私たちがもっているものは
年末のオフィスに、社内放送が流れた。
皆が起立し、南を向いて黙祷を始めた。
この式は、その一年間に亡くなった社員たちを想い、黙祷を捧げるものだ。
このとき、私の脳裏には、いつも三人の元同僚の姿が浮かんでくる。
下原さんの笑顔
下原さん(仮名、以下人物名は同じ)と初めて出会ったのは、私が中途採用で入社して二年後の昇格試験のときだった。昇格候補は、下原さんと私を含めて五人。本部長が私の所属する部門に着任したばかりだったので、私たち五人との対話会が設けられた。
今後の抱負を本部長に聞かれ、「人材育成に力を入れたい」と下原さんが答えた。「物をつくる前にまず人をつくる」との考えをもつ我が社では、この答えは正統そのものだ。
二年後下原さんは滋賀の事業部に異動し、そこの職能責任者になった。私は北京に赴任した。その後日本に一時帰国した際、打ち合わせのために滋賀事業部を訪れた。私が来たことを知って、下原さんはわざわざ会議室にあいさつをしに来てくれた。
さらに二年が経った春の日。大阪オフィスに出勤した際、ちょうどその前の週に下原さんが亡くなったと同僚から聞かされた。
下原さんはお正月帰省の後に、体調の不良を訴えていた。すい臓がんだった。病気が判明後、下原さんは三カ月も経たないうちに帰らぬ人となってしまった。
四十代半ばで、奥さんと小学生以下のお子さん三人を残して。
下原さんの突然の他界が同僚たちへ与えた衝撃は大きく、オフィスは重い空気に包まれていた。
二年前、会議室の扉が開いて現われた下原さんの明るい笑顔。それが、永遠に見られなくなった。
土橋さんの電子メール
土橋さんは、いつもゆっくりとした口調で話し、素朴な笑みをたたえていた。人を管理するのを好まず、社内資格は高いが部下はもたなかった。専門性を好み、名利にはこだわらない方にみえた。
土橋さんは渉外窓口を担当していた。私が中国の業界会議でなんらかの発表をするときは、必ず事前に彼と連絡して確認をとっていた。
日本の貿易協会が主催する訪中団に参加させてもらったことがある。その活動後には、協会の刊行物で感想文を発表することになっていた。もちろん日本語で。
私は書いた文案を土橋さんに送り、できれば日本語をみていただきたいとお願いした。彼は忙しいし、日本語添削は彼の業務範囲内とはいえないので、あまり期待はしなかった。
が、二日後、土橋さんからとても丁寧に修正、潤色された文案が送られてきた。おかげで私のストレートで下手な表現は、柔和で読みやすいものへと変身した。
土橋さんは、突然心臓疾患に襲われた。一命はとりとめたものの、容体が安定したとみて地元の病院に転院したところで症状が再び悪化してしまった。そして、五十代半ばでこの世を去った。
先日、パソコン内の古い電子メールを整理していたら、数年前にいただいた土橋さんからのメッセージを見つけた。懐かしい文面を読むと、土橋さんの穏やかな笑顔が目に浮かんだ。
メールを削除しようと、中指がDeleteキーの表面を数回撫でたが、結局押さないで指はそのキーから離れた。
川辺さんとのランチ
川辺さんはもの静かな女性だった。海外関係の仕事がしたいと、技術部門から本社に転入してきた。希望が叶い、彼女はドイツに転勤した。
北京勤務の私はよく大阪のオフィスにも出勤するが、たまに同じタイミングで帰国した川辺さんと会ったりした。ある日、二人でランチをともにした。
「ドイツのものはいいですね。今、うちの台所用品の多くはドイツ製ですよ」と私が言うと、
「ありがとうございます」と彼女は嬉しそうに返した。
ドイツでしばらく生活し、その国を自分の一部と思うようになったようだ。中国出身の私にとっての日本も同じか。
一年後、彼女は帰任した。大阪のオフィスで会ったときはいつもマスク姿で、体調がよくないようだった。
ある日、私は彼女をランチに誘った。雑談の中、私の担当する中国現地のチームを、彼女は一生懸命褒めてくれた。その真剣さが少し意外だった。
しばらく北京で過ごし、また大阪に戻ると、川辺さんが前月に亡くなったと人事の人に告げられた。乳ガンだった。四十代半ばで、未婚。
死去の一カ月前まで、彼女は出勤していた。病状は、彼女の上司と人事責任者しか知らなかった。事情を周囲に知られ、特別扱いされたくなかったようだ。
葬儀が終わり、職場に彼女のご両親から礼状と菓子折りが届いた。「仕事は最後まで娘が生きる支えでした。みなさんに感謝します」という旨のメッセージが、礼状には書かれていたそうだ。
私は、フロアの北エリアにある彼女の席に行った。机の上には白い花が飾られていた。花の前に立つと、川辺さんの顔が目に浮かぶ。
数カ月前の食事、それは私との最後のランチだと彼女は思っていたようだ。
周りの人々は離れていくが、私たちはまだここにいる。私たちは幸運だ。
幸運な私たちは、毎日何をしているのだろうか?
明日を計画しているのだ。近い明日と遠い明日を。
しかし、明日まで私たちが生きられると、保証されているだろうか?
いや、されていない。
ならば、今日を誠心誠意生きるということが、私たちにとって最大の価値になるのではないか。
私たちがもっているものは、「今」だけなのだ。
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