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「喫茶 行動と人格を」読んで振り返る

素晴らしい漫画を読んで、最近起きた出来事についてこちょこちょ考えてみた。

最近、「出来事を許せても、それをやった人自身は許せねえな」と感じることがあった。数年を遡ること、ある女性に不条理なほど口汚く罵られたことがあった。その時期は、客観的に見ても私はその人に「意地悪」をされている状態だったらしく、第三者からもそのように言われたりもしたのだが、私はその間その人と仕事をしていたので、違和感や不快感を覚えながらもプロジェクト完了まで走った。

で、その後。スパッと縁を切るに切れない事情があり、ご縁は続いていたのだが、つい最近、しがらみを手放せるような状況に来たので、最後の連絡として、久しぶりにご挨拶のLINEを送ったのだった。その中では、彼女が行ってくれた大きな助けについて感謝を述べて、お元気でお過ごしくださいとお伝えした。

黙殺されるかと思っていたけれど返事が来て、そこには「自分も感謝している、どこかでばったり会った時には普通に話せますように」的なことが書いてあって、私はなぜかショックを受けた。それを読んだら、なんとも言えない違和感と不快感が下腹部から迫り上がってくるのを感じた。ものすごく気持ち悪いと思ってしまった。彼女は私に罵倒を繰り返しただけでなく、その周囲にもかなりのネガキャンを行って、私がやった仕事の評価を意図的に失墜させ、私は当時かなり頑張って仕事をしたにも関わらず、彼女は色々とストレスを私にぶつけるような行動を繰り返し、挙げ句の果てには嘘を盛り立て私を「邪悪」と「失敗の原因」と吹聴した。その出来事は私にとって大きな傷となり、そのせいで大事なつながりを失ってしまったし、しばらく落ち込んで非常に苦しい思いをした。「頭がいいと思って鼻にかけている」喋り方をする、と言われたことも非常にショックだった。なぜなら、私は人に会うときに頭が良いとか悪いとか、そういう分類をしてコミュニケーションを取らないからだ。青天の霹靂でぶつけられた言葉は、私に私自身を疑わせてしまった。しかも、その人は「自分は相手のためにやっている・自分はライトワーカーである」という文脈で、「学びを与えている」というスタンスで、自分のストレス解消を他者にぶつけることを正義と考えている人だった。私は自分のサイキックな部分をフルに活動させて自信を持っていえるけど、他人を意図的に傷つけるのは、絶対にライトワーカーではない。今思えば彼女は私を自分の支配下に置けないことにフラストレーションを感じていたと思う。このへんは推測に過ぎないけれどね。

色々思い出すと腹も立つけれど結論としては、私はその出来事があって、当時ボロボロだったがよりボロボロになって先行き不明になって途方に暮れた。けれど、おかげで沖縄を出ようと思うきっかけにもなり、自分がどんな仕事に向いているのかを考え直すきっかけにもなり、結果ググッと蓋をされたものが発酵して爆発したみたいな感じで、現在めちゃくちゃ元気になった。その人の周囲に捨てられても、別の友達たくさんに支えられ感謝しかないし、今かなり幸せなので、あの出来事が起きたことを受け入れるようになった。冒頭で書いた、「出来事を許せても、それをやった人自身は許せねえな」というのは、出来事を許す、ということは起きたことを受け入れる、それが起きたから今があるのだ、と大いなる流れの中で捉え直すことだ。それは今を肯定することで自分自身を肯定することだと思う。それに対して、人を許す、というのはその人の事情などを含めた相手の人格の部分への評価であるため、その人に開示されたわけでもないので、私は全くその人の事情に介入する必要はない。その人も色々あるのだろうな、というのは当然ながらわかる。でもそれが?人間生きていれば色々あるのだ。こっちが相手の事情を汲んであげて、自分の中の違和感を無視してまで相手を許す必要なんてない。そして、それをやってしまうと、自分をより傷つけてしまう結果になる。

というわけで、自分自身で判断を行うとき、私は、「自分の問題に無自覚かつストレスを正当化して他者に意地悪をぶつける人」を「性格が良くない」と感じるのだというシンプルな事実に注目する。性格悪い人と付き合いたくない。なので、私は社交辞令として「そうですね、いつか普通にお話しできたら嬉しいです」なんて絶対に言わない。速攻ブロックしたわ。私は、私のことがとても大切なので、無自覚にナイフを振り回した挙句、相手のせいにするような人とはお付き合いしないのだ。でも、人格と出来事をごっちゃにして、いつまでも過去の出来事に囚われて自分を不快にすることはしないし、「その人」について考え続けることもしない。なぜなら、私が知っている「その人」は、あくまでも過去の一時的なその人に過ぎなく、今のその人に全く興味がないし私には関係がないからだ。「出来事を受け入れても、それをやった人自身は受け入れない」という結論が出たところでスッキリ爽やか。もう今日の昼ごはんは何を食べよっかな、とか好きな音楽でも流しながら洗車に行こうかな、とか、楽しいことに意識が向かう。

というようなことを、漫画を読んで整理して考えたので、書き残してみた。感情というのは違和感を浮き彫りにするためのセンサーであり、それに溺れるためのものではないことがよく分かってきた。ま、感情に溺れるのってドラッグ的な気持ちよさ(ドーパミン)あるので、中毒になりやすいんですけどね。

他者と自分の健全な境界線を求め、かつ、自分をとびきり大切にするコミュニケーション方法が知りたいなら、ぜひ「喫茶・行動と人格」をお読みくださいませ。かしこ。

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