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倒産寸前の栃木の水道屋が業界シェアNO1になった奇策とは?

日本を席巻したタピオカブーム、アパレル業界に新たに生まれたワークウェアというジャンル。タピオカとスーツというまったく異分野で大ヒット商品を生んだのは、栃木の倒産寸前の水道会社でした。

タピオカとワークウェアのヒットを飛ばす前に、つぶれかけていた水道会社はある技術で業界シェアNO1に躍り出ます。まずは東京を制そうとしますが、名もない栃木の水道会社に東京の壁は厚く立ちはだかりました。

とにかく話を聞いてもらおうと、映画から着想を得た奇想天外な方法で打ってでたのですが・・・。

■黄金コンビの誕生

 どん底の毎日。こうして3年の月日が流れた。気力も尽きて、僕は営業活動をやめていた。最後はノイローゼのようになり、人と会うことも拒絶するようになってしまっていた。毎日のように公園でぼけっとするか、図書館で色々な本を読みあさっていた。
 ある日、用事があって市役所に足を踏み入れた。役所ってごちゃごちゃしてるなと見渡していると、あるポスターが目に飛び込んできた。
「助成金、申し込み受け付け中」
 助成金って、お金をもらえるということだよな。僕でももらえるのかな。そう思って窓口で聞くと、この助成金はきちんと申請すれば誰でももらえます、との返事。お金がもらえるのか。久しぶりに心が躍った。
 しかし、申請は複雑で難しい。諦めかけたが「助成金無料相談コーナー」というものがあると知った。早速相談にいくと中小企業診断士の資格を持っている、いかにも暇そうなおじいちゃんがいた。僕も暇だったので何日も通い、朝から夕方まで丁寧にひとつひとつ書き方を教えてもらった。そうして申し込むと50万円もらえた。
 お礼も兼ねて、再びおじいちゃんのところに行く。
「助成金って、他にもあるのですか?」
「たくさんあるのだけど、難しくて皆あんまり活用してくれないんだよなぁ」
「どんなに難しくても片っ端から申し込みます。頑張るので、教えてください」
 営業をやめた僕には、時間がたっぷりあった。それまで退屈そうだったおじいちゃんも、若者が頼りにしてくれるのが嬉しかったのか、喜んでトコトン付き合ってくれた。助成金をとりたい僕と、とらせるのが仕事のおじいちゃん。黄金コンビの誕生だ。
 元優等生の僕は、本領を発揮した。コツを掴んでどんなに難易度の高い申請もクリアする。片っ端から様々な助成金の取得に成功していく。もっとも、ただ出せばとれるというものではない。高額な助成金の申請には、新たなビジネスモデルを生み出さなければいけない。僕は、おじいちゃんと知恵をふりしぼって、連日様々なアイデアを話し合った。
 産学連携にからむ共同研究の助成金の話があった。宇都宮大学の工学部と連携したビジネスモデルに、数百万円の高額な助成金が出るというのだ。目をつけたのは大学が研究していたオゾン。強力な殺菌力があるが、原料は水と空気。一切薬品を使わない。オゾンで水道管のなかを殺菌してきれいにする次世代の水道管メンテナンス事業。
 おじいちゃんと練り上げたそのプランは、助成金を見事ゲットできた。その後大学の研究室と連携し、住宅やマンションで試験を何度も繰り返した。そして実用化に成功する。会社の名義で特許も出願した。
 大学や市役所、県庁でも、次第に僕の名前が轟いていく。またあいつか。ある日、栃木県庁の偉い人がやってきた。
「関谷さん、お願いがあります。そのビジネスをひっさげて、経済産業省がやっている国の助成金に挑戦していただけませんか。難易度も倍率も非常に高いのですが、関谷さんならいける気がするんです。県内企業が採択されれば栃木県の大きなPRにもなります」
 県庁の人たちが全面支援してくれた。市長、県知事、大学の学長も応援してくれた。そして、なんとか最終選考に残り、東京の大きなホテルの会場で大臣たちの前でプレゼンをした。そして、結果は……。
 見事、採択された。北関東初の快挙だった。新聞にも大きく取り上げられ、地元のマスコミは僕を「栃木の若きカリスマ」と持ち上げた。
 その後、県の水道局からの受注を皮切りに、オゾンによる水道管メンテナンス事業は拡大していく。倒産寸前の水道屋は新規事業の成功で急成長していった。
 僕は事業立案のイロハのほとんどを無料の相談コーナーで学び、事業開発の資金のほとんどを助成金でまかなってきた。
 しかし、いいことばかりではなかった。元気になって前線に戻ってきた父親と、連日衝突するようになっていた。僕の博打 のようなやり方は危なっかしく見えたようだ。実際、周囲から見るとかなり強引な部分も多かった。そして社長は父、僕はあくまでも専務。特許も会社の代表である父名義だ。
この日も激しい口論が続いた。
「おまえは自分ひとりで偉くなったつもりかもしれないが、勘違いだ。祖父の代から築いてきた家業の歴史がある。それがあるから、皆信用して応援してくれているんだ」
「そんなことはない。俺が全部やったんだ」
 父と僕は口論が絶えなくなった。ある日、僕は父にタンカを切った。
「引退するか、俺を首にするか、どっちかにしてくれ」
「お前はまだ何もわかってはいない。この会社を継ぐには早過ぎる」
 父は親の深い愛情で、僕のことを心配してくれていたのは痛いほどわかっていた。しかし、僕は焦っていた。
 30歳までにとことん自分を追い込んで、勝負をしたかったからだ。話し合いはずっと平行線。そうして僕は父の会社を辞めることをひとり決意した。
 一度決めたら、絶対にやらなきゃ気がすまない性格を父はよく知っていた。最後は父も理解してくれた。後はなんとかすると反対に背中を押してくれた。そして、会社設立のための資金のほとんどを何も言わずに貸してくれた。

