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【アーカイブ/展覧会レポート】ゲルハルト・リヒター、ミニマルアート、Jアート
この記事は、2001年6月9日に脱稿したものです。下記のふたつの展覧会をリポートしました。
○ ゲルハルト・リヒター「ATLAS」:DIC川村記念美術館:2001年3月31日~5月27日、広島現代美術館:2001年6月12日~7月22日、大分市美術館:2001年7月28日~9月24日
○「ミニマル マキシマル|ミニマルアートとその展開」:千葉市美術館:2001年4月10日~6月3日、京都国立近代美術館:2001年6月19日~8月12日、福岡市美術館:2001年10月23日~11月23日
鑑賞レポート「ステラ、ケリー」では、時代が下がるにつれてモダニズム美術(※1)における造形空間が徐々にその額縁から外へ向かう、つまり滲出性について論じた。
今回、フィールド・ワークを行った千葉市美術館の「ミニマル マキシマル」展は、ミニマル・アートの古典からその後の展開に至るまでを通観した意欲的なものではあったが、同展会場で、モダニズム美術の極北たるミニマル・アートにおいてマキシマルとなるとも言えるこの額縁外滲出性という性向が、作品の〈映り〉(※2)となってアウラの如く周囲に強力に発散していたこと、そしてそのことによって、作品同士が相互に〈映り〉合ってしまっていたことを強く感じた(※3)。
※1)モダニズム美術:
本稿では、おおむねルネッサンスから始まるタブローから、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートに至るファイン・アート及びこの系列としてポジショニングされる平面・立体作品などの造形美術全体を含む概念として使っている。
※2)映り:
本来的には、陶芸の鑑賞概念である。(拙稿「陶磁器と現代美術の鑑賞概念の共通性」参照)
※3)作品相互の映り合い:
同展のシンポジウム(※4参照)によれば、同展出品のピオトル・ウクランスキー「ダンスフロアー(アメリカのミニマリズムはサタデーナイトフィーバーに出会う)」という音楽が流れる作品は、この〈映り合い〉を意図的に惹起せしめるということが作品の狙いのひとつであるとのことである。
もちろん、厳密に言えば、いづれの造形美術を味わうときにおいても当然そうなのだが、特にミニマル・アートの作品を鑑賞しようとする場合には、なおさら、視野の端に見える物や、その時に聞こえて来る音、あるいは匂い、室温、気圧といった諸元までをも、否が応でも意識せざるを得ない。しかしながら、仮にこのことをある程度解決しようとすれば、同展のシンポジウム(※4)でも論議されていたことだが、究極的には、各作品をひとつづつ、間仕切りした小間に展示する、つまり、ひとつひとつを「ホワイト・キューブ」にインスタレーションしなければならないという、美術館をしてパラドキシカルな立場に陥らせたらしめことになる(※5)。
なお、同じ理由から、マーク・ロスコが自分の作品を展示するに当って、いわば「ロスコ・ルーム」として仕切られたスペースに自分の作品だけを展示することをその条件にしていることは、極めてリーズナブルなことであると言わなければならない(※6)。
※4)ミニマル・マキシマル展のシンポジウム:
東京ドイツ文化センター主催のパネル・ディスカッション「ミニマル・アートはいかに引きつがれているか」2001年4月11日
※5)ホワイト・キューブ:
その場合、間仕切りにある程度の防音機能や防臭機能も必要になろう。また、このことは、額縁のない〈晩期〉モダニズム美術の場合、特に、キュレーターが作品をどのように見せるか、どうコーディネートするかが重要になってきていることの証左でもある。つまり、大名物の茶碗もそれなりのシチュエーションにおいて味わわないと意味がない。
※6)ロスコ・ルーム:
DIC川村記念美術館のマーク・ロスコの常設ルームを参照されたい。ここではロスコの作品どうしはかなり近接して展示されているが、それが決して邪魔しあってはなく、むしろ、響きあっている。なお、このロスコ・ルームはロンドンのテート・モダンにもあるようである。
