想像力によって、
想像力によって、私たちはこの磐座に命を感じることができる。
想像力によってこの現実は生きるに値する。想像力をもって私たちは生きることに耐えうる。想像力がなければ私たちは失われたものを悲しむことができず、失われたものが喜びに満ち自由に飛び回っていると思い込むことすらできない。死という究極が宿命として備わった生命は、想像力を持つことで死後を想うことができる。すなわち不死となる。
想像力によって、私たちの大切な彼女は苦しみから放たれ、自由に飛び回り、泣く私たちを見て不思議そうに微笑む。想像力によって、私たちは喪失感を抱えたままでも日常を過ごすことができる。想像力によって、私たちはこの先の未来という何も約束のないものを、どうにか信じて、一日いちにちを歩み進めることができる。
想像力によって、彼女がものすごいスピードで地球の中心に向かって身を投じ、その行動によって大いなる浄化を起こそうというのが分かる。私はそのビジョンを聞いた時、肉体を持っている私たちという醜悪さ重さ煩わしさを、諦めないでほしいと伝えた。それは私のエゴだけど、大いなる目的があったとしても、自分を犠牲にすることはもうこの宇宙には必要ないと思ったから。
それも全て、想像力が故であるし、想像力の欠如からきてもいる。その時誰が何を考えていたかなんて、本当の意味では誰もわからないのだ。そこにはどんな正解もないし、あらゆる後悔と諦念が立ち込めている、それは、突然誰かがいなくなってしまうことの宿命であるからだ。
死はどんな言葉でもまとめることができない。分散的に想像力によって語られることしかできない。増大したエントロピーを抑えることができなくなった肉体は、その後どのように私たちと共にあるのか。それもまた、想像力によってしか、大いなる推測と期待と後悔と諦念を込めて、語られるしかできない。
愛について語るのは、もう少し後で。