、ちょっとマイナーな歴史上の人物を紹介するブログです。
本シリーズでは、摂関政治で頂点を極めた藤原道長を起点に、その祖先から子孫に至る流れをたどっていきます。
今回は、藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男・藤原房前です。
長兄・武智麻呂との熾烈な出世レース
藤原房前は藤原不比等の次男です(681-737年)。
官位は正三位・参議。没後は正一位・左大臣を贈られました。
房前の政治的力量は不比等の息子たちの間では随一とされています。
文武朝(697-707年)
1歳年上の兄・武智麻呂と同時に従五位下に叙爵(貴族になること)しています(ただ、房前は正六位下からの2階級昇進)。
元明朝(707-715年)
武智麻呂が従四位上、房前は従四位下に叙せられており、武智麻呂が優勢となっています。
元正朝(715-724年)
房前は武智麻呂に先んじて参議となり、藤原不比等・房前親子が同時に議政官に並ぶという異例の出世となりました。
ただ、不比等が没すると武智麻呂・房前兄弟は揃って従三位に昇進し二人の位階の差はなくなりました。
しかし、房前は従四位上からの3階級昇進であり、祖父・鎌足以来の内臣に任じられ、元正天皇の補佐および皇太子・首皇子の後見役が託されました。
聖武朝(724-749年)
武智麻呂・房前兄弟は正三位に昇叙されますが、長屋王の変後、武智麻呂が大納言に昇進する一方で、房前はまったく昇進にあずかっていません。
その理由として、房前は詩文を通じて長屋王と親密な関係だったことが知られており、変に参画していなかった可能性が推察されています。
更に背景として、聖武天皇の下に長屋王を中心に藤原四兄弟が協力・支援するという、父・不比等の描いた政治体制構想を受け継ぐ房前に対し、あくまで藤原氏の独自政権を目指す武智麻呂の路線の違いがあったされます。
その後藤原四子政権が樹立しますが、その7年後の737年、房前を筆頭に藤原四兄弟は次々と天然痘で没します(長屋王の祟りとも言われています)。
享年57。最終官位は参議民部卿正三位でした。
房前は正一位・左大臣を追贈、没後ながら武智麻呂に官位で並びました。
長屋王排斥の理由
当時、長屋王は皇族屈指のサラブレットでした。
長屋王の父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)でした。
長屋王とその妻子は皇族以外にも蘇我・藤原氏の血筋も受け継いでおり、聖武天皇の血筋が絶えた際の皇位継承者として最もふさわしい一家でした。
一方で、母親・藤原宮子が非皇族だった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えもあり、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家は不比等亡き後の藤原氏の恐怖と猜疑の対象だったと考えられています。
長屋王一家を自死に追い込んだ藤原四兄弟は全員天然痘で没しました。
一方、聖武天皇は二人しかいなかった皇子(基王・安積親王)を失い、直系の皇位継承者が娘の阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)しかいないという異常事態となりました。
もし長屋王の変がなかったら、皇族も藤原氏も全く異なる道を歩んでいたに違いありません。
長屋王と藤原四兄弟を理解するにはこの作品が最適です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
さて次回はついに鎌足の子・藤原不比等です。
お楽しみに。