「福祉産業は反景気循環的産業である」というもはや疑いようのない事実。
(いつものようにほぼ無料で読めますが、一部有料部分があります。ただ補足部分なので気になる方だけご自由にどうぞ。)
(書くまでもないこととは思いますが、サムネイルの画像はニセコとは関係ありません。)
これは、「ニセコ」という地域で介護施設が人手不足から閉鎖したというニュースである。その地域の観光業が栄えたことで待遇的に魅力が増し、介護施設から人が離れ、人手不足が起こったというのがその原因と紹介されている。これは、私がかねてより主張している「福祉産業は反景気循環的産業であり、積極財政などで景気が良くなれば、必ず福祉産業から人が吐き出される。つまり積極財政は結果的に姥捨てと同じような形を取る」という主張を大きく裏付ける事例と言えるだろう。
「福祉産業は反景気循環的産業である」
これが特定の国でのみ適用できるものなどではなく、我らが日本においても適用できる経済理論であると実例をもって示すことが出来ることは、かねてよりそれを主張していた私にとって本当に嬉しいことだ。しかし、これを言うと例えば「福祉産業の賃金を上げれば良い」と指摘が飛ぶかもしれない。しかし、それは解決策にはならない。なぜなら、福祉産業の賃金は政府が決めているため、民間の賃金の上昇速度には勝てないからだ。
順を追って説明しよう。まず、景気が良くなり、民間の賃金が上がる。それにより福祉産業の魅力が相対的に下がり、福祉産業から人が吐き出される。「福祉産業の賃金を上げれば良い」と指摘する人はここで福祉産業の賃金を上げればまた福祉産業に人を戻ってこさせることが出来ると考えていると思うのだが、それは無理なのだ。なぜなら、そこで福祉産業の賃金が上がったなら必ず民間がそれ以上に賃金を上げるからである。景気が良くなっており、ここで投資すれば更なる利益を獲得できると十分に考えられる状況で、福祉産業に人が取られることによる人手不足などというものを民間企業が容認するわけがない。必ずそれ以上に民間が賃金を上げると考える方が妥当だ。福祉産業に人を戻すことはできない。
また、別の理由もある。それは「福祉産業従事者の限界消費性向」である。どういうことか、それは福祉産業従事者の限界消費性向は高いと考えらえるため、福祉産業の賃金を上げるとそれは一種の公共事業として働いてしまい、さらに景気を良くすると考えられるため、やはり民間の賃金が福祉産業以上に上がってしまうことで、福祉産業の賃金を上げても福祉産業に人を戻すことはできないというものである。さらに身も蓋もないことを言えば、「そもそも福祉産業の魅力が他産業に比べ弱い」というのもある。自分ではまともに動けない高齢者の世話をし、認知症で訳もわからぬ状態になった者から暴力を受けることまである。そんな仕事を、好景気で、他の仕事の賃金が上がっていくことが容易に想像できるような状況でわざわざやろうという人間はよほどの物好きか福祉産業に誇りを持っている者ぐらいだろう。例え福祉産業の賃金の方が一時的に上だったとしても、福祉産業に人を「戻す」ことは至難の業だと考えられる。
このようにして考えていくと、「福祉産業の賃金を上げれば良い」が決して有効な手立てではないことが理解できるはずだ。福祉産業の待遇を「上げる
」ことによっては「福祉産業が反景気循環的産業であること」を解決できないのである。「積極財政で景気を良くしながら、福祉産業の人員も確保する方法はないの?」という人たちのために、答えを述べておくと、
そんなものはない。
というのが答えになる。積極財政の「コスト」は、債務残高でも通貨への信認でもなく、「福祉産業の人手不足」なのだ。積極財政を訴える者はまずこの事実を認識しなければ、その主張は非常に空虚なものとなってしまうだろうと思う。
そうした事実を踏まえた上で、ではどのような政策が日本に必要なのか?という問いについて考えていくと、まず、「今のまま負担を増やしていき、福祉産業に人をぶち込み続ける」という選択肢はあり得ない。それは「善意で舗装された地獄への道」を突き進むことになるからだ。
これは私の記事だが、わざわざ読みたくないという方のために簡単に説明すると、要は「これまでの日本では福祉産業にリソースを割くためにインフラ整備予算が削減されてきており、そのせいで福祉産業に人を奪われ、インフラ整備における人手不足が起こり、もはや金があっても直せないインフラも増えてきている」ということを説明するものであり、そうした状態を更に進行させるのが「今のまま負担を増やしていき、福祉産業に人をぶち込み続ける」という選択肢なのだから、やはりその選択肢はあり得ない。
ではどうするべきなのか。それは「福祉産業における人手不足というコストを受け入れてでも現役世代の負担を減らし、福祉産業から人を吐き出させ、インフラ整備にも十分な量リソースを割くこと」これが今最も必要な政策であると考えられる。
国民負担率はもはや50%ほどにまで及び、
福祉産業はありえないスピードで人を吸収している。
また一刻も早くインフラ整備にリソースを割かねば、もはや直せるインフラの方が少なくなる日も近いだろう。
これが必要であることは明らかだ。
この政策の実現のためなら、私は国債発行も正当化されると考える。「機能的財政論」(自国債で財政を賄える国家は財政制約など本来持っていないのだから、国民生活や実体経済を最大限向上させるための財政政策は財政上の制限を付けるべきではなく、あくまでそれら国民生活の向上などをその財政政策の基準とするべきという考え方)に則ればこれは当然のことであるし、また単純に考えても、この日本において国債発行のリスクは「今のまま負担を増やしていき、福祉産業に人をぶち込み続ける」ことのリスクより明らかに低いと考えられるため、やはり正当化されると考えられる。
今の日本の問題は「高齢者福祉が膨張し過ぎ、現役世代に割くためのリソースが残ってないこと」にあるため、その解決のためなら別に大本の高齢者福祉削減だろうが国債発行だろうが同じことなのだ。
このまま行ってしまえば、反景気循環的産業である福祉産業に人をぶち込むために、インフラ整備も子育て支援も、もちろん現役世代の負担減すらもまともに行えぬまま日本は「緩やかに自殺」していくことになってしまう。
いわば「福祉制約」(これについてはまた詳しく別のnoteで書くことにしよう。)にぶち当たってしまう訳である。これを打破しなければ、我々現役世代は、重い負担を抱えながら、ボロボロのインフラを享受し、福祉産業に従事させられる「くそみたいな生活」を送る羽目になってしまう。
積極財政派の人も、緊縮財政派の人も、この事実をまず認識した上でこれからの日本について論じてほしいと思う。
その上で私のこのnoteが役に立ったなら、そして私の主張に賛成してくれるのなら、そんなに嬉しいことは無い。
補足
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