今回は、同時期に開催されていたDIC川村記念美術館の「ゲルハルト・リヒター|ATLAS(地図帳)」展も鑑賞した。同展では、リヒターがまさにライフワークとして日々、アイデアとして画き溜めていった自分で撮った写真や新聞・雑誌の写真の切抜きのコラージュによるスケッチ(※7)がパネル化されて、まるで絵巻物のように横方向に延々と展示されていた。さらに、この一方で、このアイデア・スケッチと関係づけられて油彩などによる独立作品が展示されていた。つまり、リヒターが何に興味を持ち、何を契機にして、独立作品を制作したのかについて解読できる展示構成になっていた。むしろ、リヒターの場合、このいわば作家自身の思考の軌跡(※8)とも言うべきスケッチ群が必須のものとして展示されていたと言ってもよい。換言すれば、作家の思考の軌跡全体を背景(=地[background])として独立作品(=図[figure])を見せている、若しくは、そうしないと、独立作品を作品として支えきれないというふうにも述べることが可能である。そして、このことを敷衍化すれば、今日においては、モダニズム美術の作品(=図)が周囲の空間(=地)と切り離れては成立しない、周囲の空間によって支えられなければ成立し得なくなっていることを黙示している。
※7)リヒターのアイデア・スケッチ:
クリストの野外プロジェクトのデッサンを想起させるようなスケッチもあった。
※8)思考の軌跡:
いわば、リヒターの脳のアトラス=地図帳である。
さて、ここで改めて整理してみると、モダニズム美術はルネサンス期に額縁で壁から切り取られることによって、自立(律)性・自己完結性を得たわけだが、その後、造形空間が漸次的に額縁内に収まり切らなくなっていき、ついに、ミニマル・アートにおいて、いわば額縁というフレーム(=制度)はホワイト・キューブというフレームにまで拡張されることになった。さらに、リヒターにおいては、作品の由来ともいうべき時間を含めたフレームにまで拡張されたことになる。ここで、こうした現象を鳥瞰し、それぞれの時代におけるフレームという制度を点として結ぶ補助線を引いてみると、次のような仮説を措定することが可能である。つまり、モダニズム美術は、その自立性を額縁内に完結して支え切ることが不可能になり、さらには展示空間との関係だけの問題にも留まることもできず、ついには、本来彼の作品の外側にあるべき造形作家という事象についても関係づけられなければ、作品として成立し得なくなるまでに至ったということである(※9)。
※9)モダニズム美術の外部依存化性向:
このような外部へ外部へと支えを求めるビヘイヴィアは、壊れた本能を支えるべく構築される近代合理主義的自我が畢竟、外部へ外部へとその根拠を反復脅迫的に希求せざるを得ない無間地獄を容易に想起させる。
さらに、モダン・マニエリスム(※10)ともいうべき現下においては、前述の補助線の延長上として、――― それが望ましいことなのか、そうではないのかという価値判断をひとまず留保しつつ、――― 造形作家自身のアイドル化という現象の現出という事態にまで至っている。そして、これを、造形作家のパーソナリティやキャラクター、生きザマといったものまでも含めて〈地〉としてインストールしないと鑑賞に堪えられないほどに、〈図〉たる作品そのもの自体が疲弊してきているとシニカルに換言することも可能である(※11)。ひいては、このことは、現今のアート全体のエンタティンメント化、芸能化現象というベクトルとも共時しているのである(※12)。
事、ここに至ればJ-POPならぬ、〈J現代美術〉あるいは、〈Jアート〉である。
※10)モダン・マニエリスム:
本稿では、モダニズムという古典主義の大きな波の後の余波という含意で使用している。
※11)生きザマも見せる:
もっとも、良く考えてみれば、こうした潮流についても、マルセル・デュシャンのローズ・セラヴィ(仏語で「これが人生だ。」)というアナグラムの偽名を先鞭とし、その正嫡として神格化されたヨゼフ・ボイスの嫡流を汲んでいるとも云える。
※12)エンタティンメント化、芸能化、バラエティ化:
ご推察のとおり、テレビ東京系『誰でもピカソ』をその典型とするアートのお笑い演芸化シンドロームが念頭にある。なお、ハイ・アートもロー・アートも全てリセットするスーパー・フラット理論もこれに一役買っているのかも知れない。なお、この傾向は〈芸術〉や〈美術〉という言葉を廃れさせ、〈アート〉という言葉を人口に膾炙せしめている。
ちなみに、クラシック音楽の分野においては、既にパーフォーマーのアイドル化として進行しており、このような傾向も含めて〈Jクラシック〉と呼ばれていると仄聞している。
また、このエンタメ化現象は、芸術以外の次のような分野においても蔓延化していると感じられなくもない。ジャーナリズムにおけるワイドショウ、政治におけるメディア・ポリテックス、産業・経済におけるガジェット的財・サービス、アカデミズムにおけるWeb、犯罪における劇場型化。残る分野は超高次産業である宗教のエンタメ化であろうか。