■二階堂小百合って誰だ

 再び東京に出た。起業するなら東京で勝負をしようと決めていた。ちょうど六本木ヒルズがオープンした頃でITバブル全盛だ。ドラマのようにキラキラして見えた。ミーハーな僕は六本木ヒルズが見える西麻布の外れのマンションの一室を借り、住宅兼事務所として会社を設立した。
 社名は、「オアシスソリューション」。楽園を目指してオアシス。IT企業のようにシステムの「SYS」と「SOLUTION」をくっつけてなんとなくカッコつけた。2006年、28歳の時だった。とりあえず勢いで起業はしたものの、何をするかは決めていなかった。
 さて、事業は何をしようか。色々考えたけれど、自らが手掛けた水道管メンテナンス事業に未練があった。東京には星の数ほどマンションがたくさんある。
 ビッグビジネスとして花開く可能性がある。
 上京しすでに2か月ほど経っていた。いったん地元に戻り、父に頭を下げた。
「あの事業を東京でやらせてほしいんだ」
「わかった。おまえの会社を東京での代理店にしてやる」
 父はなんだか少し嬉しそうに見えた。
 そして事業はスタートした。営業活動をはじめようと思ったけれど、この砂漠のような東京で、ひとりでの営業は寂しい。求人費もないので、ハローワークに行って、無料で社員募集をかけた。
「六本木ヒルズ近くの西麻布の会社、オープニングスタッフ募集」
 おしゃれっぽさに誘われたのか、同じ年の元気な女性が応募してきてくれた。名前は馬場といった。ふたりでマンションの管理会社に営業をかけた。
 朝から晩まで飛び込み営業。そして、移動の合間にテレアポ。でもまったく相手にされなかった。運よく話を聞いてくれても……。
「ところで実績は、ありますか?」
「栃木では、たくさんあります」
「いいえ、東京での実績です」
「それは……」
 ふたりは、途方に暮れた。
 その時、映画のあるシーンをヒントに、とある営業のアイデアを思いついた。若気の至りというか、今思うととんでもない手法だ。それぐらい八方塞がりで追い詰められていた。どうせ今だってダメダメだ。後悔するならやってから後悔しよう。
「馬場ちゃん、君は今日から、二階堂になってくれ」
「に、二階堂???」
「そして、俺の第一秘書になってもらう。秘書役のビジネスネームが『二階堂小百合』だ。なんか漢字三文字の苗字ってもっともらしいでしょ。あ、そうだ、『伊集院』でもいい。好きなほうを選んで」
「あの、意味がわかりません……」
「ビジネスネームは芸名みたいなもの。某大手レンタル会社で実際に採用しているところがある。社員2名の会社で秘書がいちゃいけない決まりはない。まあ、第二秘書はいないけど(笑)。俺がシナリオを書くから、馬場ちゃん、何も言わずにとにかく練習してくれ」
 まずは馬場ちゃんが営業をかけたい会社の代表番号に電話をかける。
「お世話になっております。わたくし、オアシスソリューションで代表関谷の第一秘書をつとめております二階堂と申します。○○不動産さまのお役に立つ貴重なご提案があり、関谷が直々にお伺いしてお話ししたいと申しております。秘書室に繋いでいただけませんでしょうか」
 オアシスなんたら社、もちろん聞いたことがない。でも、第一秘書と言っているし、二階堂という名に風格を感じたのか、馬場ちゃんがたくさん練習したかいがあったのか。そうしていくつかの会社の社長や役員にアポがとれた。
 オゾンによる水道管メンテナンスは、実際にマンションにとっては凄く役に立つ技術であった。このアポをきっかけにとある中堅会社が興味を示してくれた。
 そこの社長の指示で、その会社の技術部長が出てきた。部長はゼネコンあがりで、見た目は強面だ。いかにも昔悪かったんだろうなという雰囲気。
「おい、第一秘書なんてデタラメだろ。いい根性しているな、お前」
 怒られると思って土下座しようとすると、部長は満面の笑みで大笑いした。
「面白い、気に入ったよ。おい関谷、飲みに行くぞ」
 その後、幾度となく飲みに連れて行ってもらって、弟分のようにかわいがってもらえるようになった。そうしてある日、部長の親しい管理組合の理事長を紹介してもらえることになった。はじめは無料のお試しからスタート。結果は大成功。そして、そのマンションで正式に採用された。
 夢にまでみた、起業してからの初受注だった。

