【小論考】オルタナティブスペースは必要か⁉
過日、「例外アートウィーク」というアートイベントが開催され、美術評論家の福住廉とオルタナティブスペースの経営者 小川希によるトークが開催された。テーマは「なぜオルタナティブ=例外なアートスペースが必要なのか?」【注1】。そこで交わされた言説も踏まえて、日頃オルタナティブスペースも巡ることが多い愚老が考えたことを以下にまとめる。
オルタナティブスペースの定義ははっきりしているわけではない。美術館でもない、コマーシャルギャラリーでもないといったような否定神学的表現でしか言い表しがたい――むしろ今後に向けて定義しないことの方がよい可能性もある。アーティストたちの共同アトリエを住み開きしているような相互扶助的・生活協同組合的なケースもあるなど、運営形態も様々。ただ、いずれも資金的な基盤が弱いので小規模なのが共通した特徴だ。
オルタナティブスペースの歴史的な源流を辿れば、福住が語っていたように、1950-60年代の「おぎくぼ画廊」や「新宿ホワイトハウス」、1980-90年代の「佐賀町エキジビット・スペース」が挙げられる。海外ではニューヨークの「PS1」がそれの代表的なひとつとされる。いずれも公的権威や商業ベースからは一定の距離のあるインデペンデント的なスペースだ。私見を加えれば1970年代に全盛であった銀座から神田にかけての貸画廊を入れてもいいと思う。なぜならそこには一定のコミュニティがあったからだ。「美学校」や「Bゼミ」、「パープルーム」といった私塾を入れてもいいかもしれないし、拡大解釈すれば物理的なスペースを持たないコレクティブもその外縁だろう。
小川が語っていたように、インドネシアでは「ルアンルパ」のようなインデペンデントなコレクティブが存在する一方、欧州では地道なロビー活動により公的資金が充実しており、それを生かした取り組みも盛んだという。
さて、このテーマの結論を言おう。ずばり「オルタナティブスペースは必要だ」。なぜなら、①アーティストの登竜門として、②商業ベースに乗りにくい作品(例えば、パフォーマンスや仮設的な作品、リサーチドベースドで資料的な作品、実験的な試み)の発表場所として、③アート関係者のたまり場、文化が発酵する場として必要だ。昨今国外ではグローバルマネーが飛び交うアートフェアが膨張し、国内では公的資金頼りの大小のアートフェス(芸術祭)が増加しているが【注2】、このどちらにも乗りにくい表現の場として必要なのだ。(なお、グローバルマネーに対するアート界での異議申し立ては、海外ではゴッホなどの名画にスープをかけるような事件、日本では国立西洋美術館のオープニングでの事案、川村記念美術館の存続問題といったことで表面化している。)
一方、課題もある。
なによりも資金調達が重要だ。助成金は自主規制に陥りがちという欠点はあるもののそれを活用することに躊躇はいらないし、販売しにくい作品の場合は演劇、ダンス、映画のように入場料をもらうという手段もあろう。そうしないと、クレア・ビショップの発言を引用すれば、「日本のアートはキラキラしたオブジェばかり」と揶揄される偏った状況は脱しがたい【注3】。なぜなら、そういった作品はわかりやすいし、売りやすいからだ。
もうひとつは、批評の活性化だ。価格だけ、売れることだけが評価の基準になりがちなアートの世界で別の評価基準を作るのが批評だ。それには基礎として展覧会記録のアーカイヴが重要で、できれば紙ベースが望ましいが、難しいのであれば少なくともweb上で記録を残すことは必須だ。
こうした経済と批評のふたつのエコシステムを回すことが、オルタナティブスペースをサスティナブルにするための乗り越えるべき課題だと思う。
【注1】
【注2】
【注3】
【その他参考サイト】