ラップに限らず音楽、芸術はまともな人生を踏み外すためにある
フォレスト出版編集部の寺崎です。
「抗うこと」というテーマでこれまで何回かお伝えしてきました。ベースとなる素材は音楽ライターから転じて書評家として活躍している印南敦史さんの『抗う練習』という新刊です。
今日は一般的にはちょっとマニアックかもしれませんが、日本のヒップホップ界におけるレジェンドの「抗い」についてご紹介します。
本書『抗う練習』では「僕が伝えたい「抗う人」たち」という第4章に収録されている内容となります。
E C D から学んだ「抗い」
ECDさんをご存じでしょうか。本名・石田さん。
日本のヒップホップ勃興期に活躍した功労者です。
そのECDについて著者・印南さんが綴られた一節をご紹介しましょう。
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2018年1月24日、日本のヒップホップ・シーンを代表するラッパーのECDさん(石田さんとお呼びしていたので、ここからはそう表記します)が57歳で世を去りました。
がんにかかり闘病中だという話はそれ以前から聞いていたものの、訃報が届いたときには僕も大きな衝撃を受けました。この文章を書いているいまも、「もう、石田さんよりも長く生きてしまったんだな」という思いが頭をよぎっています。
石田さんは、日本にまだヒップホップが根づいていなかった1980年代後期に活動を開始した古参ラッパー。DJ機材メーカーのベスタクスによる「オールジャパンオープンDJバトルコンテスト」で優勝し、1989年には「CHECK YOURMIKE」という、MC(ラッパー)を発掘するイベントを開始。翌年にデビュー・シングル「Pico curie」をリリースして以降、地味ながらも着実に実績を積み上げていったのでした。また、1996年に国内ヒップホップ・イベント「さんピンCAMP」を主催するなど、シーンの育成のためにも積極的に動いていました。
そんな石田さんの人生は、まさに「抗い」そのものだったように思います。
たとえば国内アンダーグラウンド・ヒップホップの古典として知られる1
995年の“Mass Vs Core(Feat. You The Rock & Twigy)” は、「アンチJ-Rap ここに宣言」というパンチラインに明らかなとおり、“J-Rap” と呼ばれてポップ化しつつあった商業路線の国産ヒップホップに対する挑戦状でした。
またその一方、反原発、反レイシズムの活動にも尽力していました。対象がなんであれ、納得できないものに対しては正面から抗うスタンスの持ち主だったわけです。
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「ラップに限らず音楽、芸術はむしろまともな人生を踏み外すためにあると僕は信じていた」という一節が痺れます。
そしてその後、ECDが「アタックNo. 1 」という楽曲を発表。それは著者の印南さんが「抗いたいならさっさと抗えよ」と当時感じ、多大な影響を受けたそうです。
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僕も、石田さんから大きな影響を受けたひとりです。勤めていた会社の仕事にも満足できずにいた1990年代前半、「このまま抗わずに終わってしまうのは嫌だな。音楽ライターになってみたいんだけどなぁ……でも……」とウジウジ悩みつつ、行動に移すことをためらっていたのです。
そんなときに聴いたのが、1992年のファースト・アルバム『ECD』内の「アタックNo. 1 」。アルバム内でもあまり目立たない地味な曲ですが、初めて耳にしたとき、「抗いたいならさっさと抗えよ」と頭を叩かれたような気がしたのです。
「やりたいことがあるならアタック ボヤボヤしないで早く支度チャック上げて社会の窓ピシャッとシャットアウトお節介な御託 気にするこたない そうだよまったく 親泣かせるにもいらない屈託」
(「アタックNo.1」より)
リリック(歌詞)にはこのあとも、「そうだよなあ」と共感できるメッセージがたくさん詰め込まれていました。「せっかく生まれてきたのにちょっとの恥かくことを怖がってちゃいけない」とか、「誰も見てないし聞いてない 君は深く考えすぎだよ」とか、「一花咲かせてでっかく散ろうぜ」とか。
どれもベタすぎるくらいあたり前のことなのですけれど、当時の僕はその「あたり前」を忘れかけていたのです。いや、忘れたふりをしていたのかもしれません。いずれにしても、頭で考えすぎていたのです。でも石田さんのいうとおりで、やりたいことがあるなら動くしかないわけです。
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ECDさん自身、後年アルコール依存症で苦しんだ人でした。最終的にはガンで若死にしてしまったわけで、どこか自身の将来を予見したような切迫した想いが伝わってきます。
最後にECDが活躍した「さんぴんCAMP」の時代のレジェンドとなる名曲をご紹介して今日は終えます。
リリックはこちら↓