「孤独を良し」とする謎の風潮について
こんにちは。
フォレスト出版の石黒です。
書店などに行って目につくのが「孤独」を礼賛するようなタイトルの本です。ハードボイルドなビジネス書系の作家さんなどが、よく「孤独」を推奨していますが、最近では、高齢である著者が、同世代に向けて孤独でいることを肯定するような本があります。
私は1人でいることは結構好きで、飲みに行くなら1人のほうがいいですし、パーティ的なところへ行くといたたまれない気持ちになって早く帰りたくなるタイプの人間です。
とはいえ「孤独が好き」「孤独になろう」という主張は、その言葉とは裏腹に孤独な自分を慰撫するような、ヌメッとしたというか、自己愛めいた耳障りを感じてしまい、私個人としては堂々と主張することに戸惑いがあります。
全然関係ない話で恐縮ですが、昨今発行部数が減り続けている新聞の購読を推奨する理由の1つとして、孤独を自認するラッパー・TKda黒ぶちさんが次のように主張していて爆笑したことがあります。
「新聞をとるのは自分の死を知らせるためだ!」
どういうことかというと、郵便受けに溜まった新聞を見て、近所の人が「あ、ここの住人、孤独死したんだ」と察してくれるだろうと。
さすがにここまで突き抜けていると、もう「なんも言えねえ……」となってしまいます。
それはさておき、孤独を解消するツールとして思い浮かぶのが、各種SNSサービスです。先週の記事(2020-05-2)「承認欲求モンスターとねずみ女」では、心理学の側面からSNSの問題を分析した記事を載せました。
今回は、ある思想書に依拠した立場から、「なぜSNSでは孤独感を埋められないのか?」という問題について『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』(北畑淳也)の中から、本記事用に一部抜粋、改変してご紹介します。
この原稿は、SNSだけではなく、昨今流行しているオンラインサロンに集まる人の実像や、彼らが目指している目的を考えるうえでも、示唆に富んでいると感じています。
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●なぜSNSでは孤独感を埋められないのか?
SNSが使われる理由は何でしょうか。
もちろんその理由は多岐にわたるでしょう。SNSで誰かとつながり、孤独を埋めることを目的としている人は多いかもしれません。しかし、実際、SNSが孤独を埋めるのに十分な働きをしているようには思えません。なぜなら、例外があるとはいえSNS自体には「暫定的」なコミュニケーションプラットフォームとしての機能しかなく、安定的で持続的な関係性を育む基盤を提供する機能は持ち合わせていないからです。
我々がSNSに本当に期待していることと現実にはギャップがあるというのが私の考えです。
SNSへの期待はなぜ裏切られるのか、それを考えるにあたり参照したい本がジグムント・バウマンの『コミュニティ』です。
孤独を埋めてくれるコミュニティの重要性はもちろん、コミュニティの形成を阻害しているものは何かについても教えてくれます。
●コミュニティが孤独を埋めない理由
「SNSが孤独を埋めてくれる」という期待がなぜ裏切られるのか。
バウマンのテキストに基づいて端的にいえば、我々自身がコミュニティを否定する思想を持っているからです。つまり、SNSはコミュニティを構築するのに利用できますが、当の我々がコミュニティを形成することに反する思想を抱いているからです。
その思想とはグローバル化と共に誕生した脱領域的な部分に価値を見いだすものです。脱領域的な部分とは、十分な規定、組織、規制がないために〈「何が起ころうとしているのかが確実にわかる」という安心感〉が期待できない世界です。
これはポジティブに見れば「誰も私を縛ることなどできない」という願いを実質化したにすぎないわけですが、裏を返せば極めて不確実性の高い世界に自ら積極的に足を踏み入れることを意味します。このようなコミュニティを否定する思想が社会に我々の中に蔓延しているがゆえに、SNSはコミュニティをもたらさないのです。
昨今流行するツイッターやフェイスブックなどのSNSは、非常に多くの人とつながる機会をもたらしました。インターネットさえあれば、いつでもすぐに誰とでも連絡できるようになったのは革命的です。
この潮流から、コミュニティが次々と形成され、多くの人の孤独が解消されるはずですが、SNSには、孤独を埋める効果は、実際ありません。
この現状に対し、SNSは「役に立たないものだ」と批判する論調がよく見受けられます。しかし、バウマンの考えから、SNSが問題なのではなく、使う我々自身に問題があることが明確になります。
バウマンの問題提起は、人々が孤独を感じるような世の中になったのはコミュニティの崩壊が原因だということです。
今の話を少し別の角度から見てみましょう。
彼はこのコミュニティ崩壊の背景に「能力主義」の理念が通底していることを挙げます。要するに、我々が「能力主義」の思想に支配されていくにつれてコミュニティを否定する行動をとるようになったということです。
