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漢字を開くか閉じるか問題から端を発した日本語のあいまいさ問題

フォレスト出版編集部の寺崎です。

書籍の編集の仕事(とくに最初の原稿整理)をしていて、地味に日々迷うことがあります。

それは「漢字を開くか・閉じるか」の問題です。

漢字を「開く」というのは、漢字で表現することです。たとえば「かんじ」ではなく「漢字」と表記する場合が「開く」。逆に「漢字」と表記する場合は「閉じる」といいます。

かつて某大手出版社の百科事典の編集をしていたことがあります。百科事典の表記統一はそれこそ鬼のごとく厳しかったのですが、当時は「開く」ケースが多かった印象があります。読みやすくするために漢字を開くのは現代の趨勢と言えるかもしれません。(この「言えるかもしれません」も「いえるかもしれません」の表記のほうが多いかも)

ふだんのメールなどでも、漢字が多いと重い印象が強くなるため、ひらがなで表現することが多いです。「◯◯様」ではなく「◯◯さま」。「致します」ではなく「いたします」といった具合に。

基本的に以下のような副詞や接続詞は開いた方が読みやすいと個人的には思います。

一層→いっそう
更に→さらに
既に→すでに
是非→ぜひ
時々→ときどき
何故→なぜ
従って→したがって
但し→ただし
又は→または

「色々」「様々」も「いろいろ」「さまざま」と開くケースのほうが最近は多い気がしますが、どうでしょうか。

ところが、全部が全部ひらがなにすればいいのかというと、そうはいきません。明らかに誤解を招く文章が生まれます。

こうした日本語の難しさ、面白さを論じた『世にもあいまいなことばの秘密』(ちくまプリマー新書)という新書がいまヒットしているという話を耳にして、手に取って読んでみました。

著者は言語学者の川添愛さん。専門的な本のほかに『働きたくないイタチと言葉がわかるロボットーー人工知能から考える「人と言葉」』(朝日出版社)、『ふだん使いの言語学ーー「ことばの基礎力」を鍛えるヒント』(新潮新書)などの一般向けの書籍を出されています。

今日はこの本をピックアップして、軽くご紹介します。

「この先生きのこるには」の解読

平仮名だけで書くと、どこが単語の切れ目か分からなくなることがあります。それを示す有名な例に、「ここではきものをぬいでください」というものがあります。この例は「ここでは きもの(着物)を ぬいでください」とも読めますし、「ここで はきもの(履き物)を ぬいでください」とも読めます。この場合、「ここでは着物を脱いでください」あるいは「ここで履き物を脱いでください」のように漢字を使って書くと、単語の切れ目が分かりやすくなります。

川添愛『世にもあいまいなことばの秘密』(ちくまプリマー新書)より

「ここではきものをぬいでください」

これには2通りの解釈があるわけです。

①ここでは着物を脱いでください。
②ここで履き物を脱いでください。

②の意味で書いたのに、突然着物を脱がれてしまっては困りますね。

もっとも、漢字と仮名が混じっていれば、つねに単語の切れ目が分かるというわけではありません。先日、誰かがネットに「この先生きのこるにはどうしたらいいか」と書いているのを見て、一瞬戸惑ってしまいました。というのも、私はこれを「この先生(せんせい)きのこるにはどうしたらいいか」と読んでしまい、「「きのこる」ってどういう意味だろう? きのこに関係する活動か何かかな?」と疑問に思ったからです。もう一度読んで、これが「この先(さき)生きのこるにはどうしたらいいか」であることに気づきました。「この先、生きのこるには」のように読点が入っていれば、私も戸惑うことはなかったでしょう。

川添愛『世にもあいまいなことばの秘密』(ちくまプリマー新書)より

こうした日本語のあいまいさから生じる不都合、笑いが、本書にふんだんに詰め込まれています。

あいまいな日本語を話すあいまいな日本人

「それは個人の問題ではないかと思う」
→「それは個人の問題だ」と言っているのか?
→それとも「それは個人の問題ではない」と言っているのか?
→わからん!(≧∀≦)

SNSで「まだ署名やってるよ」
→署名運動を揶揄して「まだやってるよ。やっても意味ないのに」
→「まだやってるから、みんなも協力してね」
→どっちの意味に取ればいいのかわからん!(≧∀≦)

「2日、5日、8日の午後が空いています」
→結局、どの日が空いてるのか、わからん!(≧∀≦)

このほかにも「だいじょうぶです」の多義的な使用法など、日本語を母語とする私たちにとって「たしかにこりゃ曖昧でわけワカメだわ」という日本語をたくさん知ることができます。そして、その言語学的構造を知ることで、ますます日本語の奥深さを知ることに。

ちなみに、いまちょうど日本語をテーマにした書籍企画を、英語を母国語とする著者さんと進めているのですが、日本に来た外国人がまず最初にとまどうのが、コンビニの店員さんとのやりとりで発生する「だいじょうぶ」だそうです。

あいまいな言葉で思考して行動するわれわれ日本人は、はたして「あいまいな人種」なのでしょうか。

ちなみにちなみに、先の著者さんから聞いた話では「最初は(たいていの外国人は)日本語特有のあいまいさに戸惑うし、いちいちイライラするけど、慣れてくるととっても心地よく、だいすきになる」とのことでした。

大阪弁の人が必ず語尾に「知らんけど」をつけるのが全国的に知られていますが、これも「責任をあいまいにする日本語の話法」のわかりやすい例ですね。

個人を消していく日本語という言語には、もしかしたら八百万の神々に委ねる宗教的な歴史が影響を与えてるのかもしれない。そんな歴史ロマン(都市伝説?)を感じたりも。

最後にこの本のカバー袖にも掲載されている、なんと4種類(!)もの解釈が可能な、日本語のあいまいさをいかにも象徴した一文をご紹介して、終えたいと思います。

質問:
「太郎が好きな人が多い場所」とは?

4種類の回答はみなさんそれぞれ考えてみてください。どの回答も日本語としてはけして間違った解釈ではないことに驚かされます。


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