不可能と言われた【春水堂】の日本上陸を飲食未経験の水道屋がなぜ実現できたのか?
「タピる」「タピ活」といった新語まで生み出したタピオカブーム。インスタを始めとしたSNSで映える投稿が数々アップされ、出店ラッシュが続くも、どの店も連日大行列。タピオカミルクティー発祥の台湾も観光地として注目され、2019年の「行った・行きたい」渡航先ランキングの1位になるほどに。
そんなブームの発端となったのが台湾の老舗ブランド「春水堂(チュンスイタン)」の日本上陸でした。
しかし、その春水堂、実は、「海外進出はしない」というポリシーを掲げ、世界各国から申し込まれる招致の誘いをことごとく断っていたそう。
飲食未経験の水道会社が一体どのようにして春水堂の日本進出を可能にしたのかというと・・・。
第2章 飲食・アパレル業界での無謀な挑戦
台湾での運命の出会い
台湾を調べてみると凄く興味を持った。台湾の人たちは、とてもやさしい。気候もいい。親日の人が多い。水道の事情も日本に似ている。日系の企業も、たくさん進出している。水道事業の需要もたくさんありそうだ。
気に入って何度も視察のために台湾に行った。行けば行くほど、台湾が好きになっていった。出張から帰国するある日、少し時間があって空港の出国カウンター近くの店で、ある飲み物を口にした。それは、タピオカミルクティー。
台湾の街では、いたるところでタピオカミルクティーが売られている。女性や子どもが好きな甘い飲み物だ。僕はあまり甘いものを口にしない。決して好きではなかった。けれど、空港にある店は、老舗の有名店のようだ。試してみるか。
(美味い!!!!! 上品な甘さだ。何より、お茶の香りがいい)
びっくりするほど感動した。その店は「春水堂」と書いてあった。しゅんすいどう? いや、台湾の読み方だから、チュンスイタンである。
(今度台湾に来た時、本店に行ってみよう)
次回の出張で、早速台中にある春水堂の本店に行ってみた。台中は台北から新幹線で約1時間。台湾第三の都市だ。本店はガイドブックにもよく取り上げられている。外観は風格があって厳かな雰囲気だ。そして、きれいでおしゃれそうな店のなかに入った。
えっ……。
雷が頭に落ちた。鳥肌が立ち、震えが止まらなくなった。なんだこの見たことのない空間は……。次の瞬間。頭のなかで鮮やかではっきりとした映像が突然広がった。僕が春水堂を日本中で展開しているシーンだ。
(この店を、俺は日本でやるのか……)
なぜか……。もはや理屈ではなかった。
ここで春水堂について、少し説明しておこう。タピオカは、キャッサバの粉を丸めてゆでた伝統的なスイーツ。それと甘いシロップなどが入ったお茶とを混ぜ合わせ、太いストローで飲むのが台湾のソウルフードともいえるタピオカミルクティー。
このドリンクを開発したのが、1983年に創業、台湾に50店舗以上ある国民的人気カフェ「春水堂」だ。茶葉の質にこだわり抜いた絶品のアレンジティーとカジュアルな台湾料理、そして上質なインテリアと空間。伝統とモダンのハーモニーが台湾の人々の心をとりこにし、ナンバー1ブランドに上り詰めた。世界中にファンも多い。
そして、この春水堂。お茶と料理、サービスの質を保つため、あるポリ
シーをかたくなに守ってきた。
春水堂の本店で、「日本での展開」を突然思い描いてしまった僕は、衝動
的に店の人に頼んでいた。
「オーナーに会わせていただけませんか?」
店の人のあっけない返事は、こうだった。
「そういう人が世界中からたくさん来ます。全員断れ、と言われています」
春水堂には、こんなポリシーがあると知った。海外には絶対に出ない。品質を守るため。春水堂のブランドを守るため。海外で半端なことをやられたら、台湾での名声も危うくなるから。
しかし、ハイ、そうですかと諦めるわけにはいかない。春水堂への想いが日に日に大きくなる。そして、やっと、これをやりたいと湧き上がる魂の叫びを聞けたのだから。大袈裟でなく、これは運命だと感じていた。
台湾での水道事業をはじめていたが、心、ここにあらず。台湾に来るたびに、月に3〜4回のペースで、春水堂に通った。すると通っているうちに、同じ年頃の男性店員と仲良くなった。彼とは色々な話をするようになった。
通いはじめて1年半が経とうとしていた。オーナーにはやはり会わせてはもらえなかった。残念だけど、さすがの僕もそろそろ引き際かな、と思った。
これで最後にしようと、熱苦しいほどの想いを綴り、中国語に翻訳したそれはそれは分厚い資料をまとめて、彼に手渡した。