能力主義的世界観が支持され、公徳の規準になるにつれてコミュニティ的な分かち合いの原理は受け入れられなくなる。困っている人々に手を差し伸べる気にもならないほど彼らが貪欲であることが、その受け入れが難しい唯一の理由ではないし、おそらくは主要な理由でさえない。たんに自己犠牲を嫌うという以上に重要なことが、ここには含まれている。かれらがご執心の社会的な区分を作り出す原理そのものが危うくなるということがそれである。
――前掲書
ここで書かれていることは能力主義的な理念が〈社会的な区分を作り出す〉ということを原理としているため、相互の分かち合いを原理とするコミュニティとは水と油の関係にあることを述べています。
●「グローバル・エリート」の定義からコミュニティ軽視の理由は見える
今の話を裏付ける例として、「グローバル・エリート」という言葉について考えてみるといいかもしれません。
この言葉は、昨今「社会的成功者」の代名詞として使われています。たとえば、あなたはこの言葉からどのような人物を想像するでしょうか。おそらく、激しい能力主義の世界で勝利し、多くの財をなす孤高の人物をイメージするのではないでしょうか。
バウマンはこのような「成功者」という言葉に対するイメージが支配的になる世界を危険視します。
なぜならば、このような能力主義の理念を前提として邁進してきた人物を「成功者」としてしまえば、多様な人との共存を促すコミュニティの重要性は評価されないからです。
グローバル・エリートの辞書に「コミュニティ」という言葉はない。もしくは、この言葉が語られるとしても、非難か酷評の場合に限られる。
――前掲書
もちろん、バウマンも彼らが「グローバル・エリート」ということを自認し、脱領域的な考えをしていようとも〈時にはどこかに属したいという欲求を持つ〉ことがあることは認めています。
しかし、その場合であっても「グローバル・エリート」にとってのコミュニティは〈その他の弱く恵まれない人々の「コミュニティ」〉と交わるようなものではありません。
あくまで、彼らにとってのコミュニティは同質性を前提としており、能力主義的理念を根底に秘めた人ばかりの集合なのです。
これをバウマンはわかりやすくまとめています。
グローバル・エリートの生活世界Lebensweltの「コミュニティ」と、その他の弱く恵まれない人々の「コミュニティ」とが、ほとんど共通項を持たないのは当然である。二つの言語、つまりはグローバル・エリートの言語と置き去りにされた人々の言語で各々「コミュニティ」といった場合、その概念は、明確に異なる生活経験を集約するとともに、全く対照的な熱望を表現しているのである。
――前掲書
この話は現状「社会的成功者」ではなく、これから「社会的成功者」を目指す人にも当てはまります。
これに該当する人は、無意識だとは思いますが、孤独になることが「成功者」になる条件だと考えていることが多々あります。たとえば、ビジネス書のコーナーに行けばそれが顕著ですが、「成功哲学」のほとんどが孤独になることを奨励しています。そうすることで「才能は磨かれるのだ」といわんばかりにです。
一方で、多様な社会的ステータスの人が共存するようなコミュニティを「ぬるま湯」であり、「しがらみ」であるとし、敵視することが少なくありません。
●孤独を埋め合わせるコミュニティに必要な条件
昨今は、ここまで書いたような「能力主義」に懐疑的な言説をすると「社会主義者」「共産主義者」などという批判が出ます。現に私はそういう批判を受けたことがあります。しかし、この極端な二項対立こそがコミュニティの破壊を助長していると考えています。
バウマンの主張は、個人の能力や個性が最大限発揮できる自由は保証されるべきだが、その思想の際限のない拡張は社会を崩壊させるというところに要点があります。
バウマンいわく、人間は「自由」と「安心」の2つを必要とします。
近代的個人主義は、人々の解放の動員であり、自立性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、誰もが未来に責任を持ち、人生に意味を与えなければならなくなる。人生の意味は、もはや外側の何かがあらかじめ与えてくれはしないのである。(中略)個人化の過程の中で交換されるものは、安心と自由である。すなわち自由は、安心と引き換えに売りに出されている。
――前掲書
さらに、「能力主義」思想に傾倒した人間の恐ろしさについて彼は次のようにいいます。
この新興の有力者たちは、機略に富み、自信を膨らませていたが、かれらにとって、自由は、考えられる限りの安心の補償になると思われた。行動を制約する絆が多少でも残っていれば、それを断ち切り振り切ることが、自由と安心の両方の最も確実な製造法であることは、論を待たなかった。
――前掲書
「自由」と「安心」は交換不可能ですが、「能力主義」的な人は、自由を拡大し続けることで安心につながるというすり替えを行います。
確かに、ごく少数の人にはそのようなことができます。しかし、少数の人の自由を拡大すると抑圧される人が多数出ることを考えると、バウマンの主張に納得がいきます。
現代社会で再度コミュニティ形成に意欲を持つのであれば、「自由」と「安心」双方に気を配ることが最低条件となります。
特に「自由」に傾いている現代社会では、「安心」を如何に保証するのかが重要になります。現状、SNSというツールに孤独感を埋める力がないのはまさにこの「安心」を保証するものになれていない可能性が高いのです。
人々の孤独感を埋める「コミュニティ」には自由と安心の二軸の共存が必要なのです。