『努力不要論』という鈍器で殴られろ!
ふとしたきっかけで、5年以上前に編集した『努力不要論』を改めて読んでみたのですが、心に痛い!
なぜかというと、「稼ぐ」「儲ける」「役立つ」「好かれる」「○○ハック」「○○の方法」など、いかにもなビジネス書をつくってきた身としては、「鈍器で殴られたような」というと言い過ぎですが、冷水を浴びせられるような気持ちになったからです。
本書では、そうしたビジネス書的な言葉を「野蛮」と一刀両断します。
著者はベストセラーを連発している脳科学者の中野信子先生。経歴を見れば納得いただけると思いますが、正真正銘の「天才」です。そんな人が「努力不要」と主張する本書の「暴力性」はインパクト大。
「毒にも薬にもならない本なんか出す意味がない」とばかりに強かった、当時の編集者としての反骨精神を思い出した次第です。
ただ、コロナ禍で必死に生き延びようとしている飲食店の経営者や従業員をはじめとしたビジネスパーソン、劇場やライブハウスなどのエンタテインメント業界に関わっている人たちからみれば、目下「努力しなければどうにもならない」状況かと思います。あるいは「努力しようにも何もできない」のかもしれません(もちろん、それは努力やアイデア、危機管理能力の不足ではなく、コロナの影響、そして少なからずその後の政府の対応が招いたものです)。
そうした方々に対しては、正直なところ本書の内容は響かないと思います。
ただ、飲食店や演劇関係の人に対して「そんな仕事を選んだのは自業自得」「自己責任」「マネタイズするための発想がとぼしい」「国にたかるな」などと訳知り顔で語る言葉をSNS等で見かけましたが、彼らにこそ本書という鈍器で殴られてほしい。生き方の指針が合理性、損得に大きく偏っている自身の野蛮性に気づいて恥ずかしくなるはずです。
以下、『努力不要論』の中から、「努力する人間は野蛮だ」と主張している箇所を一部抜粋・改変して掲載いたします。なかなか見かけることができない主張のはずです。
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役に立つことしかしない人間は家畜と同じ
日本人の勤勉さは美しいものです。
が、なぜ美しいものと映るのか?
それは、他者(あるいは諸外国)にとって、都合のいいものだからです。勤勉さを尊ぶ気風があってもいいとは思いますが、前述したように「日々の生活を楽しむ」という遊びの部分を見失わないでほしいと思います。
よくこうしたお話でやり取りをするのは漫画家の江川達也さんです。江川さんは「欧米風の合理主義は野蛮」と言います。
私は江川さんの考え方に八割方賛成しますが、じつは、欧米人にも合理的ともいえない部分があります。土着の遊びだったり、まじないだったり、要するに一見役に立たない無駄な部分を許容する余裕があるのです。
人間なので、合理的に行動しないほうがむしろ当然ともいえます。じつは、人間以外の多くの動物のほうがずっと合理的に行動します。エサを取る、子孫を残す、生き延びるために可能なあらゆることを試す。一見、損をしかねないような非合理的な意思決定をするというのは、人間に独特のもので、高度な機能なのです。
もし欧米の友達がいたら、人間としては共通の部分が多いということにすぐ気づくでしょう。巷で言われているほど彼ら自身は合理的でもなく、違うのは社会通念なんだ、と感じることができると思います。
日本人と欧米人の交流は、とくに幕末から明治期にかけては技術や知識といった「役に立つ部分」でのやり取りが主だったのではないでしょうか。
これからは、非合理的な部分・役に立たない部分での交流がもっと必要です。規模が大きいものでは儲けを度外視したアートや、政治に利用されない思想です。
ところが今は、すごく野蛮なところ、すぐ結果が出るものだけによる交流がほとんどです。
アートやポップカルチャーも、現在は市場拡大を期待される売り物として利用されている。これはこれで国の戦略の大きな流れとしては間違ってはいないと思いますが、そうでない部分、本当に魅力的な部分がついていけるのかどうか。
野蛮というのは要するに「役に立つ」とか「儲かる」ということです。
役に立たないところをリッチに
私たちは明治以降、欧米人たちに対しても、野蛮な態度で接してきてしまっているのだということを知らねばなりません。
「何かあいつ好きなんだよね」とか「一緒にいると楽しいよね」という理由で欧米人とやり取りしている人は少ない。これでは、コミュニケーションとしてはとても貧困ですし、もったいないことです。
欧米人たちは日本が役に立つかもしれない国と思って接し、一方私たちも、この人はあとで役に立つから仲良くしておこうとか、野蛮な次元でのやり取りが主なのです。それが、仕事上だけでの付き合いというものです。
要するに、一般的に努力というと、多くの人が注目するのは野蛮な部分になるわけです。すぐに結果が出るかどうかに目を向けてしまう。
お金儲けをしよう、勉強できるようになろうというのも同じです。自ら「役に立つネジになろう」「役に立つ歯車になろう」と思ってしまう。有限の時間しかない人生なのに、そんな努力をして本当に楽しいのだろうか、と私は思います。
そもそも、役に立つネジになるための努力は誰にでもできます。目的が明らかで戦略も多く示されているのですから、実行すればいいだけ。すでにレシピがある料理を、そのとおりにつくればいいようなもので、簡単なことです。
本当に難しいのは、役に立たない部分をリッチにしようとする努力です。
この不景気に何を言っているのだ、と言う人は多いでしょう。でも、そういう反論をしてしまうことこそが野蛮です。役に立たないことができるのは、人間が高度な文化を持つ証だからです。
そして、長期的に見たとき、即座には役に立たないように見えるけれども心惹かれる事物、というのが、最も人類の未来に資するものなのです。
エジプトのピラミッドも中国の莫高窟の壁画もロシアのボリショイ・バレエもウィーン・フィルもゴダールの映画も手塚治虫の漫画も、生きていくうえではまったく必要のない、場合によってはぜいたくな事物です。しかし、だからこそ、人間そして人類にとって、大切なものなのです。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(編集部 石黒)
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