西洋的「自分の確立」と東洋的「思いやり文化」、いったいどちらが幸せなのかについて思う。次のプロセスは?
先日、西洋の方の書いた本を読みました。そこには、「自分がない」という体験をしたことに慌て、精神的に今まで以上に不安になり、どう生きればいいかわからなくなったということだった。
これは、西洋では、自己を確立することを小さい時から教えられるからとも書いてあった。西洋のカウンセラーさんも、もれなくこの土台があるために、救うことはできなかったようで、彼女を救ったのは東洋的思想だったそう。
確かに、ん?と疑問だった。なんで不安になるんだろうと。。「自分がない、何もない」をわかると、むしろ東洋では安定するかもしれない。同時に何にでもなれる要素があるという体感をするから。
でも、これは、私たちが東洋の仏教を代表とする空(くう)という「自分はない、何もない」という知識がなんとなくあるからなのかーーと妙に納得した。
そして、東洋はこれまで、この考え方に影響され、目指してきた。でも表面的な言葉に影響され過ぎたのかもしれない。そうするとたどり着けない。
その影響なのか、日本は特に、ちょっと極端に言うと自分をなくしても、他者に思いやりの心を向け、優先させるという要素が強調され、道徳的模範的思想へと派生してきたように思う。自分を大切にするという教えはこれまで聞いたことがない。学校でも親からも。
やっていたことは、内側の自分ではなく、外側の道徳的概念に近づけようと努めてきた。すべてにおいて外側の何かにいつも答えがあって、それが真理なのだというように信じて疑わなかったところもある気がする。
この思想が君臨している以上、自分のここが満たされていないことは、まだまだ思いやりの心が足りないとか、他者貢献が足りないからだという風潮だったりしたんじゃないかなー昔から。
自分のここは、他者から見えないし、誰も言わないし、風潮的に誰にも言えずしまっておくしかなかったのが正直なところなのかもしれない。
私も、自分を失う特技は身につけたけど、苦しむことになった。ハマってしまったのは、「自分を優先する、大切にする」ことは自己中心的とか自分勝手という意識が抜けず、長い間躊躇があった。その根底は、この概念の罠かもしれない。
そして、ようやく、ほんとうの自分でいる、自分を大切にする、自分軸でいる、そんなプロセスを東洋社会?特に日本ではそういう流れを迎えている最中なのかもしれない。
西洋では、その逆で、自分を知り、自分を確立することを目指してきたのかなと思う。これは、今の私たちが取り組んでいることと一緒ではないか!西洋もまた行き詰り、他者への心配りの仕方を宗教的概念としてではなく、自分のために学んでいるプロセスかもしれない。
なんか、結局、どちらも最初から言いたいこと伝えたい教えは同じだったんだなーーと思う。ひとつの学びを、二つの側面で切り分けている。もしかしたら、年月を経るうちに、偏ってしまったのかもしれない。
一方で、最初から、二つの側面を教えられていたとしても、結果どちらも中途半端となり、ほんとうの意味での到達はできなかったようにも思う。両極端で、一見相容れない考えのように見えるし。
一方の考え方だけでも行き詰り、苦しくなるということを、人は気づき始めている。一方を体験してどこか満たされない感じに気づいた人から、疑いはじめることができ、情報が集まってきて、もう一方を実践することができる。両方どちらも大切。その心地いいバランスを自分の中に見つけていく。なんという完璧なプロセスなのだろうと思ってしまった。
どちらの考え方も経験し統合してやっと確立するものがある。自分自身も、社会も、世界も。
自分だけが幸せでも、他者だけが幸せでもほんとうの意味で満たされない。結局自分なりのバランスで、自分も他者も生かす生き方を見つける。学びの登山口の違いだけで、同じプロセスをしているんだなーー
伝えたいのは、もし今苦しい方がいたら、自分がどっちの思想をベースに生きてきたかを考えてみてほしい。例外は除き、きっと日本人なら上記の社会的刷り込みがベースにあったという可能性が高いので疑ってみてほしい。ここで西洋のあの著者を思い出す。東洋的思想がこびりついた私たちを救うのは他でもない西洋的思想。
つまり、次に向かうプロセスは、自分を知り、自分を確立し、自分で自分を満たすこと、自分を大切にすること❤️これを少しずつ取り入れてみる
西洋的思想も東洋的思想も統合し、行き詰まった苦しい世界を救えるのは日本人の私たちかもしれない。もちろん、日本の今の社会も変えられる。気づいた人が増えることで物事は少しずつでも着実に渦となりパワーとなり動いていくから
みなさんのそれぞれの道を応援しています😊