■3・11から学んだこと

 マンションでの初採用が決まってから、その後評判が評判を呼ぶ。その実績を皮切りに次々に商談が決まる。事務所が手狭になり、何度となく引っ越した。2年目には大阪進出。3年目には、福岡、名古屋、仙台など全国7拠点を持つようになった。株式の上場話が持ち上がった。監査法人とも契約して、証券会社と上場準備がはじまった。
 そして、2011年3月11日を迎える。そう、あの大惨事が起こるのである。
 東日本大震災は当社の事業にも大きな影響があった。幸い潰れるほどのダメージではなかったが、株式の上場準備はストップした。でもそんなことより、もっと大変な人がたくさんいる。人、建物を大津波が飲み込んだ。多くの方が亡くなってしまった。色々なことを考えさせられた。
 社会人になって10年近く、毎日走り続けた。ゆっくりと自分を見つめ、今後の人生や経営のあり方について深く考える時間を持ったのは、思えばはじめてだった。震災から自分なりに得た教訓がふたつあった。
 一つ目は、事業がひとつしかないと、突然の大きな社会変化に弱く、頼りないということだ。実際、震災の影響で、水道事業の売り上げは一時的だが激減していた。事業を複数にしたい。理想は3本の柱をつくることだ。できれば、いつの時代にも普遍的なテーマである衣食住に関する事業がいい。
 二つ目は、人生は、はかない。いつ死んでも悔いのないよう、様々なことにチャレンジしなくては、ということだ。多くの方が亡くなった。無念だっただろう。自分は今回生かされたが、明日何が起きてもおかしくはない。
 もし、水道以外にも心の底からやりたいことが見つかったら、ひるむことなくチャレンジしよう。
 そうひとり心に決めた。
とはいえ、何かやりたいことがあるわけではない。今は目の前の水道事業だ。
 全国展開に続いてアジア展開を目指した。シンガポール、香港、韓国などの市場調査をしていく。
 そして、台湾。ここで、人生が大きく変わる予想もつかない出会いが待っているとは……。

※本稿は『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(関谷有三 著)より抜粋したものです

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(編集部 杉浦)

Photo by Alexander Andrews on Unsplash


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