「最後のお願いです。これをオーナーに見せてほしい。それでも僕に会いたいと思ってくれなかったら、今日を最後に諦めます」
1週間後、彼から1通のメールが来た。
「オーナーに見せました。関谷さんに会いたいと言っています」
僕は喜んですぐ台湾に飛んでいった。夢にまで見たオーナーと面会することができた。あとで知ることになるのだが、この仲良くなった男性店員は、オーナーの息子さんであった。想いは運をも引き付けた。
ど素人には任せられない
オーナーは神々しいほどのオーラを放っていた。年齢は60代前半。台湾を代表する茶人であり、書道家、写真家としても名を馳せる超一流の芸術家。そして、カリスマ経営者だ。そんな物凄い人を目の前にして足の震えが止まらなかった。
オーナーは聞いてきた。
「君は日本でどんな飲食店を経営しているんだ?」
「いいえ、水道の仕事をしています」
「えっ? 水道の仕事? 飲食店もしてるんだよね?」
「いいえ、一度もしたことはありません」
オーナーは驚き、そして大声で笑った。飲食のまったくのど素人からのオ
ファーははじめてだったようだ。それでも僕の提案書を高く評価してくれ
た。時間を忘れてたくさんの話をした。どうやら、僕のことを人として気
に入ってくれたようだった。
そして日本での展開が……そう簡単に決まるわけがない。
春水堂の幹部たちから、毎月、毎月、たくさんの難解な宿題を出された。品質維持のオペレーション、従業員の教育計画、店舗設計プラン、日本で失敗した時ブランドの毀損をどう保証してくれるのか、などなど。
ただでさえ難しい宿題の山だったのに、専門用語だらけ。しかも翻訳すると微妙に意味が変わってしまう。気が遠くなるような作業の連続だった。実は、幹部たちは、僕に任せて日本で展開することに大反対だったのだ。
「よくわからないあんな若い奴にやらせるなんて、とんでもない」
「春水堂は、ただでさえ海外に出たことがない。それなのに、飲食をしたこともない素人にさせるのか?」
オーナーは僕のことを「面白い奴」と評価してくれていた。ただ、評価してくれたのはオーナーひとりだけだった。
そして1年間、宿題を出されては回答を提出して、ダメ出しの繰り返し。それでも僕は挫けなかった。春水堂を日本に持っていけるのは僕しかいない。諦めなければ、いつか道は切り開くと信じていた。ただ、その道は果てしなく険しかった。
ある時、台湾での経営会議に呼ばれた。そして、会議前にオーナーとふたりきりで話をした。僕は真剣にオーナーに熱く語った。
「100%上手くいくという保証は、確かにありません。でも、僕には誰にも負けない情熱があります。飲食の経験はありませんが、だからこそ誰よりも素直だ。そして、日本展開は息子さんと共同でやらせてくれませんか。息子さんは飲食のプロです。サポートしてくれたら心強い」
さらに、続けた。
「ただ、僕には経営の経験は多少はあります。そして息子さんと僕とは年齢も近い。仲もよいし相性もよい。息子さんにとっても海外展開は新たな成長の機会になるはずです。わたしはそのベストパートナーになれる」
最後にこう締めくくった。
「ゼロからの起業。タピオカミルクティーの開発。長い歴史のあるお茶文化に革命を起こした。オーナー、あなたは真の挑戦者です」
オーナーは遠い目をし、深くうなずいていた。
経営会議がはじまった。会議は紛糾した。オーナー以外からは僕と組むことに、やはり反対の嵐。
「あんな若い素人に絶対に任せられない」
オーナーは言う。
「最後は、人だ。あいつは本物だ。任せてみよう」
幹部が言う。
「上手くいく根拠を教えてください。素人ですよ。オーナー、失敗したら、春水堂の名に傷がつくのですよ」
会議は平行線のまま、永久に続くかとさえ思えた。最後に、オーナーが静かに力強く言った。
「春水堂はわたしがつくったブランドだ。公務員をやめて起業した時、親や周囲は全員大反対だった。彼と出会ってあの頃の気持ちを思い出したんだ。もし全力でやって失敗したなら構わない。その時の責任は、わたしが取る」
そうして、僕はオーナーの息子さんと合弁会社をつくり、日本での春水堂展開を進めることになった。海外に出ないはずだった春水堂の、奇跡ともいえる日本進出。ネット上では、一部の台湾フリークの間で大騒ぎとなっていた。
※本稿は『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(関谷有三 著)より抜粋したものです